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廃病院の夢

作者: 雨宮ヤスミ

 

 

 ざらついた感触が足の裏から伝わってくる。湿ったコンクリートの上を、砂状になったその破片が粉を吹いたように覆っていた。


 小原むつきは、そんな場所を歩いていた。一足一足、確かに床を踏んでいるのに、どこか頼りないような感覚を覚えながら。


 大きなひびの入った壁は、左右のどちらにも窓がない。天井には蛍光灯の類があるようだが、いずれも割れるか黒ずんでいる。


 数歩先も見えない廊下を彼女は進む。


 奥へ、奥へ。


 どこまで続くのかもわからない。けれど、ひたすらに。蒸されるような暑さの中、じっとりと衣服が彼女の肌に張り付く。足の裏に床の埃や砂が吸い付く。


 不意に、微かな音がむつきの鼓膜を揺らした。自分の足音ではない。金属の何かが軋むような音で、それはだんだんと近づいてきているようだった。


 背後を振り向き、目を見開いた。汗ばんでいた背筋が一気に冷えていく。


 音の正体は、車いすの車輪だった。誰もいない座席の下の車輪が回り、耳障りな音を立てて近づいてくる。


 押しているのは、看護婦だ。うつむいていて、顔は定かではない。


 一目でそれとわかるのは服装のためだが――その姿を目にした時、むつきは背筋に氷を入れられたような心地となった。


 看護婦の服には焼け焦げたような穴がそこら中に空いており、何よりも露出した肌が人とは思えぬような色をしていたから。


 恐怖が足へと伝わり、むつきは弾かれたように走り出した。悲鳴を上げたかったが、声にならない。ひゅうひゅうと荒い息になって漏れ出るばかりである。


 ふわふわと宙を踏むような感覚の中、懸命に足を動かす。廊下はとてつもなく長いようだ。いくら走っても果てがない。


 呼吸が苦しくなってきた。太腿も脛も、痛みに悲鳴を上げている。


 それだけ走っているのに、あの車いすの軋む音は一向に遠くならなかった。


 息を弾ませながら、背後を振り返る。


 一定の間隔を保ったまま、車いすと看護師はゆっくりとした足取りで追いかけてきていた。


 せき込み、つまずきそうになりながらも、必死に前へと進む。永遠とも思えた廊下も、ついに終わりが見えてくる。


 正面は行き止まり? いや、曲がり角だ。


 左に曲がると正面奥に、赤いランプの表示が見える。いや、それよりも手前、「化粧室」と書かれた古びた表札がある。


 ここしかない。ここでやり過ごすんだ。


 迷わず中に駆け込んで、四つ並んだ個室の内、一番奥に入った。


 途端に襲う、むせ返るような強烈な臭い。でも、そんなことには構っていられない。急いで戸を閉めて鍵をかけた。


 一体何なんだ、あれは……!


 得体の知れぬものの沈んだ、汚い和式便器に足をつけないよう気を配りながら、個室の壁にもたれて荒い呼吸を整える。


 そもそも、ここはどこなんだ? どうして、わたしはこんなところにいるんだ――?


