表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/54

三節

「…………?」


 あたしの覚悟を、あざ笑うかのように。


 痛みの瞬間はいつまでも訪れなかった。


 おそるおそる、目を開ける。


「……ぅはっ?」


 我ながら、情けない声が出たもんだ。


 ママは、憤怒の鬼のような顔で右手を振り上げたまま固まっていた。


 時間が、停止している。そう表現するのがぴったりな状況だった。


 それでも、あたしは動ける。頭を守るために上げていた腕を下ろし、訳の分からないまま四つん這いになってカサカサっとその場から退避した。


 どくどくと、極度の緊張と混乱で耳の奥がうるさい。


「ま……ママ……?」


 触るのも怖いけど、ずっとこのままで般若像みたいなのができても困る。あたしはぷるぷると震える指先で、なんとか、ママに触ろうとした。


 途端、ママの肩とあたしの指の間で、ぱぁっとピンク色の火花が目の前で弾ける。そのきれいなきらきらした光はあたしに降り注いで、肌でジャンプして、きんと冷たい感触をこぼしていった。


 どうしてか、その光を見ていると。


 泣きそうになっちゃう――


 ――ぱちんっ!


「あぁあっ! ぃいだいッ!」


 ゴムが弾けたような、甲高い音。そしてヒキガエルのような、ママの悲鳴。


 唐突に時間が動き出した。ママは、どばたーん! と素晴らしい勢いで尻もちをついて、顔を真っ青にしている。赤から青に、忙しい人だ。


 あたしはもう、混乱の極み。自分の右手を広げて、じっと視線を落とす。ピンク色の光は消え去って、肌にためらいのような冷たさだけが残っていた。


「あぁあぁぁんた!? 一体何したんだ!」


「しっ、知りません!」


 本気度100%の回答にも、しかしママは満足いただけなかったらしい。何が起きたかなんて、むしろあたしが聞きたいのに。


 時間が止まった? 世界がバグった? そんなことママに言っても説得力ゼロだ。説明してるあたしの方が頭がおかしいように、自分でも聞こえる。


「うっるさいなぁ~こんな朝からぁ」


 うわ、余計なのが……いえいえ。飯縄家のお嬢様、あたしのお姉さま(そう呼ばないと怒る)、香苗が起きてきた。


 さすがにこんなどったんばったんしていたら、寝てなんかいられないよね……社畜で体力ボロボロのパパは、こんな中でも寝ているみたいだけど……


 香苗は根元が黒くなってきた金髪をボリボリかきながら、キッチンで座り込んでるママと、呆然と突っ立っているあたしを交互に見た。それからようやく、ママに近寄っていく。


「何やってんのママ、新しいエクササイズ?」


「そんなわけないでしょう!? また(・・)よ、この疫病神は!」


 そう。“また”。


 あたしの身の回りで、こんな不思議な状況はもはや通常営業だった。正直、気付けば当たり前のようにしょっちゅう起こっていること。


 誰かが転ぶ、誰かのお皿が割れる、誰かが小指をぶつける。


 あたしだって最初こそは、ただの偶然だと思っていた。その人の不注意、あるいは不幸な事故。それでもあたしは、どうしても、認めたくないひとつの事実がついて回っていることも忘れられなかった。


 そのような不幸に見舞われた人はみんな、あたしを傷つけ、害しようとした人たちばかりだってこと。


 だから同情はできなかった。でも、嫌な人たちが原因不明の不幸に見舞われたからって……それで気持ちが晴れるわけ、ないでしょう?


