第一話 落水
時折、軽トラが左右に傾ぐのは、風に煽られてというより、田畑の間を縫う様な、畦道と見紛う粗雑な舗装路にできたアンジュレーションによるものだ。
フロントガラスに打ち付ける雨粒もまだ弱々しく、見て回るなら今の内だなと正蔵はひとりごちる。
そうは言っても、山間部では断続的に強い雨も降っている様で、湧き水を利用した用水路の水かさは増してきている。
何ヶ所か水路が細くなっていたり、傾斜緩くなっている箇所を見て回る。
用水路にかかる小さな、車であればすれ違う事の出来ない石橋を渡った先で、用水路が分岐する所に風で折れて飛んだのか、子供の腕程の、割に太い枝が引っ掛かっているのが見えた。
これを放置していると、後から来る漂流物が更に引っ掛かって、用水路の流れを妨げる、場合によっては左右の盛土が崩れて決壊する恐れもある。
軽トラを徐行させていた正蔵は、周囲に走行中の車が無いことを確かめて、その場に停車する。
車外に出ると家を出た時に比べ、幾分か風雨が強まっていて、木々のざわめきが不穏な声の様に、人気のない農村に満ちていた。
正蔵は風に煽られないように気をつけながら用水路に近付き、枝を排除しようとしたが、件の枝は盛土に引っ掛かっているのか、はたまた生木故の為か、見た目以上に重く感じた。
踏ん張りを効かせようと、正蔵が盛土にかかる足を一歩踏み出したその時だった。
水流により侵食されていた盛土が正蔵の足元でモロモロと崩れて、流れに飲まれいく。
このままだと、諸共自分も落ちると察した正蔵は、既に手を掛けていた件の枝に力を込めて、バランスを取ろうと試みる。
泥濘む足元からゴム長を引き抜き、どうにか未だ無事な場所に着地させた。後は傾いた上体を、枝を押して戻せば良い。そう思った途端の出来事だった。
メキメキメキ
水分を含んだ生木の枝が正蔵の手の中で不意に鳴り、次の瞬間、手応えが喪失する。
枝が食い込んでいた向こう岸の盛土が水流に溶け、どうにか正蔵の重さを支えていた枝は、かかる力を分散し切れず、呆気なく圧し折れる。
「あっ」
実際に声に出来たかは分からない。
レインコートの下で冷や汗であったのか、はたまた隙間から入りこんだ雨粒だったのか、背中に冷たい物が流れるのを感じた。
そして同時に正蔵は用水路に身体ごと着水する。
溺れる者は藁をも掴むというが、正蔵も焦りながら盛土の端に手を掛ける。しかし無情にも手を掛けた先から、モロモロと崩れ水流に飲み込まれてしまう。
ジタバタと喘ぐ正蔵の右足の先が、用水路の底の大き目の石を捉える。
(しめた)
この石を蹴る様にして、肩まで浸かっている身体を水面の上に、せめて腰まで出す事ができれば
そう思った瞬間。
先程まで排除しようと、そして、自らの身体を支え、その果てに折れた枝が水流に乗って正蔵の眼前に迫って来た。
いつの間にか用水路は、その水流を濁流と呼んで差し支えない程の勢いに変えていて、正蔵めがけて迫る枝の勢いも当然に増していた。その上、圧し折れ、ささくれだった面が向かって来ていて、咄嗟に正蔵は目を伏せ顔を背ける。
刹那。
水中で石を捉えていた右足が、苔に滑り水を掻いた。
バシャン
平時であれば、人一人が落水したのであるから、相応の大きな音であっただろう。
しかし、いよいよ風雨が強まっている現在にあっては然程の音量ではない。
泥で濁り視界の無くなった水中で、正蔵は足掻く様に水面を探す。
肩を打って先に流れていったのは先程の枝であろうか。
何度か足掻く内にようやく顔が水面の上に出る。既に水嵩は正蔵の身長より高くなっていて、その足が水底を捉える事はできない。
立ち泳ぎの様に、水面に対して垂直に浮きながら正蔵は辺りを見回すと、先程止めた軽トラが、主の帰りをハザードランプを明滅させながら待つ姿が、遠く百メートル程先に見えた。
あの位置から、自分が流されたとしたら、向かう先は……
そう頭を巡らせ始めた時。
急に水嵩が増し、用水路の窪みから溢れださんとする濁流、そして、この流れの先には、つい先程、軽トラで渡ったあの石橋が……
ゾッとするような悪寒で正蔵が振り向くと、そこには水面から既に二十センチもない高さになった石橋が、まるでギロチンの様に、正蔵を待ち受ける姿があった。