 その疑問を深く考える暇はなかった。


 あの音だ。車いすの車輪が立てる軋み、それが戸の向こうに迫っている。


 入ってきた。むつきは口元を押さえて生唾を飲み込んだ。


 コンコン――


 出し抜けに、硬質な音が響いた。


 ノックしている。一番手前の戸だ


 息を潜め、戸の下の隙間から向こうの様子をうかがう。


 またすぐにノックの音がした。二番目の戸を叩いたのだろう。


 車いすの車輪とノック、二つの音が獲物を狙う蛇のようにむつきに迫ってきていた。


 三番目。いよいよ来る、とむつきは身を固くする。


 フレームのゆがんだ車いすの車輪と、それを押す薄汚れた靴を履いた足が見える。破れたストッキングの穴から、灰汁色の肌がのぞいていた。


 その足と車輪が真正面で止まる。


 コンコン――


 心臓が早鐘のように打たれ、その音から居場所が知れてしまうのでは、と思うほどだった。


 口を押さえつけ、ぎゅっと目をつぶる。


 永遠とも思えるような時間が流れた。何の音も聞こえない。むつきは恐る恐る目を開いた。


 戸の下から様子をうかがう。


 何もない。ただ薄汚れたタイルの床が広がっているばかりだ。


 助かった? へなりと力が抜けて、むつきは床に座り込んだ。


 よかった、これで――。


 立ち上がろうと上を向いた時だった。


 遂に大きな悲鳴がむつきの口を割って出た。


 個室の戸と天井、その隙間から看護婦がのぞいている。


 灰色に濁ったその顔の、ぎらついた目がむつきを見下ろしていた。




  ◆ ◇ ◆




 暗闇の中、むつきは大きな悲鳴と共に飛び起きた。


 心臓が飛び出さんばかりの勢いで跳ね回っている。じっとりと汗の滲んだ衣服の上から、左胸を押さえる。


 また、同じ夢だ……。


 きゅっと胸元を握りしめる。


 大学に入って、この下宿に越してきて、この夢を見るのは何度目だろうか。自分の悲鳴で目を覚ます頻度は、ここ最近より高くなっている気がする。


 いつも同じ廃墟の廊下を歩き、いつも同じ看護婦に追いかけられ、いつも同じトイレの個室にこもり、そして――。頭の中から看護婦の形相を追い出そうとするように、むつきは何度もかぶりを振った。


 いつも、であるにもかかわらず、初めて見たように恐怖は新鮮だった。


 悲鳴とともに飛び起きる。飛び起きて、同じ夢だったことにまた震えるのだ。


 あの場所は、一体どこなのだろう? 闇の中に答えを探しても、この下宿の一間に廃墟の気配は感じられなかった。




 まんじりともせず朝を迎え、むつきは寝不足の体を引きずって大学へ登校した。


 一限目は一般教養の心理学の講義だ。六月に入って少しズルすることを覚え始めたむつきは、大教室の後ろの方の席に着いた。この辺りならうとうとしても見咎められまい。


「おはよう。むつきちゃん、眠そうね」


 隣に座ってきた女生徒が親しげに声をかけてくる。目の大きな、幼い顔立ちをしている。


 誰だっけ?


 おはよう、と返しながら内心首をかしげる。むつきの属する学科には、一学年に200人からの学生がいる。入学から3か月経っても、全員の顔と名前を一致させるのは難しい。


「どうしたの?」


 屈託のない笑顔がむつきを焦らせる。葛藤が漏れないように気をつけながら、曖昧な笑顔で応じた。

「いや、ちょっと変な夢を見ちゃってさ……」

「夢?」

「それで夜に飛び起きちゃって……」

「叫んだ?」


 え、とむつきは一瞬言葉に詰まる。


「うん、叫んじゃった……」

「やっぱり。2時ごろでしょ?」


 聞こえてたよ、と女生徒は笑う。


 ということは、同じ下宿に住んでいる誰かなのか。ますます冷や汗をかいた。


「何? わたしの顔、何かついてる?」

「いや、えっと……」


 言い淀んだむつきに、「ああ」と女生徒はうなずいた。


「忘れてるんでしょ、わたしのこと」


 図星を突かれて、むつきは「ご、ごめん……」と頭を下げる。


「水本だよ。新歓コンパでも下宿の歓迎会でも、顔合わせてるじゃん」


 いいけどさあ、と少し口をとがらせてから、女生徒――水本は笑顔を作った。


「ま、わたしも学部の全員を覚えてるわけじゃないしね」

「ホントにごめんね……」


 向こうはこちらの名前まで覚えていたのに、とむつきは首をすくめた。


「それで、どんな夢だったの?」


 水本はむつきの隣、三人掛けの真ん中の席に座って身を乗り出してくる。


 近い近い、と怯みながらも、むつきは夢のあらましを語って聞かせた。


「へえ、看護婦と廃墟か……」

「うん、どこの廃墟かわからないんだけどね……」


 既に講義は始まっていた。学部生と言っても通じるような若い女性講師が「集合的無意識」について語り始める中、むつきと水本は声を潜めて話を続ける。


「地元にそういうとこあったの?」


 むつきは首を横に振った。廃墟なんてこれまで生きてきて、足を踏み入れるどころか外から眺めたことすらない。使われていない建物の一つや二つ目にしてきただろうが、意識したことは一度もなかった。


「廃墟って言えばね」


 水本は更に声のトーンを落とした。講義中という理由以上のものをむつきは嫌でも感じる。


「大学の裏に廃墟があるの、知ってる?」


 このキャンパスは、山がちな地形に建っている。裏手には深い山々が広がっていた。自然の宝庫という印象の場所で、廃墟があるようには思えない。ただ、このキャンパスは元は小さな集落だったと聞く。その時の建物なのかな、とむつきは想像した。


