第2話:目覚め
午後1時。和神は昼食を終えて食器を水に浸し、執筆活動に入る。執筆するのは、漫画である。和神は漫画家の卵なのである。中身は腐っているかも知れないが,と思いつつも漫画家を目指して日々執筆している。今年の3月まで漫画の専門学校の大学部に通っていた和神は、これまでは専門校の勉強と大学部の勉強の両立で漫画制作に集中出来ずにいたが、今年めでたく卒業したことで、アルバイトをしながらのひとり暮らしを始め、ようやく漫画に集中できる環境になったのである。が、せっかく整った環境は僅か3ヶ月で瓦解した。
「不可抗力とはいえ、まさか自宅に女性を入れることになるとは・・・。」
「ん・・・。」
不意に、和神ではない声が漏れる。次の瞬間、ベッドで眠っていた女性がガバッ!と勢いよく飛び起きた。傷が痛むのか、女性はすぐに頭を抑えて苦悶の表情を浮かべる。
「大丈夫ですか?」
和神は女性を刺激しないよう静かに優しく声をかける。女性は一瞬全身の動きを止め、和神の方にゆっくりと眼だけを向ける。刹那、彼女の眼は人間のソレから猛獣のソレへと豹変し、コンマ1秒と経たない内に和神に飛びかかり、胸元を引っ掻きつつ吹っ飛ばし、壁に激突させて女性自身も倒れこんだ。
和神は驚いた。眼が豹変したことでも急に引っ掻かれたことでもなく、185cm、85kgのガタイを持つ自分の身体を吹っ飛ばした目の前の女性の膂力にである。しかし、女性は再び頭を抱えて悶えている。和神は再度ゆっくり近付き、優しく声をかけた。
「いきなり動いちゃダメですよ。」
女性は和神を睨み付けているが、和神はそれを恐れはしなかった。むしろ、連れ込んだと思われる方を恐れていた。
じっと眼を逸らさない和神に、女性は初めて言葉を発する。
「お前・・・あいつらの手先か・・・!?」
「あいつらって・・・?」
女性は沈黙して和神を睨み続ける。どれ程の時が経ったのか、或いは一瞬だったのか、2人の間に静寂の時間が流れた。静寂を破ったのは、女性の方だった。
「お前・・・人間だな?」
「・・・ええ・・・まぁ、生まれてから今日まで22年間一応人間やってますけど。」
普通なら何言ってんだ?と訊き返してもおかしくない問いだったが、漫画家を目指し日々突飛な妄想をしている所為か、和神は常軌を逸した質問にも動じずに答えられた。その回答に、女性はふっと落ち着いたように鼻息を漏らした。
「あいつらが人間を手下に使うわけないか・・・。」
そう言ってふらつきながら立ち上がる女性に、肩を貸そうとする和神だったが、その手は弾かれた。
「勘違いするな。人間とはいえ、男は信用ならん。」
女性はそのままふらふらとベッドに腰掛け、ぐったりしている。相当に疲労している様子を見て、和神は大家さんに言われた起きたら何か食べさせてあげて,という言葉を思い出し、急ぎ冷凍庫に残った冷凍チャーハンを炒めて女性に振る舞った。相変わらず女性は和神に疑いの目を向け、チャーハンに警戒している。
「大丈夫ですよ。毒とか睡眠薬とか入れてませんから。」
「・・・確かに、殺すにせよ何にせよ、私が寝ている間にすれば良いことだ・・・。」
少し考えてからそう呟くと、女性はチャーハンの匂いを犬のようにくんくんと嗅ぎ、食べ始めた。食べ始めたらそこからは一息で、1分もかからずに器を空にした。
「もぐもぐ・・・確かに毒物は入ってないようだ。」
皮肉を言いながらも満足そうな女性にひと安心した和神は、後でまた何か食べ物買ってきますよ,と言いながら空になった器を片付ける。
女性はひとまず腹が満たされて余裕ができたのか、部屋をゆっくり見回している。テレビ、机、テーブル、自分が座っているベッド・・・とここまで来て女性は自分の服装にようやく違和感を覚えた。台所から戻ってきた和神に問う。
「この浴衣を着せたのはお前か?」
和神は瞬時に拙いと悟った。また吹っ飛ばされるのを覚悟した。
「はーい、和神くん。これお昼に作った肉じゃがのおすそ分け。その娘起きたら食べさせてあげて・・・。」
突然、扉を開けて大家さんが割りと大きめの声で入ってきたが、2人の様子を見て黙った。
「・・・おじゃまだったかしら?」
そう言って帰ろうとする大家さんを引き留め、和神は現状に至った経緯の説明をお願いした。
「そうか・・・きみの家の前に倒れていたのか。」
女性は大家さんの説明を理解して少し警戒を解いたようで、和神に対しても30%ほど物腰が柔らかくなった。
「だから彼は安心よ。女性には指一本触れられない意気地なしだし。あと、あなたの着てた服は今洗濯して乾かしてるから。」
事の顛末を話し終えた大家さんはそれだけ言い残して、肉じゃがを置いて帰っていった。2人の間にしばし沈黙が訪れ、やがて女性が口を開いた。
「・・・意気地なしなのか?」
「まぁ、そうですね。・・・よく言えば紳士ですが。」
そう会話する2人の表情は大家さんが来る前より幾分か和らぎ、些少の笑みすら窺える。
「そういえば名前、まだでしたね。自分は和神翔理といいます。」
和神が名乗ると、和神の眼をじっと見て女性も名乗った。
「狗美だ。」