三十三話・ヴァルハラ迷宮都市、最強の男
ヴァルハラ迷宮都市内では、各地で戦いの火種がくすぶっていた。
その大きな原因となったのは襲い来る死体。
混乱状態の市民たちは我先にと都市から脱出するために、それぞれ一番近い門を目指した。
だが……東西南北、四つの門は固く閉ざされ、武装した騎士たちが門の開閉を許さなかった。
門の前で溢れる市民の数は圧倒的に騎士よりも多かったが、戦う術を知らない市民たちは憤りを行動に出すことはできなかった。
そんな中、事態は大きく動いた。
空に大きな模様が描かれると、その後大きな赤い竜が姿を表したのだ。
その日、ヴァルハラ迷宮都市内で生きるほぼ全ての人間が空を見上げ、その姿を確認することになった。
伝説上のモンスターとも言える竜。
その存在は市民たちに大きな動揺を与えた。
恐怖、畏怖、期待、それぞれ個々人が持つ感情は様々だった。
だが、竜という存在は市民だけに動揺を与えた訳ではなかった。
もっともこの事態についていけていなかったのは、門を固く閉ざし、死守する構えを見せている騎士たちだった。
何故なら騎士たちにとってこの状況を生んでいるのは、モンスターではなく、謀反人。
モンジュー家に反逆を企てる者たちの策略で、人々はモンスターが迷宮を飛び出したという嘘の情報を信じ、一斉に都市から出ようとしているのだと信じていたからだ。
伝達された情報では、謀反人の首謀者はロロナ副ギルドマスターであり、彼女は市民を扇動することで混乱を誘い、その隙にモンジュー家とギルドマスターを暗殺するつもりなのだと。
モンジュー家とギルドマスターは暗殺に対して対策を十分にとっており、彼女らの逃亡を完全に防ぐために門の開閉は断じて禁ずるとされていた。
真実が覆い隠された状況での竜の存在は、彼らの疑問を誘うには十分だった。
外壁の上で肩を並べ、竜を見上げる二人の男がいた。
「おい、ファーマン! ありゃ何だ?」
「団長、あれは恐らく竜だと思われます」
「だよなあ…………。今回の命令といい、竜といい、何が起こっている?」
団長と呼ばれた男の名はゼウス。
今回、西門の全権を任されている。
彼は騎士としては珍しい平民出身という家柄でありながら、突き抜けた才能と弛まぬ努力で、若くして第三騎士団の団長まで登りつめた男だ。
その強さは騎士団一、というのは誰もが認めるところであり、ヴァルハラ迷宮都市最強と名高いクランである『竜王の血脈』のクランリーダーを一対一で制したという逸話も残っている。
ゼウスにとって公爵家三男からの命令は二の次。
ゼウスは自ら信条に沿って行動してきた。
彼が掲げる信条は正義と公平。
それは上の立場の人間が掲げるならば崇高な志であるが、下の者が掲げるには過大であり、どれだけ固い意志であってもいくつかの壁にぶつかるたびに削られ、折られ、妥協していくものだ。
ゼウスもまた平民出身ということもあり、気が休まることなく壁にぶち当たり続けていた。
彼はおかしいことはおかしいと言い、それが上の立場の人間であれ躊躇することはなかった。
そんな彼を嫌う上の人間は数えればキリはなく、嫌がらせの域を超える出来事は多くあったが、彼の実力がそれらを回避させることになる。
そして時を追うごとに彼を慕う騎士も現れだした。
いつしか彼を中心に一つの勢力となり、強い結束力と鉄の掟で他の騎士たちと一線を画す存在となった。
彼らは他の騎士の横暴を見逃さず、時には実力で抗った。
市民からの評判は圧倒的で、そういう行動が結果としてモンジュー家の現当主の目にとまり、前例のないスピードで出世することになった。
ゼウスは知っている。
上に登らなければ、自ら掲げた正義は簡単に実現できない。
これから先、上の意向が変われば簡単にこの地位は消し飛び、命すら危ういだろう。
権力者に媚びへつらい、自分の信条を実現することがもっとも近道である。