「それ、廃病院なんだけどさ」


 病院、という言葉が針のようにむつきの胸をひっかく。


 車いすを押す看護婦、トイレの奥に見えた赤い標識……。夢の中の映像が実際に見たものかのようにくっきりと思い出された。


 あの赤い標識、割れていたけれど「手術中」って書いてあったんじゃ……? だったら、あの廃墟は……。


「この辺が地元だっていうサークルの先輩から聞いたんだけど……」


 むつきの心のざわつきを知ってか知らずか、水本は話を続ける。


「その廃病院、変な噂があったらしいよ」


 今から30年ほど前、この大学のキャンパスが影も形もなかった頃のことだ。


 その病院は地元の女子学生の間で密かに語り継がれてきた場所だったという。集落の外から、彼女たちは病院を頼ってひそかに山を登ったそうだ。


「駆け込み寺、みたいに言われてたんだって」

「病院が?」


 そう、と水本はうなずいた。


「産婦人科だったんだよ、その病院」


 水本の言葉の意味を、むつきはおぼろげに察した。


「それって、つまり……」

「うん。望まずにできちゃっても、親の付き添いや同意書なしに堕してもらえる(・・・・・・・)。そういう病院だったんだよ」


 彼氏と。先輩と。先生と。知らないおじさんと。無責任な「火遊び」の後始末を、固いことを言わずにやってくれる。そういう病院だった。


「だけど、そういうことしてたのがバレて……」


 人の口に戸は立てられぬ、と言う。女子学生の間でその風評が広まるにつれ、辺鄙な場所にあるその病院の存在は、大人たちの知るところとなった。


「しかも、法律的にはしちゃいけないくらいに大きくなった赤ん坊でも、構わずに堕してたことがわかったんだ」


 大きなバッシングを受けた病院は廃業を余儀なくされ、医師は夜逃げ同然に姿を消し、建物だけが山間に残された。


 やがてふもとの集落が過疎で無くなり、跡地が大学のキャンパスとなった今も、風雨にさらされながら佇んでいるという。


「今では、地元の人はほとんど近づかないし、話題にも出さないんだって」


 古い洋風建築の外観が、むつきの脳裏にふと浮かんだ。


 それは山の中の原っぱに建っていた。外壁にはひびが入り、正面玄関の窓は割れている。エントランスのタイルの隙間からは雑草が伸び、ところどころ欠けている。


 まるで慣れ親しんだ場所かのようにはっきりと見えたその映像に、むつきは二の腕が総毛立つのを感じる。


 そこだ。


 夢で見たから、わたしは知っているんだ。確信めいたものがむつきの心の底から首をもたげ、とぐろを巻いていく。


「……のように考えられていました。しかし、フロイトは夢には精神状態の影響がある、夢の素材は記憶の断片である、どの素材を使うかの選択は無意識化で行われている、そういう考えを持っていました」


 大教室の前方では、女性講師が夢判断について話している。無意識、とホワイトボードに書いたそれを指し示す。


「また、夢は人間が文明社会の中で押し殺している本能が表出――えー、自己表現の一種だとも考えていたのです……」


 押し殺した、本能。


 だとしたらどうして、行ったこともない廃病院が夢に出てくるのだろう。むつきの「無意識」は、一体何を表現しようとしているのだろうか。




  ◆ ◇ ◆




 その日の深夜2時、むつきはまたも悲鳴とともにベッドから跳ね起きた。


「ッッ……!」


 強く痛む額に手をやると、びっしょりと汗をかいている。


 また、同じ夢を見た。


 朝方に水本と話したせいだろうか。今夜はあの廃墟が、はっきりと病院だと認識できてしまった。


 荒い息を吐きながら、ふと顔を上げる。そして二度目の悲鳴を上げた。


 あの看護婦だ。


 暗い天井にくっきりと、夢の最後に見たあの顔が貼り付いている。


 出てきた。ついに、現実にまで……!


