表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
63/102

三十五話・ゼウス

 ーゼウスー


 俺が物心ついた時から親父はいなかった。

 お袋の話だと、俺が産まれてすぐに流行りの病で死んだらしい。

 裕福でもなかった我が家はお袋が稼ぎに出るしかなく、俺が乳児の間は背中におぶって仕事をこなしていた。

 勿論俺にその頃の記憶はないが、宿屋の女将であるレミトさんから嫌という程、昔話を聞かされた。

 レミトさんはヴァルハラ迷宮都市で200年続く古参の宿屋の娘で、お袋が俺を抱えて彷徨っているところを拾ってくれた人だ。

 お袋の雇い主であり、恩人でもあり、家族でもある。

 今でも頭が上がらない人だ。


 俺とお袋の生活の基盤はその宿屋だった。

 食べ物は宿屋のまかない。

 寝る場所も宿屋の空室。

 日中は仕事の手伝い。

 四六時中宿屋の中にいた記憶がある。


 当時の俺はどうだっただろう?

 そんな環境に不満はなく、お袋やレミトさんの後ろを離れず、食器を運んだりしていた記憶がある。


 そんな生活に疑問、不満を抱いたのはいつからだろう?

 確か天職を知る前の年に、冒険者の集まりが風来亭であった。

 風来亭っていうのはレミトさんの宿屋の名で、古参だけあってそれなりに名が通っている。

 その日きた冒険者たちも当時巷を賑わせていた、ヴィレッジソウルというクランだった。

 リーダーのロゼウさんを中心にして、タイルスの天剣に続く若手のホープだった。

 彼らの話は狭い世界で生きていた当時の俺には鮮烈で、感じたことのない心踊る時間だった。

 ロゼウさんは宿屋の坊主でしかない俺に色々な物語を聞かせてくれた。


 村から出た話。

 ゴブリンとの死闘。

 オーガとの一騎打ち。


 その頃からヴィレッジソウルは風来亭に拠点を移し、俺は冒険者という世界に憧れを持つようになった。

 そういえば、ロゼウさんに頼み込んで稽古をつけてもらったのもその頃だった。

 最初は俺をクランに入れて欲しいとお願いしていた。

 だが、頑として受けてくれなかった。


「子供が憧れ程度でつく仕事じゃない。この世界で生きるには相応の覚悟が必要なんだよ」


 ロゼウさんは決まったようにそう言うと、俺は「持ってるよ! なんだってやるからお願い!!」と言って食い下がった。

 ロゼウさんは困った顔で俺を見つめると、腰をかがめて俺と目線を合わせた。


「ゼウス君の覚悟は分かったよ。でもね、この世界で生きるには覚悟だけじゃ足りない」

「何が必要なの?」


 ロゼウさんの俺を見つめる瞳は真剣だった。

 この人が言っていることは嘘じゃない。

 子供の戯言に適当に返しているのではないと感じ取った。


「力だよ、ゼウス君。この世界は何においても、力がモノを言う。弱き者に明日を生きる資格はないんだよ。君に明日を手にする力はないよ」


 俺は子供ながらにカッとした。

 ロゼウさんに俺という存在を否定された気持ちになった。


「そんなことッ! やってみないと……」

「じゃあこの剣を避けられるか?」


 やってみないと分からないなんていう無謀なことは、無知であるが故にそう思ったんだろう。

 無知であるからこそ恐怖を知らない。

 ロゼウさんはそれを分からせるために、俺の額に向けて剣を振るった。

 当時の俺には何が起こったのか分からず、気がつけば目の前に剣先が止まっていて、いつ殺されてもおかしくない状況だった。


「この剣は飾りじゃない。敵の命を奪い、自分の命を預けるものだ。覚悟がなければ人を殺すことも、大切な人を失うことにも耐えられない。力がなければ今の君のように死に抗うこともできない。君は目の前のこの剣と戦うことはできるのか? この剣に勝つことはできるのか? それができて初めて生きる資格を得ることができるんだ」


 この剣と戦える?