 もちろん、傷つけられるのは怖い。悲しい。腹が立つし、何より、寂しい。


 それでも――誰かが傷つくのを見るほうが、苦しい。


「大丈夫ですか、ママ……?」


 おずおずと差し出す手。しかしそれは、とんでもない憤怒の表情をしたママに、ばしりと払われた。


「触るな、不幸が移る! ああ、もうこんなことなら五年前に引き取るなんて言うんじゃなかった!」


「うっわウケ~ママだって保険料たっくさんはいるって喜んでたじゃーん」


「金は金、気味悪いもんは気味悪いんだよ! ああもう、さっさと食事作ったら買い出し行ってこい! 掃除も忘れるなよ!?」


「……はい……」


 きっちり家事は押し付けるんですね、とは口が裂けても言えず、あたしは素直にうなずいた。


 どうして、あたしばっかり。


 何回もそう考えて、考えるだけ無駄だって絶望して、考えることをやめただろう。


 香苗に支えられながらキッチンを出ていくママの広い背中をみながら、あたしはぎゅっと自分で自分を抱きしめた。


 ――あたしは、自分を信じてる。


 自分だけは、自分を信じなきゃ。誰も信じてくれない。誰も求めてくれない、誰も信じてくれないんだから。


 だから、あたしはあたし以外を信じない。


 さっきのだって、疲れすぎたあたしがめまいを起こしたのだろう。うん、そうだ、きっとそう。めまいを起こして目がおかしくなった人は、目の前に火花が散ったみたいに目がチカチカすることがあるって聞いたことがあるもん!


 そう。だから――


 あたしのせいじゃない。あたしの、せいじゃないのに……


 あたしに関わる人はみんな、いずれ離れていく。お前は気持ち悪い、お前に関わるとろくなことがないって呪いの言葉を吐いて。


 年々、息をするのも苦しくなってくる。考えちゃダメなのに、「なんのために生きているの」って叫びだしたくなってくるのに、逃げる勇気もない。


(……ああ、そういえば)


 一人だけいたっけな。あたしに怒らず、初めて笑顔を向けてくれた友達が。


 でもそれは中学のこと。順調に高校へ進学した中学生と、家で奴隷よろしく家事に追われているニートなんて、会える機会なんかない。


 もう顔すら忘れてしまったかつての友人を夢想しながら、あたしは一人朝食つくりの続きをするしかなかった。


 やがて家族全員ぶんの朝食を作り、みなが食べ、その残りをキッチンで一人食べて。そんな嫌な朝が終わると、家中の掃除機をかけて、洗濯物を干して……バタバタしながら家事を終わらせ、買い出しのためにがま口を引っ掴んで靴を履いた。


「……じゃあ、行ってきます」


 リビングに向かってそう言うも、ママはテレビにしか目線がいっていない。返答のないことはわかっていても、一声かけないで出かけるとあとでうるさいのだ。


 青色のがま口を、ぱかっと開く。三千円……これで、家族三人分の朝食と夕食を一週間回さなくてはならないのだ。足らないなんて言ったら、何をされるかわからない。


 重い扉を開けて外に出れば、ひゅっと冷たい風が顔を撫でた。寒いのは嫌いじゃない。寒すぎるのは嫌だけど、これくらいの温度は背筋がしゃんとして気持ちが落ち着く。いろいろなことでぐちゃぐちゃな心が、冷やされていくみたい。


 外に出て空を見上げれば、今日はよく晴れていた。うっすらと白い雲がぽつりぽつりと流れていくだけで、どこまでも吸い込まれそうなほど青く突き抜けていた。


 お父さん、お母さん。


 二人が死んだ朝も、こんな風によく晴れていたんだって。


 どうして置いていったの、なんて恨み言を言えるほどあたしは二人のことを覚えているわけじゃない。五歳前後に何かあったはずだけど、それ以前を覚えていないってことは、よっぽど忘れたかった記憶なのかな……


 外気にさらされた手が、あっという間にかじかんで感覚がなくなってくる。はあー、と手にあったかい息を吹きかければ、真っ白な煙になって空気に溶けていった。


「あたしがもし死ぬなら、溶けて消えたいな」


 氷が溶けていくように。雨が川になって、一体となっていくように。


 誰にも聞かれることのない独り言は、冬風がさらっていった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