第0話 嵐の中へ
木村正蔵七十七歳は米農家である。
岐阜を代表する品種ハツシモを育てている。ハツシモは炊き上がりが美しい事でも知られる米で、岐阜県の稲作においては作付け面積で一位を誇っている。
ガタッガタガタッ
窓の外で締め切られた雨戸が、老夫婦の不安を肩代わりするかの様に、風雨に曝されながら音を立てる。
「今夜はやっぱり来るみたいだな」
正蔵が薄く作った焼酎の水割りを片手に気象情報を伝えるテレビに言う。
「毎年の事とは言え、怖いですねぇ」
正蔵の妻、由紀江が盆に焼いた厚揚げを載せてテーブルに向かいながら言う。
今年最大、いや十年に一度の規模に成長した台風十七号は、四国沖から僅かに進行方向を東寄りに変え、洋上から愛知近辺を餌食に選んだと言わんばかりに北上を始めた。
推定気圧は九百ヘクトパスカルちょうど。日本本土に上陸する台風としては相当に強力な物である。
中心付近の風速は四十メートルを超え、張り出した前線とも相まって猛烈な雨量が予測されている。
「お爺さん、今日は見回りはやめておいた方が良いんじゃないですか?」
台風の夜に見回りに出て遭難、という話はゴマンとあるが、何もそれは当人が愚かである為に起こる訳ではない。
田畑、特に水田が集まる地域においては、用水路は周辺農家の共有である事が多い。水田は文字通り、いつでも水が供給されていなければならず、農業用水の停止は、即座に大きな問題に直結する。その為、何軒かの農家が持ち回りで毎日、堆積物等による詰まりが無いかを見て回るのが通例であり、運悪く、台風の日に持ち回りの順序が来てしまう事で、事故は起きるのだ。
その日は正蔵が見回りを行う日であった。
「そうは言っても、こういう日だからこそ用水路がどうなるか分からんしな」
心配する由紀江の気持ちは勿論分かる。しかし用水路の見回りは、共同体を組む他の農家との取り決めであり、非常時だからと言って、行わないという訳にもいかない。
「まだ雨風も弱いし、今の内に行ってゴミが溜まってたら取ってしまおう。台風の最中に出ていけと言う程、他所の人達も言わんだろうからな」
「ほんとに、気を付けて下さいね」
言いながら由紀江は席を立ち、物置にレインコートを取りに向かう。
正蔵が見つめるテレビの中では、太平洋に接する愛知県の南端に近い場所で、吹き付ける強風に耐えながら、リポーターの男性が、迫りくる台風の情報を伝えていた。
「それじゃ行ってくる」
厚手のレインコートに身を包んだ正蔵は、下駄箱の上の鍵を掴んだ。
「え、車で行くんですか、お酒飲んでたでしょう?」
「まだ一杯も飲みきっとらんし、それもだいぶ薄く作ったから大丈夫。そう心配するな」
「ほんと、安全運転でお願いしますよ」
正蔵は少しバツの悪そうに微笑んで引き戸に手をかける。
外気は未だ冷めきらぬ昼間の熱を孕み、濃厚な湿度を乗せた風になって、正蔵のレインコートをパタパタとはためかせる。まだそれ程の強風にはなっていない。
軽トラに乗り込みながら、ふと振り返ると、玄関口で室内からあふれる光を背に由紀江が頼りなさげに正蔵を見ている。
「婆さんは心配し過ぎだ。酷くならん内に戻るよ。風呂の用意をしといてくれ」
努めて明るく力強く言ったその時が、由紀江が見た、この日最後の正蔵の姿だった。