 弾かれたようにベッドから転げ落ちて床へ降り、立ち上がる時間も惜しいとばかりに、四つん這いで玄関へ急いだ。


 たたきの横のシンクにつかまって立ち上がり、背後を振り返る。


 いつもの見慣れたワンルームの部屋がそこにあった。


 薄暗い中、どれだけ目を凝らしても、あの看護婦の顔は見えなかった。


 力が抜け、再びむつきは座り込む。


 今は消えたからといって、安心はできない。夢は夢の中だけでとどまらず、現実にまで追いかけてきている。連日の悪夢に体がむしばまれるような思いだった。


 もう限界だ。とにかく今夜は、ここでは眠れない。


 ほとんど決死の覚悟で、むつきはベッド下の収納から服を取り出した。手早くパジャマ代わりのスウェットから着替えると、外に出ることにした。


 財布とケータイだけを持って、玄関の戸を恐る恐る押し開ける。外は思わずムッとなる湿気に包まれていた。


「何してるの?」


 背後から声をかけられ、むつきはびくりとした。今夜三度目の悲鳴をすんでのところで飲み込み、振り返ると幼な顔の女――水本が立っていた。


「水本、さん……?」

「悲鳴が聞こえたから起きてきちゃったよ」


 言われてむつきは恐縮する。水本の部屋がどこかは知らないが、もしかすると下宿中に響き渡っているのかもしれない。


「二回も叫んじゃってるし。どうしたの? 看護婦の幽霊でも部屋に出た?」


 なんでわかるんだ、とむつきは気味が悪くなる。


「追いかけられる悪夢を見る、って言ってたじゃない。だったら、次はその追いかけてくるものが現実にまでやってきたのかな、って」


 鋭い指摘であった。


「で、やっぱり夢に出てくるのはあの病院だった?」


 あの講義中、水本の話を聞いた後、むつきは気分が悪くなり教室を抜け出していた。医務室についていこうか、と言う水本を押しとどめ、図書館で休んでいた。あの悪夢を想起させる白衣を着た人がいたり、薬くさいであろう医務室に近付くのは避けたかったから。


