第二話 暗い澱
正蔵が付けたままにしていたテレビから、朗らかな笑いが聞こえてきた。
夕方のニュース番組が終わり、NHKもバラエティ番組を放映する時間になっている。
出演者も、昔は落語家や演歌歌手などの若者ウケしなさそうなメンツであったが、昨今はアイドルやモデル、若手俳優まで様々である。
ヴーッヴーッという振動音が、テレビから垂れ流される空気を切り裂く。
由紀恵はハッとして、携帯電話を見るが、着信ではなく、充電が完了した通知だった。
フッと短く嘆息して妙に明るいテレビ画面に目をやると、その左上に時計が出ていて、正蔵が出てからそろそろ一時間といった時刻になっている事を無言で伝えていた。
雨戸を打つ風雨が強さを増してきている。先程テレビ画面にも緊急速報が出て、台風が愛知県に上陸した事を、一際大きな音で伝えていた。
やはり今日だけは、見回りに行く正蔵を止めるべきだったのではないか。
そんな風にも思えたが、しかし実のところ、その選択肢はあり得ない。
周辺農家による持ち回りという形を取っている手前、その共有設備である用水路に万が一の事があれば、木村家だけの問題ではない。
そう思う事で、募る不安を押し込めながら、時が過ぎるのをまんじりと待ち続けた。
内容が気になる訳でもなく、テレビに目を向けると、先程からまだ幾ばくも時間は過ぎていない。
雨戸を叩く風雨に混じって、村の防災放送が音質の悪いスピーカーで聞こえる。
リモコンを操作してテレビを消音し、聞き耳を立てるも、差したる情報という訳でもなく、今の内に非常灯などの用意をしておきましょうとか、その程度の事を繰り返していた。
ドンドンドンッ
ドンドンドンッ
不意に玄関扉を叩く音が聞こえた。
「お爺さん!?」
居間から廊下を足早に歩きながら、声を少し震わせて呼びかけると、扉が開いたが、そこに居たのは正蔵では無く、件の持ち回りの共同体の内の一軒である、仲谷 重松であった。
「由紀恵さん、正蔵の奴、帰ってるかい!?」
出て行った時の正蔵と同じく、厚手のレインコートを濡れそぼらせて仲谷が問うた。
「仲さん、それが……あの人、今日が割当だったから、こういう日だからどうなるか分からんって言って出てんだけど、もう一時間半も戻らないのよ……」
どうにか平静を保ちながら言う由紀恵の顔色が優れない。
仲谷の背後では、外の闇から暴れる風に乗って大粒の雨が、開いた扉の隙間から木村家の土間を打った。
「じゃぁやっぱりアレは正蔵の軽トラか……!」
呟く様に漏れこぼした仲谷の言葉にゾっとした。
鳥肌の立つ様を、総身の毛が太ると言うが、まさにその通りだ。
「仲さん、どういう事!?」
「いや、俺も気になって、自分とこの田んぼだけでもって、今見てきたトコなんだけどな?」
嫌な予感がする。
だが、その先を聞かないという選択肢はない。
「石橋の所あるだろ? あの先に見た事ある軽トラがハザード焚いて止まってたんだよ……中には誰も乗ってなくて、おかしいなって思いながら、用水路も溢れそうだったし、俺も帰ってきたんだけど、よくよく思い出してみりゃ、アレは正蔵のじゃねぇかなって」
「お願い、仲さん、私をそこまで乗せて」
仲谷の言葉の最後を遮って由紀恵が震える声を投げた。
強く止める事なく、取り決めだからと送り出した後の一時間半は、途方もなく長かった。
まだどうにかなったという確定的な事も無いとは言え、呵責の念が由紀恵の中に溜まっていた。
努めて普段の様に、言われた通り風呂の用意をして、晩酌のツマミを作り直した。
だけどふと手を止める一瞬に、不安は薄い和紙の様に、一枚、また一枚と折り重なって、向こうを透かして見えぬ程の厚みになり、由紀恵の胸中に光を通さぬ壁になり、同時に澱の様な重さとなった。
「お願い、仲さん……」
そう繰り返す由紀恵の声は先程より小さく細い。
「分かったよ、他ならぬ正蔵と由紀恵さんの事だからな、ちょっとウチに電話するから、その間にカッパとか懐中電灯とか用意してくれ」
仲谷は踵を返して、車中に置いたスマートフォンを取りに屋外に出た途端、忘れていた風雨に曝された。
うぉっと言って風向きに対して身体を傾け、僅かに頭を低くする。
その様を見送った由紀恵も家の奥へと準備の為に歩を進めた。一瞬振り返ると、仲谷が出て行ったばかりの扉の向こうに、正蔵が出た時よりも闇を濃くしながらも、静寂とは無縁になった農村が、今より始まる壮絶な一夜を予見する様に、ぽっかりと獰猛な口を開けていた。