○*甘い香りと花一匁*○ 螢×楼主
【第二夜:その後、大変でした】と【第三夜:故意に、逢いを交わす】の間、髪の手入れの話。
今、私は座卓の前に据えた座布団に座り。
いつぞやの楼主の指示通りに、両肩は寝衣からむき出しで、印を付けてくれと言わんばかりの状態でいる。
勿論、気まぐれに背では無く胸元に印を付けられては敵わないから、両手はしっかりと、襟元に添えている。
今まで、言葉での意思疎通がとても困難だったように思う。
……というか、楼主が部屋を訪れる度に、精神的に消耗している気がする。
明日からもきっと、横になる度に今夜の事を思い出してしまって、寝付きが悪くなる様な気がしてならない。
ーー件の楼主は、というと。
元々この部屋に設えてあった鏡掛けを、私の顔が映りこむようにと角度を調整しつつ、桐箪笥から畳へと下ろし終えたところだった。
磨かれた丸い鏡に映るのは、複雑な表情の自分。
見慣れたはずの淡い翠の瞳の中で、不安の色が揺れている。
そうして準備が整ったからか、櫛の歯先が肌に当たらぬよう、楼主の左手が毛先に添えられ。
背後で静かに髪梳きが始まった。
訪れた無言の時間。
互いの表情は見えないのに、髪に触れられているというだけで、何ともこそばゆい。
自分で梳くのとも、髪結師が手際よく束ねながら、スイスイと軽く梳いていくのとも違う。
ふと。そのうち「髪が伸びた分、背の印も下に付ける」などと楼主が言い出したりはしないだろうな、と嫌な考えが過った。
寝衣を下ろすにも限界がある。
せめて印を付ける箇所くらい、私にも意見を述べる権利があると良いのだけれど。
コト、と軽い音をたてて座卓に暗褐色の小瓶が置かれた。
湯浴みの時に皆が使う椿油の洗料とは違う香りのする香油を、楼主は持参してくるのだ。
確か、私の髪に使っているのは茴香だと教わった。
温かみのある沁み通るような甘さのこの香りは、嫌いではない。
その香油を髪に施す苦々しい人物とは正反対の甘い香りに、いつの間にかゆっくりと深呼吸をしていて、安らかに寝付く事が出来るから。
ーーその前に、緊張と羞恥でいっぱいいっぱいになるせいかもしれないけれど。
キュ、と短くコルクが鳴り、ふわりと香りが鼻をくすぐった。
「…香りが……前と違う?」
「安息香。木の樹脂から採れる精油だ。茴香よりも保香性に優れている」
「なんだか、穏やかで…優しい、香り……」
自然と瞼を落とし、僅かに漂う仄かな香りを楽しむ。
「茴香よりも、安息香が良い、と?」
あいも変わらず、平坦な低い声で事務的な確認をされた。
その間にも、楼主の指がするすると毛先に向かって香油を馴染ませていく。
どこかで嗅いだ覚えのあると思った。
この、甘くて、優しい香りを。
少しだけ、美味しそうな…
「あの、白い菓子の……香りに、似ています」
「……白い、菓子」
「私が幼い頃に、楼主様が一つだけくださった、甘くて柔らかい……菓子です」
「香りはバニラに似ているからな。十年以上も前に、一度だけやった菓子を覚えているとは…」
「よほど、幼少期は甘味に縁がなかったようだ」と。楼主は先程よりも感情の滲む声で揶揄う。
覚えているのは誰のせいだ、とばかりに、私は夢にまでみるあの雨夜の事を本人に伝える事にした。
「菓子だけではなくて、楼主様と誰かが薬棚の部屋で密談をしていたことを、覚えているのです。
………花一匁の唄のような、やり取りを」
互いに顔は見えない。
でも、決して話を聞きもらすような距離では無い。
楼主が自分から言いだした髪の手入れ中にならば、はぐらかされることも無いはず。
「……ほう?お前を人買いから競り落とした覚えはあるが。胡蝶蘭の赤児の話まで童唄に聞こえた、と?」
ーー私を買った時のことなんて、すぐにでも忘れてもらって構わない。
私も、覚えてはいるけれど。
「……もしや、十四年前に楼主様方が身重の胡蝶蘭様に、なにか盛ったのでは、と」
