命名騒動
京の町は穏やかに晴れて、河原町にある長州藩邸にも柔らかな春の日差しが降り注いでいる。縁側に並んで腰かけた草月と山田市之允が見つめる先には、庭で無邪気に蝶を追いかける子猫の姿。
草月が嵐の翌日に瓦礫の下で見つけたこの子猫は、当初、全身濡れ鼠で、物も食べられないほどに弱っていた。だが、二人の懸命の介抱の甲斐あって、今や元気いっぱい。好奇心旺盛に動き回り、こちらが手を焼くほどだ。
「でも、これからどうしようか……。母猫もいないみたいだし、藩邸で飼うことはできないかな」
「そうじゃなぁ」
山田は足元の草を無造作にちぎると手の中でくるくると回した。子猫がたちまち気付いて、無邪気にじゃれついてくる。
「俺も出来ればここに置いてやりたいけど……。桂さんに相談してみるか。情けのあるお人じゃけ、無下にはされんじゃろう」
「そうだね」
勢い余ってぽてんと転げた子猫を抱き上げ、草月は山田と共に桂の部屋を訪ねた。事情を話し、いつになく緊張した面持ちで答えを待つ二人を順繰りに眺めて、桂は静かに言った。
「いいだろう」
「――えっ、いいんですか!?」
「何だ、駄目だと言った方が良かったか?」
桂が少し意地悪く言ってやると、若い二人は揃ってぶんぶんと首を振った。
「まさか、そんなあっさり許してもらえるとは思わなくて……。ありがとうございます!」
良かったね、と嬉しそうに笑いあう草月と山田に、桂は「ただし、」と真面目な顔で釘を刺した。
「ちゃんと責任を持って面倒を見るんだぞ。それから、執務室のある表の方には行かないよう、きちんと目を配っておくように。いいな」
「はい!」
満面の笑みで答えて部屋を辞した草月は、弾む足取りで廊下を歩きながら胸に抱いた猫に頬を寄せた。
「良かったねぇ、猫クン。これで君も晴れて長州藩邸の猫だよ」
「正式にここで飼うとなったからには、いつまでも『猫』という呼び名ではいかんな。ちゃんとした名前を付けてやらんと」
「名前かあ。どんな名前がいいだろう」
思案しながら広間へ向かうと、室内には高杉、伊藤、久坂、品川、寺島といった馴染みの藩士たちが顔を揃えていた。
「ちょうど良かった。皆さんも一緒に考えてくれませんか?」
*
「ほう、名前なあ」
高杉は、遊び疲れて草月の膝の上で寝入っている子猫に目を向け、思案するように目を眇める。その横で、久坂がわずか首を傾げた。
「最初に見つけたのは草月なんだろう。君が名付けてやるのがいいんじゃないか?」
「でも、せっかくここで飼うんですから、皆さんにも親しんでもらえるような名前にしたくて。私は『とら』なんていいと思うんですけど。とら猫だから、『とら』。覚えやすくていいでしょう?」
だが、その案は他の者からたちまち袋叩きにあった。
「安直すぎ! それに『とら』じゃあ、松陰先生を呼び捨てにしてるみたいだし」
伊藤が鼻を膨らませる。
吉田松陰の通称は『寅次郎』である。
品川が「はいはい!」と手を挙げ、
「ならいっそ、先生にちなんで、『寅三郎』っていうのはどう?」
「待て、弥二。それでは僕とその猫が同類みたいだ」
「え? えーと、寺島さんて……」
戸惑った声を出したのは草月だ。
「忠三郎です」
寺島は苦虫を噛み潰したような顔をする。品川が懲りずに、
「それじゃあ『寅五郎』は?」
「それは嫌です。全然可愛くない」
「注文が多いなあ。――市、お前はどうなんだよ」
「俺か?」
山田はじっ、と子猫を見つめて、
「『ふさ』というのはどうじゃろう」
「『ふさ』ちゃん? あ、いいね、可愛い!この子の毛がふさふさしてるから?」
「いや……」
なぜか山田は言いにくそうに目を逸らせた。
「初めて見た時、毛がぼさぼさで房楊枝みたいじゃったけえ……」
「―――却下!」