「どうやらそうみたいだね」


 水本はむつきが答える前にそうにやりとする。


「じゃあ、行ってみようか。廃病院」

「え?」


 むつきは目を瞬かせる。


「夢が現実にまで出てきてるのなら、現実にある夢に出る建物に行ってみたらいいじゃない」


 それは……と言葉に詰まるむつきの腕を水本は掴んだ。


「今から一緒に行こうよ」

「今から!?」


 思わず大きな声が出て、水本は「夜なんだから静かに」と人差し指を立てる。釈然としない気持ちのまま、「ご、ごめん」とむつきは詫びた。


「で、でも、今からって……」

「どうせ今夜は眠れないんだから。夜の散歩ってことでさ」

「山なんでしょ? 危なくない?」

「実はわたし、行ったことあるんだ。だから大丈夫だよ」


 逃げ道を見つけても回り込まれてしまう。むつきは追い詰められているような気になった。


「それに、早めに対処しとかないと、手遅れになるかもよ」

「手遅れ、って……?」


 水本は笑って答えなかった。その笑みの向こうに得体の知れないものを感じる。


 この子は知ってるんじゃないだろうか、廃病院と夢、そして看護婦の関係を。


 ふと、そんな考えが頭に浮かんだ。それを知っているから、現実の病院に行こうと誘ってくれているんじゃないだろうか。


「い、一緒なら……」

「うん。じゃあ、行こうか」


 大きくうなずいて、水本はむつきの手を引いた。




 むつきの住む下宿から大学は、歩いて5分ほどのところに建っている。


 1キロにも満たない非常に短い距離なのだが、大学のある辺りと下宿の周囲ではがらりと雰囲気が変わる。急に町が途切れたような印象を受ける。


 山が近いからかな? それとも昔あったという集落との境目が、そう思わせるのか。


 キャンパスを囲う塀に沿って歩きながら、むつきはその違和感の原因について思考を巡らせる。


 大学裏の山々は、深夜の空に大きな影を映していた。そこに登ると思うと、言い知れない不安感が胸の中に渦巻いてくる。


「大学の中を突っ切れれば楽なんだけどね」


 ふと、水本がそんなことを言った。深夜故、大学の正門はおろか他の通用門はすべて閉まっていた。その手には、いつ用意したのかカンテラ型の懐中電灯をぶら下げている。


 キャンパスの外周をぐるりと回り込むと、大学の塀と木立の間に細い道があり、その中ほどに山へと続く小さな階段が伸びていた。


「あそこに裏口あるでしょ? 大学がやってる時間帯だったら、正門から入ってまっすぐに来られるんだよ」


 階段の前で立ち止まり、水本は小さな門扉を指さした。


「じゃあ、行こうか。暗いから気を付けてね」


 水本は懐中電灯の明かりをつけると、先頭に立って急な階段を登っていく。一つ息を飲んでから、むつきもその後に続いた。


 階段を登った先、木立の間のともすれば見落としそうな道を、水本は確信を持った足取りで進んでいく。獣道のようなそれを草をかき分けてむつきも進んだ。


「着いたよ」


 唐突に道は途切れ、視界が開ける。山中の広場のような場所に、その建物はあった。


 外壁や屋根に年数が降り積もったような洋風建築。割れた正面玄関の窓、崩れたタイルから伸びる雑草――すべてが、何度もきた場所かのように見覚えがあった。


「ここだ……」


 間違いない。むつきはカンテラの頼りない明りに照らされたそれを見上げる。


 あの夢の場所だ。


 夢はいつも廊下から始まる。それなのに、むつきは外観をはっきりと記憶していた。その既視感が、ここが夢に見ていた場所だとはっきりむつきに示している。


「入ろうか」


 水本が、カンテラを持っていない方の手でむつきの右手をつかんだ。ひやりとしたやわらかい感触に、むつきは少し鳥肌が立つのを感じた。


「うん、行こ……」


 外れかけたドアを押し開けて、むつきは現実の廃病院の中へと足を踏み入れた。




  ◆ ◇ ◆




 入ってすぐは待合室のようだ。皮の破れたベンチがいくつも残っていて、スポンジが床に散乱している。


 奥には受付のカウンターが見えた。はまっていたガラスはことごとく割れ、その奥はがらんとしていた。


 隣は「診察室」と書かれた札がドアの上に掛かっていた。曇った銀色のドアノブは、回ることを知らないように固く閉じられている。


「夢で見るのって、この辺?」

「ううん。ここじゃない、けど……」


 むつきは壁に目をやる。この壁は、間違いなくあの長い廊下のものと同じだ。この病院自体は小さいものだし、現実にはあんな長い廊下はないのだろうが……。


「廊下なんだよね……」


 水本はカンテラを診察室とは逆側に向けた。


「あっちかな……?」


 診察室の脇には、奥へと続く廊下が伸びている。その先は、暗黒に近い闇の中でも一層黒いものが(わだかま)っているようであった。


「行ってみよう」


 水本に手を引かれる形で、むつきは廊下へと足を踏み出した。


 濃い闇が沈殿しているようなその廊下は、一歩踏み出すごとにじゃりじゃりと足元で音が鳴る。両側のどちらにも窓はなく、またその進む先も無限に続いているかのようだった。


「この廊下だ……」

「やっぱり?」


 先頭を行く水本は振り返らずにそう応じた。


「どうする? 後ろから追いかけてきたら?」

「……嫌なこと言わないでよ」


 ここで背後を振り返ることができるほど、むつきは肝が据わっていない。もしそれができるなら、部屋を飛び出したりはしなかった。


 いたずらっぽい笑顔でひとしきり笑った後、水本はふと真剣な表情になる。


「ねえ、この病院の話、覚えてるよね?」

「うん……」


 中絶手術を望む未成年の少女の「駆け込み寺」であったが、保護者の同意なく手術を行っており、また法律上の中絶期限を超えていても施術したことでバッシングを浴びて、医師は夜逃げ同然に姿を消し、病院はそれ以降放置されている。


 ただ、この逸話と夢で追いかけてくる看護婦が、むつきの中でどうにも繋がってこない。ここに勤めていた看護婦なのだろうか。


「勝手な話だと思わない?」

「えっと、お医者さんが、ってこと?」


 みんなだよ。水本の声はやけに反響して聞こえた。


「無責任に快楽に耽って、貪るだけ貪って、できたら堕ろす。こんな場所に来るのは、そういう安易な連中ばっかり――」


 責任を持てないなら、しなきゃいいのに。


 繋いだ手から伝わってくる温度は変わらない。その感触と同じくらいに冷たい(とげ)が、水本の言葉には生えているように思えた。何だかきまりが悪くなって、むつきはつい抗弁しようとしてしまう。


「そ、そんな、それぞれ……」

「ねえ」


 だしぬけに水本は立ち止まると、むつきの方を振り返った。この病院に入って初めて、むつきは彼女の顔を見た。


「男の人と、寝たことある?」


 カンテラの光に照らされたその顔を、むつきは何故か正面から見ることができなかった。


「ま、まだないよ……」


 ふうん、と水本は少し首をかしげる。


「君は望んでね(・・・・)