今更過去の真相を知ったところで何もならない上、花街に生きる者の"掟"は例外なく"暗黙の了解"なのだとしても。
「……双子は元来、早産や難産になり易い。無事に生まれる事の方が稀だ。
それでも世間では一生"忌子"と呼ばれる事になる」
「忌子、なんてー…」
「家人がそう呼ばずとも、大店の隣近所や、商売敵はどうだろうな?下世話な噂好きは何処にでもいるものだ。
"花街一の華姫は、羅甲屋に嫁ぐ前に双子を産んだそうだ"と。」
世間知らずな私への、これは苦言なのだろうか。
楼主の低い声音も、毛先を弄る手元も目立った変化は感じ無いのに、いつになく饒舌な気がした。
「華苑に限らず、花街の掟が定まり、守られる所以はな、"皆が困る"からだ。
一介の遊女に限らず、見世を背負う花魁に至るまで花街の女にとって"父親の分からぬ子"は己の首を絞める存在。
想い人の子を孕むよりも、見世の禿を上手く育てねばならん。見世にとっても、長く客をとれない遊女は借金が嵩む。金にモノを言わせる客は、責を負うのを何より嫌う」
「で、でも。千鶴姉様と、千亀様はー……!!」
「真実がどうであろうと、胡蝶蘭の産んだ双子を周りが疑う。
"花街一"と名高い美姫が身籠もったのは真実、羅甲屋の若旦那の子か、と」
しがない村の生まれで、花街育ちの私が唯一知っていたのは。
極々身近な存在で、想い合う千鶴姉様と千亀様のことだけだった。
花街一と謳われた華姫の娘達として、妓楼ではない華苑で育てられることと。
"花街で生まれた、跡継ぎにはならない忌子"と世間で噂されながら、生きていくことと。
ーー望美と美月なら。
"唯一の人"の元へ嫁ぎ、花街を出てから両親と再会できた方が幸せなのでは、との考えが過った。
瓜二つの容姿では無いから、成長した二人が並んでも、知らぬ人には血筋を感じさせるくらいだろう。
自然と、視線が膝に落ちる。
花街で生まれた、というだけで。
双子だというだけで。
世間の風当たりは、幼子にも厳しくなるものなのか。
「この世は、儘なら…………っ!?」
「ないものですね」とは、続けられなかった。
すでに髪へ香油を馴染ませ終えたらしい背後の楼主は、私に断りもなく背に印を付け始めたのだ。
つきり、とした背の痛みが続く間、変な声が勝手に漏れたりしないよう、寝衣の襟ではなく、両手で口元を押さえていなければならないし。
これは……「黙れ」ということ、なのかもしれない。
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ーー翌日。
昨晩は、もやもやと考えに耽っていたせいで、抵抗する暇もなく…再び2箇所、赤い跡を背に刻まれてしまった。
印のせいで、皆が忙しくしている時間帯にひとり、広い湯殿を使うようになったのには、もう慣れたけれど。
楽の音や歓談の声で賑やかな御座敷とは反対に、見世の奥へと続く階段を登る。
与えられた部屋の白い襖を静かに開けると、座卓の上に見慣れない箱が置いてあった。
自然と、そこに添えてある小さな和紙を手に取り、書かれた文字を読み上げる。
「ま…しゅ、まろ?」
ぱかり、と軽い蓋を開けると、そこには見るからに柔らかそうな、薄茶の耳と目が描かれた雪うさぎの菓子が4つ。
ちんまりと並んで収まっていた。
「か、かわいい……」
指でつんつん、としてみれば、ふにふにとした感触だった。
誘惑に負け、指先で触れた雪うさぎを口へと運ぶ。
この"もにもに"とした、口当たりの柔らかさ。独特の甘さと香り。
この可愛らしい雪うさぎの菓子……"ましゅまろ"に罪は無い。
罪は、無いのだけれど。
この甘さと香りは、香油である安息香を。
柔らかさは昨夜の背に当たる感触を、思い起こしてしまう。
「……昔も今も。餌付けされてた、のね」
しかも、自分が可愛らしいものや甘いものが好きなことは、楼主にバレているときた。
ふぅ、と悩ましげにひとつ息を吐いた螢は、残った三つの雪うさぎを複雑な思いで見つめるのだった。