四節
習慣というのは、ありがたくも恐ろしい。
出かけるときにはすっかり暗く重い気持ちになっていたものの、でっぷりと太ったさんまが四匹買えたことで、あたしの足取りは軽いものになっていた。
しかも、下あごが真っ黄色になってるやつ! お腹のふくらみ具合もよく、脂ものっていそうだし、これは夕飯が楽しみだなぁ。
今の生活になって完全に社会と隔絶した毎日を送っていると、自然と食べることくらいしか楽しみがなくなってくる。どんな状況でも楽しもうとするのは、もはや生き延びるための癖みたいなもの。人間、何かにすがりついていないと生きていられないもの。
近所のスーパーから帰る道すがら、るんるんでステップを踏んでいると。
「――あ! ぁああああ!?」
やばい。これは、もしかしたら。
あたしは唐突にあることに気付いて、買ったばかりのスーパーの袋を道のど真ん中でガサガサあさり始める。
「うあー……やっちゃったよ」
誰も聞いていなくても、声は出るもんだ。誰に聞かせるわけでもないけど。
そんな後悔とともに、がっくりと全身の力が抜けてしまった。
なんてことだ。美女にはイケメン、剣士にはヒーラー、ツイッターには炎上。それくらい必須アイテムの、「サンマには大根おろし」を買い忘れるなんて。
もう道も半分くらい戻ってきてしまった。脳内のご近所スーパー用MAPを広げるも、戻るよりコンビニの方が近い。けれど、大根おろしにはそれなりにこだわりのあるあたしは、コンビニで妥協できない。
たかが大根おろしって? それは甘い。青首大根の葉に近い部分、しかもたっぷり厚めに皮をむき、葉の鋭いおろし金でゆっくりと大きくおろす。そうすると、大根特有の辛みがおさえられ、なんとも味わいがまろやかな極上の大根おろしが出来上がる。
サンマには、ピリッと辛い大根おろしが合うという諸氏もいるだろう。それも一理ある。だが辛い大根おろしはサンマの繊細な旨味を上回る刺激になってしまうというデメリットもあり、サンマというよりは、サンマのお汁が浸み込んだ大根おろしを食べている気分になってしまうのだ。
「……うん、戻ろう」
脳内でアホな大根おろし談義を強制終了させたあたしは、あきらめて足をスーパーの方角へと戻す。
えー。今から戻ると、どれくらいの帰宅時間になるかな。ママは怒るだろうな。ママの大好きなマレービスケットが食べられなくて、イライラしながらテレビに向かって罵詈雑言を吐いているに違いない。つくづく暇な人だ。
も~とにかく急がなきゃ……!
正規ルートは「悪魔の踏切」と呼ばれる、長時間待たされる踏切を渡らなければならない。荷物が少なかったら階段を上って横断歩道橋を使うのも手なんだけど、あいにく今は両手にいっぱいの荷物。帰り道だから一度だけ我慢して歩道橋を使ったけど、何度も階段を往復するほどの元気は、ない。
「気は進まないけど、しょうがないっか」
踏切を渡らないルートも、あるにはある。けれど、そこには一つ重大な問題があった。
……あたしは、あまり方向感覚がよろしくない。
どんな家事でもパーフェクトにこなす自信だけは(悲しいながら)身についてしまっていたけど、道だけはどうも覚えるのが苦手だった。なぜならばあたしは学校と家の往復のみしか許されず、遠出などせず、せいぜいスーパーに行くくらいの外出経験しかなかったからだ。あたしにとって、外の世界はあまりにも小さく、狭かった。
しかし、遠回りする正規ルートより、なんとなーく覚えている近道の方がはるかに時間が短縮できるのも事実。
あたしは重いレジ袋を持ち直しながら、よしっ、と小さくつぶやいて気合を入れなおし、まっすぐ行くべきところを左に曲がっていった。
早く帰らなきゃ。とはいえ、まだまだ日の高い時間帯。
ようやく日が高くなってきて、ぽかぽかとあたたかい外の気温はお散歩にはちょうどよかった。どうせ早く戻ったって何かてきとーな細かいことでお小言を言われるのは目に見えている。開き直って、せっかくの外出を楽しもう。
こうあたたかいと心配するのがサンマちゃんのことなんだけど、念のため大量の氷を入れておいたから、すぐに腐る心配はない。
その分重くなってしまっているのは……考えると辛くなるから、頭から追い出しておこう。
コンクリート塀の上から、立派な柿の木がこちらを見下ろしていた。全身にたっぷり、橙に色づいた立派な果実を実らせていた。鳥がつつくのも寛容して、秋の恵みを振りまいている。
右手側にはずっとまっすぐに用水路が流れており、清涼な水がさらさらと流れていた。秋晴れの空色を映し出して輝く水の中には、小さな魚たちの背びれが木の葉のように揺れている。たんぽぽの綿毛がふらふらと水面に漂い、そのまま川に触れて流れて行った。
「秋だなぁ」
ここしばらく雨続きで、こんなによく晴れたのは久しぶりだ。
今の時期が一番いいなぁ。春も好きだけど。あたしは持っている服が多くないから、本格的に寒くなってくると、命にかかわるような思いをする。冬の買い出しなど本当に願い下げだ。道の途中で氷像になってしまうと思ったことも、一度や二度ではない。
少し汗ばんだ額を、ぐいっと袖で拭う。さすがにちょっと喉が渇いたし、疲れてきた。道の途中でコンビニがあったはずだったけど……たぶん、こっちかなぁ?
「フッ、あたしももう十六よ。そろそろ方向音痴からは卒業ね」
買い出しの途中でコンビニに寄ろうなんて、あたしも悪くなったもんだ。
あたしは自信満々に、途中の道を左に曲がる。根拠? もちろん、なんとなーく、だ。
だいじょぶだいじょぶ! 道はすべてつながってるのよ!
もはやコンビニで飲み物を買うという目的しか見えなくなったあたしが――その後、道に迷うことは、三十分前に気付くべき事実だった。