 そんなの無理だ。

 勝てるわけがない。

 当時の俺は素直にそう思ったし、途轍もなく怖かった。

 普段は温厚なロゼウさんが憎しみさえ感じる目で俺を睨み、剣を突き付けている。

 いつでも殺すことができるという現実が目の前にあった。


 その出来事は初めて俺に死という存在を身近に感じさせた。

 でもその出来事だけで、冒険者に対する想いはなくならなかった。

 そんな俺の気持ちを察してか、ロゼウさんは修練用の刃が潰れたショートソードを与えてくれた。

 手伝いの合間に修行をしていると、ロゼウさんがアドバイスをくれるようになり、それから定期的に稽古をつけてくれるようになった。


 お袋はそんな俺を決して良い気持ちで見ていたわけではないだろう。

 風来亭で働いていたら冒険者の死というのは嫌でも耳に入ってくる。

 応援されるようなことは一度もなかった。

 でも、止めろと言われたことも一度もなかった。


 修行と手伝いの日々が過ぎていき、いつしか俺は宿屋で働くといことに嫌気がさしていた。

 宿屋で一日身を粉にして働いても、稼ぎは千ルクにも遠く及ばない。

 一流の冒険者たちが、一日に一万ルク以上を稼ぐことに比べれば、圧倒的な差があった。


 根拠は何一つなかったが、俺はこんな宿屋で小さく終わらないという自信はあった。

 そんな妙な自信の影響で、現状に対する不満が態度に現れ、それが原因でお袋やレミトさんから怒られることが多かった。

 ロゼウさんから与えられた恐怖という感覚が薄れ、憧れの人から指導を受けているという事実が気を大きくしていたのかもしれない。



 あの日も俺は仕事に手を抜いて、お袋に怒られた。

 仕事の大切さ、お金を稼ぐ難しさを懇々と諭され、それなら俺が簡単に稼いでやる! と、夜中に宿を抜け出し、一人で迷宮までやってきた。

 基本的にはギルド職員が入り口で冒険者の出入りを管理しているが、人によっては用を足しに場を離れる職員もいる。

 夜中は特に出入りも少なく、サボる職員もいるため、冒険者プレートを所持していなくても入ることが可能だということを知っていた。

 案の定、暗闇に紛れて様子を伺っていると、ギルド職員が場を離れ、中に入ることができた。


 初めての迷宮探索に心臓が激しく鼓動し、足も震えていた。

 入った途端に帰りたくなった。

 でもこれまで散々お袋に反発し、意気込んでここまで来たのだ。

 ここで帰れば口だけのただの根性なしという事実だけが残る。

 子供ながらに帰るわけにはいかないという意地があった。


 初めて出会ったモンスターは一角ウサギ。

 想像よりも小さく、可愛らしい姿をしていた。


『なんだ、こんなの楽勝じゃん』


 当時の俺は簡単にそう考えると、自然と震えも止まっていた。

 だが初めての実戦。

 天職を得る前の子供が、そんな簡単に倒せるほどモンスターは甘くない。

 一対一の戦いで死闘を演じて何とか倒すことが出来た。

 一角ウサギのツノで引き裂かれた傷は至るとこにあり、致命傷こそ受けなかったものの、次の戦いに耐えれるほど体力は残っていなかった。

 そして運もなかった。

 一角ウサギとの戦いも束の間、次はゴブリンに出会ってしまった。

 帰り道さえ分からなくなるほど、とにかく逃げた。

 逃げて、逃げて、逃げたけれども、気がつけばゴブリンに挟まれている状況だった。


 死を覚悟した。


 その瞬間、ロゼウさんの背中が頭に浮かんだ。

 もう逃げるのは止めよう。

 俺が目指したあの人はこんな時に泣いて諦めるわけがない。

 きっと、どんな絶望的な瞬間でも最後まで生き残れる可能性に賭けて戦い続けるはずだ。


『だから僕も諦めるわけにはいかない』


 足を止めて涙を拭った。

 死なないために、生きるために必死に戦った。

 だが、戦況は動かなかった。

 迷宮内でゴブリンに打ちのめされ、右腕を切り取られ、生きたままゴブリンに肉を喰われ、激痛で意識が途絶えることなく、地獄の時間が過ぎていった。

 そして血を流し過ぎたせいかようやく意識が遠のいていった。


 最期に考えたことはお袋のことだった。

 いつもみんなにヘコヘコしていて、汚い格好をして仕事をしていた。

 俺はそれが納得できなかったし、許せなかった。

 世界で一番大切で、一番尊敬でき、たった一人の肉親で母親なんだ。

 誰からもバカにされたくなかった。

 横暴な宿泊者たちの扱いも悔しくてしょうがなかった。


 お袋と喧嘩をする前日も、近所のガキから『家なしの貧乏』と言われて侮辱された。

 俺は恥ずかしてくて何も言い返せなかった。

 当時の俺は貧乏は恥ずかしいことだと思っていたし、家には他人に誇れる物が何一つないと思っていた。

 だから俺は余計にお袋の言っていることに反発した。

 こんな少ない給料じゃあ、いつまでも貧乏のままだと。

 だから俺が迷宮に行ってお金を稼いで、お袋に家を買って、綺麗な服を着せてあげようと考えた。

 でも、何もできなかった。


 叶うことはないだろうと分かっていたけど、お袋にもう一度会えるなら謝りたかった。

 それが最期の願いだった。


 そんな願いは意外な形で叶えられた。



 眼が覚めるといつもの天井。

 いつもの風景。

 助かったのか?