「え……?」


 意味を図りかねて、むつきが聞き返そうとした時だった。


 耳に飛び込んでくる、金属が軋むような音。


 よく知っている、決してこの場では聞きたくなかった音。


 反射的に振り返ったむつきの背後に、それはいた。


 ぼろぼろの服を着た、灰汁色の肌の看護婦。うつむきながら空の車いすを押して、こちらに一歩一歩近づいてくる。


 むつきの悲鳴が暗黒の廊下に響き渡った。


「……こっちだ」


 一度離れたむつきの手を取って、水本は強引に引っ張る。


「早く!」


 耳元で叫ばれて、むつきは我に返る。看護婦に背を向けて闇が口を開ける廊下の奥へと走り出した。


 この廊下は、よく知っている。何度となくこうして走ってきたから。


 夢と現実の狭間が、ともすれば曖昧になりかねない不安定な状況の中、むつきは水本の持つカンテラを頼りに走った。


 廊下をまっすぐ進めば、曲がり角に突き当たる。そこにあるトイレに飛び込むのが、いつもの夢のパターンだ。だが、そこを夢に合わせるのはあり得ない。


 だって、今は現実だ。都合よく目が覚めたりはしないのだから。


「あの、曲がり角、あっても、その先の、トイレは、駄目、だから……」

「知ってるよ。行き止まりじゃん」


 むつきの言葉に、前を行く水本は落ち着いた声音で応じた。


 車輪の音は変わらず背後に付きまとう。振り返らずにむつきは走り、あの角を曲がった。やはり夢と変わらず、途中に「化粧室」の表札がある。そして、奥には――。


「正面の部屋に逃げよう」


 水本も振り返らない。カンテラを掲げ、廊下の奥の割れた赤いランプを照らす。


「え、あそこ……?」

「ドアが頑丈だ。中から押さえたら入ってこれない」


 確信に満ちた言葉が勇気をくれた。目的地の決まったむつきは、一層足を急がせる。


「入って」


 水本がドアを手前に引くと、思いのほか簡単にそれは開く。むつきが部屋の中へ転がり込むと、水本も素早く中に入ってドアを閉めた。


 荒い息を吐いて、むつきは座り込んだ。部屋の中は薄暗く、その全容は判然としない。何か大きな机のようなものの脚が近くに見える。


「ねぇ、ここって……」


 ドアの辺りで何かしている水本に問いかける。


 返事はない。薄暗い中で、水本はむつきに背を向けている。


「どういう、その、部屋なのかな……?」


 尋ねながら、むつきは言い知れない違和感を覚えていた。


 何かがおかしい。この部屋は、妙に暗すぎるような……。


 そこで気が付いた。カンテラ型の懐中電灯、ここまで導いてきてくれた明かりが消えているのだ。この部屋に入る時はどうだっただろう? どこかで落としたのだろうか……。


「ここはね、手術室だよ」


 赤いランプ、あったでしょ。そう言われて、割れたあのランプのことを思い出す。


 やはり、あれは「手術中」と書かれていたのだろう。とすると、この近くに脚は手術台のものだろうか。


「ここでやってた手術、わかるよね?」

「ちゅ、中絶……?」


 この部屋に入ってから、強い息苦しさをむつきは感じていた。


 全力疾走したから? いや、それだけじゃない。この部屋は闇が沈殿して、空気が薄くなっているように思えた。


「そうだよ。おかしな話だね。手術って、命を救うはずなのに。ここの手術は全くの逆――」


 水本はずっと背を向けたままだ。ドアを押さえ続けてくれているのだろうか。だったら、そこの手術台でも動かして、つっかえにした方がいいだろう。


「あのさ、ここにある……」

「堕胎ってどうやるか知ってる?」


 言葉の続きを、むつきは飲み込んだ。飲み込まざるを得なかった。水本の声音は聞いたこともないくらいに深刻に響いたから。


掻爬(そうは)って言ってね、金属の棒を突っ込んで掻きまわすんだよ」


 むつきは胸元を右手で押さえる。呼吸の苦しさがどんどん増していくようだった。


「それを何度も何度もするんだ。何でかわかる?」


 床に近いせいだろうか。空気よりも重い何かが沈殿しているのだろうか。


「胎児が中で、逃げるからだよ」


 左手を手術台の脚へと伸ばす。何かにつかまらないと、とても立ち上がれそうになかった。


