46.生死と偶然と必然
こんにちは、ふとんねこです。
気温の変化についていけません。
寒かったり暑かったり、散々です。
本日のお話は『生死と偶然と必然』というサブタイトル。ふとん自身の経験を元に考えていることを思うままに書いていきます。
人は、最初に定められた日数を持って生まれてくるのだと考えています。
好きなバンドがある1曲で、我々が生きているこの日々を「増えていくようで減っていく」と表現したのを、しみじみと感動して聴くのはその考えがあるからです。
だから、終わる日は最初から決まっているのだと思います。
突然ですがふとんねこは一度かなりガチめに死にかけたことがございます。
ねっとりてらしぃをちゃんとしている系のねこなのでハッキリとは申し上げませんが、全国放送級の自然災害ですね。
亡くなった方も多いそれに、たまたま居合わせて巻き込まれました。
その時、背後に迫る死の轟音を聞きながら全力で走り、逃げきって、生き延びたときに思いました。
今日ここにいたこと、今日死にかけたこと、そして生き延びたこと。
それは全て、きっと偶然に見せかけた必然なのだと。そしてこの世の全ての死は必然として決まっていることなのだと。
事故や災害で突然に亡くなる方は多くいます。それもまた、そう定められたものとして生まれてきたのだと思いました。
大切な方を突然に亡くした方にとっては腹立たしい考えかもしれませんが、私は確かにその時そう感じたのです。
だから、私がその日生き延びて今日も生きているのは必然で、死ぬときは死ぬと決まっているのだと考えました。
共に生き延びた友人と繰り返し、たくさん話をしました。その日のことはいつになっても忘れられないし、呑み込みきれないことも多い。だから私たちは繰り返しお話をするのです。
そこで出てきた生き延びた方々のことを聞けば聞くほど、やはりその必然論とでも言うべき考えが補強されていきました。
たまたまその日ヘルプに呼ばれて仕事場に行っていた人、数分後には消えた駐車場からふと思い立って発車していた人、犬が騒ぐのに根負けして散歩に出ていた人。
本当に、偶然にも思える何かによって外に出ていた人々は、やはり生き延びるべくして生き延びたのではないでしょうか。
実は友人は必然論とは反対の偶然論を語ります。それも分かるのですが、やはり私は必然論を推しています。
もはや偶然は必然であり、必然は偶然であるとすら思うのですが、生き延びた人々のお話を聞くとやはり必然に感じます。
子供の頃から、同世代の人間よりも多くの死に触れて生きてきました。
人はいずれ死ぬのだなぁとぼんやり受け止めていました。
けれど、いざ自分が死にかけて、その実感はハッキリしたものに変わりました。
人はいつか必ず死ぬ。
全力で走れば逃げられるものではない。
だから私は日々を大切にしたいと常々思います。最期に振り返るときに、キラキラした軌跡が見えた方が嬉しい。私の通ってきた道が、輝くものとして最期の目に映るように、小さな煌めきを日々散りばめていくのです。
ふと思い出して、私の生死観を述べてみました。文にしたのは初めてですが、やはり未だに死にかけた記憶が喉に引っ掛かっているのだと分かりました。
この価値観が自分の作品に及ぼしている影響は不明ですが、作者の思想は作品に滲みます。様々な考えの上に物語は紡がれている。どんな思いがあれ、穏やかなお話を書きたいですねぇ。
それでは今回はこの辺りで。
また、次回の思い付きでお会いしましょう。