 抱いた疑問に答えるように現実の光景が進んでいく。


 俺の視界の先に立つロゼウさん。


『成功か』


 ロゼウさんが一言呟く。

 首を動かしロゼウさんの方を向くと、手には水晶のような物が握られていた。

 水晶の中で紫色の光が渦巻いていて、中心ほど光は濃かった。

 とても幻想的な水晶は魔導具であり、四等級に当たる代物だった。

 当時の俺はもちろんそれを知らないが、その水晶が俺を生かしてくれたのだと何となく理解した。


『ゼウスをここに……最期に一目だけでも……』


 お袋の生気を感じない、弱々しい声が聞こえてきた。

『最期に』という言葉と、お袋の弱った声で自分の状況を何となく察した。

 きっと俺は長くないと。

 だが、最期に願ったことが叶ったのだ。

 俺は死に対する恐怖よりも、この機会を与えてくれた全てに感謝した。


『ゼウス君、起きてるかい?』


 ロゼウさんは覗き込むように俺の瞳を確認すると、俺の返事を待たずに抱き上げた。

 体が一瞬宙に浮くと、視界は大きく広がった。


『…………!?』


 俺は言葉を失った。

 というか、あの時は全身が麻痺していて舌さえも動かなかった。

 この時初めて失ったはずの右腕が付いていることに気がついた。

 今考えればあの魔導具がどういった物だったのかは何となく分かる。

 今では少し偉くなって禁呪の魔導具と呼ばれる物の中には、そういった効果を持つ魔導具が存在するということは知っている。

 だが当時、重傷を治すことができる魔導具は世界に存在していても、肉体的欠損を治したり、死んだ者を蘇らせれる魔導具など聞いたことがなかった。


 当時の俺には何が起こったか理解できなかった。

 夢か幻かそれとも奇跡か。


 いや…………これは現実。

 夢や幻でもなく、奇跡なんていう崇高なもんでもない。

 ただ目の前に広がるのは現実でしかなかった。


 禁呪の魔導具は他の魔導具とは違い、効果は絶大で、奇跡と呼べるような事象を起こすこともできるという。

 だが、そのためには禁呪の魔導具に住まう存在は対価を必ず要求してくる。



 人は宿に泊まればその対価として金を支払う。

 冒険者は大金という対価を得るために自らの命を危険に晒す。

 誰かの命を救うためには誰かの命で支払わなければならない。


 後にレミトさんから聞いた話だが、魔導具は対価として俺が最も大切にする人の命を要求したらしい。

 それがお袋だったということ。

 お袋は一瞬の迷いもなくその提案を受け入れたのだと。


 お袋の状態は凄惨な物だった。

 血の気は既になく、お袋の顔は青白くなっていた。

 言わなければいけないことは沢山あった。

 感謝、後悔、謝罪。

 多くの想いが脳内で駆け巡る。

 だが、言葉が出てこない。

 時間がないことは分かっているのに思うように口が動かない。

 唯一、自分の意思に関係なく瞼だけが動き、瞳に溜まった涙を押し流す。


 お袋が受けた傷はよく見ると何かに噛まれたような跡があった。

 そして右腕が切り取られていた。

 子供ながらに感じた。

 この怪我は俺のものだったはずだと。


 この怪我は全て俺のせいだ。

 俺が危険なことをしたせいなんだ。

 目の前が真っ暗になった。


 俺は一体何の為に迷宮に行ったのだろう?

 お袋に楽な暮らしをさせてあげる為に…………。


 その結果がこれなのか?

 俺が死ぬべきだったんだ。

 俺が一人でやったことなのだから、俺が全ての責任を負うべきだったんだ。

 俺が……。


 お袋が死んでしまうという現実に心が潰れかけていた。

 暗くて、怖くて、寒かった。

 お袋がいない孤独な世界に絶望していた。

 だから俺は無意識に怒りという感情に身を委ねることにした。


 死の責任を取れなかった自分自身への怒り。

 死の責任をお袋に回した世界への怒り。


 そんな俺に気がついたのか、お袋は震える手で俺の手を探り当てると、優しく包み込んだ。


「逃げてはダメ! 現実から目をそらしてもダメ! しっかりと前を見て、前だけをみて突き進みなさい。あなたなら大丈夫。だって私と父さんの息子だもの」


 お袋はその言葉を最期に、笑ってこの世を去った。



 お袋がこの世を去ってから一週間後、俺は風来亭を出て行った。

 当時の俺を動かしていたのは後悔と怒り。


 自分自身。

 取り巻く環境。

 全てが怒りの対象だった。

 お袋と過ごした世界を全て否定していった。

 特にロゼウさんに対しては酷いことを言ってしまった。

 あの禁呪の魔導具を使ったのはロゼウさんだと容易に想像できたからな。

 ロゼウさんは風来亭を出て行こうとする俺に言った。


『君はお母さんが最期に言った言葉を忘れたのか? 逃げるな、現実から目を逸らすなと』


 振り返ると、毅然とした態度で俺を見据えるロゼウさんが立っていた。


『あんたが偉そうに言うな!! あんたが風来亭に来なきゃこんなことになってなかった!! あんたが剣を渡さなければ……あんたが魔導具を使わなかったら母さんは死んでなかった!! もう俺のことは放っておいてくれ!!』