「だけど、いくら逃げてもダメなんだ。閉じ込められているから」


 その手はむなしく宙をつかんだ。手術台は、いつの間にかなくなっていた。


「だから、死んじゃうしかないんだ」


 朦朧とする意識の中、むつきは自分がどこにいるのかわからなくなっていた。


 ここが大学の裏山の廃病院の手術室なのか、いつもの悪夢の中なのか。それとも、それら以上に足を踏み入れてはいけない場所なのか――。


「水本、さん……?」


 目の前にいるのも、水本なのか? 暗闇の中、彼女の体は白くぼんやりと霞んで見えた。


「死んじゃうしかないんだよ。こんな風に、傷だらけになって――」


 振り向いた。


 その姿に、むつきは今日もっとも大きな悲鳴を上げさせられる。


 先ほどまでの健康な女子大生ではない。生白い体にはいくつもの傷があり、赤黒い血や膿がとどまることなく噴き出している。漆黒の眼窩からは、同色の液体が涙のように頬を伝い、流れ続けている。


「だ、な、え……」


 一歩、それが足を踏み出してきた。床に座ったまま、むつきは後ずさる。


 水の感触がした。


 いつの間にか、床の上には黒い水がたまっていた。刺激臭のするそれに、むつきは尻と足、左の手のひらを浸している。


「こ、これ……!?」


 左手に何か小さなものが触れてくる。いや、左手だけではない。腕に、尻に、足に、小さな何かが上がってきている。


 胎児だ。


 目の前のそれと同じような生白い肌の胎児が、むつきの体にまとわりつき、しがみついてきていた。小さな手が彼女の肌をまさぐり、這いまわり、体の内側の中へと入り込もうとしているのだ。


「いや、いや……!」


 いくら振り払おうとしても、胎児たちは離れなかった。むつきの肌に小さな指を食い込ませてしがみつき、離れようとしない。そればかりか、どんどん数が増えている。


「ねぇ、むつきちゃん」


 いつの間にか近づいてきていたそれは、黒い目でむつきを見下ろした。


「お母さんになってよ」


 ぬるり、とそれは体を折りたたむようにしてむつきにまとわりついてくる。


「生まれたかったんだよ、わたし達。生まれるはずだったんだよ、本当は」


 無数の小さな胎児の重みで、むつきはあおむけに倒れた。


「だけど、死んだんだ。殺されたんだ」


 両腕両足を押さえつけられた彼女のお腹の上に、それはとぐろを巻くようにのしかかった。


「むつきちゃんなら優しいから、なってくれるよね? 望んで生んでくれるよね?」


 ほとんど液状になったそれは、むつきの服や肉をすり抜けて、その奥――子宮の中へと入っていく。


 やめて! 入ってこないで! 望まない! 望まないの! わたしは、わたしは――。


 もがくむつきの手が何かに触れた。いや、しっかりと何かが握った。


 そちらに顔を向けて、むつきは目を見開く。


 掴んだ腕は人のものとは思えぬ灰汁色――あの看護婦だった。


「こいつ、また……!」


 憎々し気な叫び声がしたかと思うと、むつきの体は強い力で引っ張りあげられた。ばらばらと枯葉が落ちるように小さな胎児が剥がれていく。


「邪魔を、邪魔をするなぁ!」


 悲痛にも聞こえる叫びをあげながら、しかし黒い水と化したそれがむつきのお腹の奥から零れ落ちていく。


 いつの間にか、むつきはぶら下げられていた。底なしの奈落へと続く穴の淵で、あの看護婦はむつきが落ちないように腕を握りしめ、引き上げようとしている。


「もう、少し、だったのに――」


 最後の一滴が、奈落の底へと落ちていく。還っていくのだな、と思った時、むつきの意識は急速に上へと引き上げられ、白く淀んでいった。




  ◆ ◇ ◆




 あの音が聞こえる。


 耳をひっかくような、車いすの軋む音だ。


 追い詰められるような感覚を覚えていたはずなのに、今は安らぐものに変わっていた。


 足元からそれは聞こえている。


 気がつけばむつきは、どこか白い空間を車いすに乗せられて移動していた。


 押してくれているのは――。見上げると、あの濁った肌の彼女がいた。


(も、う、に、ど、と――)