山田が言い終わる前に、草月が電光石火の速さで切り捨てた。
「なっ……! これでも俺なりに考えたんじゃぞ! お前の『とら』より百倍は良い名前じゃ!」
「名前の由来が房楊枝なんて、この子が可哀想でしょ!」
「名は体を表すと言うじゃろう!」
「だったら『とら』も一緒じゃない!」
「二人とも落ち着いてください」
加熱する言い合いに、寺島の冷静な声が割って入った。
「……良き由来を求めるなら、『椿寿』という名はどうですか」
「『ちんじゅ』?」
「はい。椿に寿と書いて『椿寿』。『荘子』にある言葉です。『上古大椿という者あり、八千歳を以て春と為し、八千歳を以て秋と為す』。長寿を祝う意味があるので、生き物に付ける名としては良いものかと」
「な、なんか、すごいですね」
素晴らしく良い意味があるのは分かったが、猫に付けるにはいささか大層過ぎないだろうか。そう思っていたら、高杉がばっさりと言った。
「猫にそんな小難しい名前があるか」
「では、高杉さんには他に何か良い案でもあるのですか?」
いささか気分を害したように寺島が言うと、高杉は偉そうに胸を反らせた。
「『たま』」
「何ですかそれ! それこそ何のひねりもない平凡な名前じゃないですか。もっと真面目に考えてくださいよ」
「何を言う。これ以上こいつに相応しい名前はないぞ」
「……もしかして、『晋書』の『珠玉』ですか」
ぽつりと寺島が漏らした言葉に、高杉はにやりとした。
「さずがは寺忠。理解が早いな」
「え?」
意味が分からず、きょとんとしたのは草月だけ。他の皆は思い当たったように「ああ……」と頷いている。
「え、何ですか? その『シンショのシュギョク』って?」
「『晋書』というのは、中国の晋王朝について書かれた書物です。その中に、『珠玉の瓦礫に在るが如し』という一節があって――珠玉が瓦や小石にまじっているように、優れた人物が凡人にまじっていることの例えですが――、この猫が瓦礫に埋まっていたことにかけたのでしょう」
「――ああ、成程」
「単純に見せて、実は深遠な意味を持つ。なかなか面白い名前じゃろう?」
「だが、説明されなければ分からない名前というのももどかしいな」
今度は久坂が難色を示した。
なかなか満場一致で決まる名前がなく、時間ばかりが過ぎていく。
いつの間にか目を覚ました子猫は、草月の膝から下りて、ちょこまかと部屋を動き回っている。
驚いたように「にゃあ」と鳴く声に振り向くと、呆れ顔の桂が部屋を覗き込んでいた。
「何を熱心に議論しているのかと思えば、猫の名前か。まったく、大の大人がそんなことでよくここまで盛り上がれるものだな」
桂は言いながら、きょとんと見上げてくる子猫の首根っこを掴んで摘み上げる。
「それと、分かっていないようだから言っておくが、こいつはメス猫だぞ」
「……は?」
七人の間の抜けた声が重なった。ややあって、「あらまあ」と言ったのは草月だ。高杉が半眼で草月と山田を睨む。
「なんじゃ、おのしらあれだけ世話を焼いちょって、知らんかったのか」
「勝手にオスだと思ってました……」
「俺も……」
「せっかく色々考えたのに、振り出しじゃのう」
「メスなら、『牙丸』はまずいか」
「いや、弥二、オスでもそれはないと思うぞ」
心底残念そうに言う品川に伊藤がすかさず突っ込んだ。
「女の子の名前かあ。何がいいかな……。あの、桂さんは何か良い名前、思いつきませんか」
「そうだな……」
草月の言葉に、桂は空いた方の手で思案するように顎をさすった。
「長州藩邸の子猫なんだから、『小萩』でいいんじゃないか。……なあ?」
つまんだ子猫を覗き込むようにしてそう言うと、子猫は実に絶妙の間で「ナァン」と鳴いた。
まさに、鶴の一声ならぬ、猫の一声。
――かくして、子猫の名は『小萩』と決まったのである。