 俺が冒険者に憧れなければ。

 俺が剣を握らなければ。

 俺が無茶をしなければ。


 ロゼウさんに言った言葉は全て俺自身が負うべきものだった。

 そんなことは子供であっても分かっていた。

 だけど優しくされればされるほど俺の心はガリガリと削られていった。

 反発しなければ、正気を保つことができなかった。


 風来亭を出ていってから直ぐに騎士学校の門を叩いた。

 怒りという感情に身を任せ、無力という過去を覆い隠すように、寝る間を惜しんで剣を振るい続けた。

 自分という存在が許せず、痛めつけるように。

 そんな俺にとって騎士学校は居心地が良かった。

 貴族階級がほぼ全てを占める学校では、殆どの存在が俺を蔑み、見下し、嘲笑ったからだ。


 怖いものなど何もなかった。

 あの孤独感、寒さに比べれば、死というものですら大したことではない。

 優しさと過去の記憶だけが俺の心を痛めつけた。


 15歳になった時、騎士学校を卒業することになった。

 その頃になると俺の力は同級生の連中と比べても群を抜いていた。

 卒業試験である模擬戦でも優勝し、ヴァルハラ騎士学校が始まってから七人目の、平民での準騎士の資格を得た。


 将来というものが現実に迫った頃から、最後にロゼウさんが言った言葉を思い出した。


『君はお母さんが最期に言った言葉を忘れたのか? 逃げるな、現実から目を逸らすなと』



 騎士学校の門を叩いのは騎士になるためではなかった。

 当時の俺には、一番必要な物が揃っている気がしたからだ。


 晴れて準騎士となり、外出許可が出たことで、まず向かった先はお袋が眠る墓だった。

 準騎士になれば配属先はヴァルハラとは限らない。

 もしかしたら一生ヴァルハラに戻ってこれない可能性もある。

 この場所は絶対に寄らなければいけない場所だった。

 そして来たくない場所でもあった。

 ここに来ると怖くて、怖くて、どうしようもなく寒くなった。

 自分が一人だと嫌でも思い出させる場所。



 墓石の前まで来ると、自然とお袋と過ごした日々の光景が、光の粒のように儚く過ぎ去っていった。

 あの日から固く閉ざしていたはずだった記憶の欠片は、一つ一つが余りにも美しく、余りにも愛おしかった。

 一つ一つの欠片がどれだけ大切なものだったのか、遠い時間を経たことで再び思い知った。

 お袋に許しを請うように膝をつき、墓石を抱きしめると、自然と涙が溢れてきた。

 もう俺には何もないと思っていたが、この場所には、そして俺の心には確かなものが残っていた。


 俺はあの日から今日まで逃げて来なかったのだろうか?

 現実を直視出来ていただろうか?

 前を向いて進んできただろうか?