 褪せた色の唇が、たどたどしく動いた。


(ま、よ、い、こ、ん、で、は――、だ、め、よ――)


 そういえば、いつも。


 悪夢が終わる時は彼女の顔を見ていた。


 光の宿った眼を覗き込み、むつきはそんなことを思い出していた。




  ◆ ◇ ◆




「お嬢さん、お嬢さん……!」


 聞きなれぬ老人の声と共に、むつきは揺り起こされた。


 体中が痛みに悲鳴を上げていた。それに、やけに草生したにおいがする。空は明るく朝の色をしていた。


 ゆっくりと目を開き、起き上がると見事な白髪の老人が彼女を見下ろしていた。


「あんた、こんなところで寝て、一体どうしたんだ?」


 こんなところ、と言われてむつきは辺りを見回す。


 木立に囲まれた、山中の空地。ここは、あの廃病院が建っていた――。


 しかし、どこを見回しても建物の影はなかった。


「あ、あの……」


 むつきは老人に尋ねる。


「ここに、その、つぶれた病院って……」


 はあ? と老人は首をかしげる。


「そんなの、ここにはないよ。この山は景観保護地区だから、建物は建てられない決まりになっているからね」


 え、と出かかった言葉をむつきは飲み込んだ。


「おーい、山本さん! どうしたんだい?」


 ふもとの方から声がして、老人はそれに「今戻るよー」と言い返す。


「いやね、近所の美化活動でね、山に入ったんだよ。それでお嬢さん見つけてね……」


 何だか弁解がましくそうい説明すると、老人は一つ咳払いをした。


「ともかく家で寝るなら家の中一番だよ。外じゃ風邪をひいちゃうし、危ないから」


 座り込んだむつきを置いたまま、老人は歩き去ってしまった。


 一体どういうことなんだろうか。


 老人にお礼も何も言えないまま、むつきは座り込んで考える。


 ここにあったはずの病院は? あの看護婦は? そして、あの水本は一体――?


 ただ一つ言えるのは。むつきは羽織っていたカーデガンの袖をめくった。


 二の腕には無数の小さな手形がびっしり残っていた。




  ◆ ◇ ◆




「と、いうことで最後にテストの話をしておきます。説明した通り、この科目は自筆のノートのみ持ち込み可としますので……」


 ざわつく大教室の前から三番目の席で、小原むつきはテストについて説明する女性講師を見るともなしに眺めていた。


 あの経験から一か月が経ち、心理学の講義もフロイトをとっくに終えて、今は人間の認知についての内容に移っている。


 異常な経験をした割には、むつきは元気だった。


 あれから悪夢は見なくなったし、小さな手形の跡も三日もすれば消えてしまった。すべてが悪い夢の中の出来事のように、今は思えていた。


 そういう風に納得して、心が処理しているのかもしれない。


 あるいは、あの看護婦の目――ぎらついてさえ見える強い目の光が、恐れとか心の傷とかそういうものを癒してくれたのかもしれない。


 水本という学生は、大学の同学年にはいなかった。下宿にもそんな名前の学生は暮らしていない。周りの学生も、誰も彼女のことを知らなかった。


 彼女は本当は何者だったのだろう。あの時言っていたことを考えると、生まれずに死んでしまった子供の「何か」なのだろうが……。


「それでは、今日はここまで……。あ、ちょうどベルが鳴りましたね」


 学生たちはめいめい立ち上がって、次の教室に向かい始めた。わたしも行こう、とむつきはノートを閉じた。




 ただ一つ、あれから異常があるとすれば。


 むつきは次の教室に移動する前に立ち寄ったトイレの個室で、そっとお腹を押さえる。


 体についた手形は消えても、あの時入り込んできた感触は今も抜けていない。


 なんとなく胃がむかむかし、炊いたご飯のにおいでムッとなることさえあった。


 自分が中から変えられてしまったような、そんな感覚――。


 一か月もたつって言うのに。


 お腹を押さえてそんなことを思った時、不意にこんな連想が頭をもたげた。


 そうか、四週目だ。


 妊娠検査キットを買った方がいいだろうか。


 馬鹿げていると思いながらも、その可能性が捨てきれないことをむつきは感じていた。


 もし孕んでいたとして。


 自分のものじゃないようなお腹を撫で、むつきは思う。


 一体何が、この中にいるというのだろう。



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