 ロゼウさんの制止を振り切って風来亭を飛び出した俺に、騎士学校で剣を振るい続けた俺に、全ての過去に問いかけた。


 今なら分かる。

 何一つ見ようとしていなかった。

 過去からも、現実からも、未来からも、目を逸らしていた。

 きっと母さんはこんな俺を見たくなかっただろう。


 ドクッ、ドクッ、と鼓動を打つ胸の奥。

 母さんが俺に託した命。

 どうやって使うのか、きっとこの胸の奥でニコニコ笑いながら、エールが入ったジョッキを片手に俺の行く末を見守っているはずだ。


 …………風来亭で過ごしたあの日々のように。



『これから先……永遠に会えなくても、母さんの魂は俺の中で生きているから。母さんのこと大好きだった。ありがとう』



 俺はこの日から過去を受け入れ、現実を直視し、未来を手探りながらも探し始めた。





 翌日にはモンジュー家、第一騎士団所属の準騎士として、所属先が王都マスカラに決まった。

 王都でクーデター騒ぎがあったとかで、出発は決定から翌日という急な話だった。

 王都に行けばいつここに戻って来れるか分からない。

 そう理解していた俺にはやるべきことがあった。


 感謝をしても、恨みや怒りをぶつけるべきでなかった相手に今の俺の想いを伝えること。

 五年ぶりに風来亭に足を運ぶとそこには昔のように、レミトさんが忙しなくエールを運んでいた。

 レミトさんは俺の姿を視界に捉えると、一瞬体が固まるが、直ぐに表情を引き締めて俺の方に歩いてきた。


 ーーパンッッ


 気がつけば俺の左頬に痛みが走っていた。

 レミトさんは鬼のような表情で見据えると、ぐっと俺の体を引き寄せ、抱きしめた。


「バカ息子…………お帰り………………」

「ゴメンなさい………ただいま……レミトさん……」


 あの頃と変わらない匂い。

 あの頃と変わらない暖かさが俺を優しく包んだ。


「事情は聞いてるよ。王都に行くんだろ?」


 レミトさんは当然のように俺の配置先を言ってのけた。

 まだこの情報は騎士学校内では告示されていないし、知っている人もそれほどいないのに。


「あんた、宿屋の女将を舐めてるね。あんたが騎士学校に入ってからのこともみんな知ってるよ!」


 レミトさんは俺が出て行ってからの話を続けた。


 いつも仏頂面で友達が一人もいないこと。

 騎士学校で剣を振り続けて倒れたこと。

 実技の試験でいつも一番だったこと。

 卒業試験を首席で終えて、準騎士となったこと。


 時に嬉しそうに、時に悲しそうに話した。


 レミトさんは俺が出て行ってからも、ずっと俺のことを見てくれていた。

 ここにも俺が見ようとしなかった確かなものがあった。

 きっと俺は全てから目を逸らしている内に、色々なものを捨ててしまっていたんだろう。

 それは記憶の欠片たちが放つ光と同じ輝きを放っているものなのに。

 どうして俺は……。


「そんな顔するんじゃないよ! あんたは見失ってただけ! その証拠に、あんたはここに戻ってきたじゃないか!? きっとあんたは大丈夫。なんたって母親が二人いるんだからね!」


 レミトさんは俺の頭を優しく撫でると、会わせたい人がいると席を立った。

 二階から降りてきた人は、懐かしい人だった。

 俺の憧れのクランで、俺が尊敬するあの人の隣にいる女性。

 相も変わらず美しい美貌を持つアリスさんだった。

 そして、その傍でアリスさんの手を握る小さな女の子。


「ゼウス君、久しぶりね。こんなに大きくなって」

「お久しぶりです。これまで何も音沙汰がなくて申し訳ありませんでした」

「いいの。あんなことがあったんだから。どんな人だって、一人になりたい! 頼りたくない! っていう時期は来るものよ。きっとそれは大人に向かうために、成長している証。誰でもいつかは自分の足で立たなくてはいけない日が来るんですから」


 アリスさんは穏やかな表情で微笑むと、小さな女の子を覗き込んだ。


「ヤダよ……。マリナまだ小さいから……ママといたい」

「本当にこの子は困った子ね。もう4歳だっていうのに甘えん坊でね」

「えっと、この子はアリスさんと?」

「そうよ。私とロゼウの子。マリナっていうの」


 時の流れは変わらないものと、変わったもの教えてくれた。

 ロゼウさんに子供ができ、アリスさんは冒険者を一時引退して育児に専念しているという。


「この人、パパとママのしり合い?」


 俺の顔を見上げて首をかしげるマリナちゃん。

 腰を屈めて目線を合わせる。


「マリナちゃん初めまして。マリナちゃんのパパとママに、昔お世話になったんだよ」

「おせわ? マリナみたいに?」


 傾げた首の角度を更に大きくするマリナちゃん。


「マリナちゃんもお世話するの?」

「うん! そだよ! だってパパいっつもごはんひとりで食べられないから食べさしてっていうんだもん! だからアーンするの! とってもおせわかかるの!」

「こら、マリナ! パパの秘密を簡単に言っちゃダメでしょ? パパと約束したでしょ?」

「あっ…………パパ、ごめんしゃい」


 マリナちゃんは約束を思い出したのか、シュンとなると俯いてしまった。


「マリナちゃん、パパと約束したの?」

「うん。パパとやくそくしたの」

「じゃあお兄さんもマリナちゃんと約束するよ。秘密のことは誰にも言わないって」

「ほんと? パパおこらないかな?」


 アリスさんに答えを求めて視線を上げるマリナちゃん。

 目が潤っていて、涙が溢れそうになっている。


「そうね……ゼウス君が秘密にするって言ってくれてるんだから大丈夫だと思うわ。多分だけど……。あの人ゼウス君だけにはこのこと知られたくなかったはずだから」

「どうして俺には?」

「だって……」


 アリスさんの瞳は遥か遠くを眺めていた。

 遥か遠い過去を思い返すように。


「だってゼウス君はあの人の唯一の弟子なんですから。師匠が弟子にだけは格好つけるのはどこの世界でも一緒よ。あの人もあなたの前では柄にもないこと言っていたから、あの人もそういう気持ちがあったんだと思うわ」

「俺がロゼウさんの弟子……ですか?」

「あら、不服かしら?」

「いえ、とんでもないです! だって俺なんかがあのロゼウさんの弟子だなんて……俺、酷いこと沢山言ったし、全然言うこと聞かなかったし」

「ゼウス君がここを出て行ってから、あの人はいつも言っていたわ。稽古をつけてもいいけど、僕は弟子は取らない。僕の弟子は一人で十分だ、ってね」


 ロゼウさんが言ったという言葉に鼓動が大きく高鳴った。

 そしてあの日言ったことを思い出し、深い後悔の念が襲ってきた。


 でも俺はもう逃げない。

 目を逸らさない。


「俺、明日王都に出発するんです! その前にどうしてもロゼウさんに会って……会って、あの日のこと謝りたい。俺に剣を教えてくれこと、命を救ってくれたお礼を言いたいんです!」


 でも、人生というのはままならない。

 何かを後悔し、決意しても、物事は簡単に進むとは限らない。


「ゴメンなさい。ロゼウは今迷宮に潜っているの。今回は長丁場になりそうだから、後五日は戻らないと思うわ」

「そうですか……残念です」

「あんた、どうしても騎士の道を進むのかい?」


 レミトさんが心配そうに俺の顔を覗き込んだ。

 どうして騎士の道を選んだのか?

 それは俺自身も未だに答えは見つからなかった。

 でも、墓石で誓ったこと。

 それはお袋のように誰かの命を救える人間になりたいということだった。


「はい。俺の目指す先がこの道であっているのかは分かりません。でも、進んでみたいんです。しっかり前を見て進んでいきたい」


 誓いを達するには他にも道はあったはずだ。

 でも今は思う。

 この剣が……幼かった俺に授けてくれたこの剣が、この道に導いてくれたのだと。


 その感謝、想いは、時が流れても、きっといつか伝えられると信じていた。

 だが、そのチャンスが訪れるまで長い月日を要することになった。


 王都に着任した俺はすぐさま、クーデーター鎮圧の戦いに繰り出され、その戦いぶりがモンジュー公爵家当主のセオルド様に評価されて、正騎士としての位を賜った。

 翌年にはサイク帝国との激戦地であるヘレモア平原に赴き、六年もの間、戦いの真っ只中に身を置いた。

 決して楽な戦いではなかったが、ここで多くの仲間と出会うことができた。

 その後、第一騎士団の部隊長として王都勤務を命ぜられ、公平と正義の旗の下、多くの罪人を捉えて罪を正していった。

 特に身内の悪行は厳しく責め立てた。


 この世界に身を投じて分かったことは、権力というものは歪な存在であるということだ。

 多くの騎士たちは個人として何も為さず、ただ先祖の功績をもって未だに威張り、時には権力を使い、持たざる者の全てを奪い去っていく。

 ただ単純に理不尽だった。

 権力は正論を踏みにじり、正義を簡単に曲げてしまう。

 正義という言葉は曖昧で、時として権力者の悪行を助ける詭弁となっていた。


 俺にはそれが許せなかった。

 罪を犯す人間は貴族、平民、奴隷、どんな身分の者であっても存在する。

 だが、貴族が平民の財産、生命を犯す時、奴らは決まって正義という言葉をふりかざす。

 だから俺は俺の思う正義を旗に掲げた。

 誰もが心の中に正義という、形になり得なくてもそれに近い何かを持っている。

 正義という言葉はお前たちだけが使えるものではない。

 人の命や心はそんなに軽いものじゃない。

 それをこの国に住む人間、身分関係なく、行動で示したかった。


 そんな俺をセオルド様は高く評価してくれた。

 そして故郷を離れてから約11年、俺の希望とセオルド様の意向が上手く重なり、モンジュー公爵家第三騎士団団長の任を賜った。

 それはヴァルハラ迷宮都市への帰還を意味していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