全てを理解した上でゼウスはあえて真っ直ぐに突き進む。
それが彼が騎士を目指した原点だからだ。
「まあ……何が起こっているにせよ、すべきことは変わらない。ファーマン! 俺は打って出る! 後の指揮はお前に任せる」
「ッ!! 打って出るって、何言ってるんですか!? 流石に団長でもあれは無理ですって!!」
ゼウスが向ける視線の先、そしてファーマンが指さす先には竜の姿がある。
「この立場になれば真偽様々な情報が入ってくることになるが、お前が知っている通り、俺は頭が回る方じゃない。だから大事な決断をする時は自分の目で見るしかねえ。ってことで任せたわ」
「…………分かりました。無理せずに……と言っても、意味はないんでしょうが……。せめて街を破壊するのはやめて下さい。後の処理が面倒ですから」
「馬鹿野郎! いつも俺が暴れてるみたいに言いやがって!」
ファーマンはやれやれという感じで首を横に振ると、ゼウスを見る目つきが鋭くなる。
「団長、もうお忘れですか? 二週間前に盗賊の根城を完膚なきまで粉々に潰したことを」
「いや、だってよ! あれはあいつらが無茶苦茶してたからだろうが!」
「それだけじゃありませんよ! 冒険者と取っ組み合いの喧嘩をして、家を全壊にしたこともありますよね? あれは確か……」
「分かった! 気をつけるから! ったく、お前は俺の姑かよ」
「姑のようにさせているのは! 一体! どこの! だれ! なんでしょうか!?」
ゼウスは苦笑いを浮かべると、ファーマンに背を向けた。
「よっと!」
ゼウスは軽々と城壁の塀の上に飛び乗ると、西門に集まる市民たちを見下ろした。
「ここは高えなあ……」
ゼウスは遥か高みから見下ろすと、地上で右往左往する市民と過去の自分とを重ねていた。
ゼウスは元々上を目指して騎士になったのではない。
ただ目の前の人を救える人間になりたかった。
騎士という職業ならば、それが可能だと考えてこの道を選んだ。
今、人々を見下ろす立場にいるのは、ただ運が良かっただけ、というのがゼウスの結論だ。
「あの日、俺は何もできなかった。お袋が死んだ時、ただ見ていることしかできなかった。下にいる多くの人たちもあの時の俺と同じ。誰かに救いを求め、奇跡を信じている。でもそれじゃあ駄目だ。救いも奇跡も自らの手で勝ち取るもの。待っていても降りてはこねえ。……って、人間誰もがそんなに強くないもんな。……だから俺みたいな命知らずのバカが必要な訳だ」
ゼウスは大きく息を吸い込むと、西門に集まった全ての人間が一斉に振り向くほどの声を張り上げた。
「第三騎士団、団長のゼウスだ!! まず! ここに集う全ての住民に謝罪する!! ここに集まった多くの者たちの願いは分かっているつもりだ!! この門を開け、危険から遠ざかりたいと!! だが! 俺は今何が起こっているのか、全く知らない!! 上から与えられた命令はただ一つ!! 門固く閉ざし、誰も出入りさせないことだ!!」
ゼウスの怒声とも言える声は、門の前に集まった全ての住民の視線を集める目に十分過ぎるほどで、ゼウスの姿を視界に入れた民たちは、静かにゼウスの声に耳を傾けたのだった。
「今は何も分からねえ以上、門を簡単に開けるわけにはいかねえ!! 申し訳ない!! だが、だがだ!! これだけは分かって欲しい!! 俺は……俺たち第三騎士団は、どんなことがあっても誰よりも先に血を流し、どんな敵にも全身全霊を込めてお前たちを守ってみせる!! ここにいる奴の中には俺のことを知っている奴もいるはずだ! 俺はどうにも自分で見たものしか信用できない性格だ! だから俺は今からあの竜のもとに行く! そしてこの騒ぎの元凶を全て潰してくる!! 一時で良い!! 俺にお前らの背中を預けてくれないか? 」
側から見ればどこの戦場でもある光景だった。
逃げ惑う市民と、それを安全地帯からご高説する権力者。
ありきたりな演説を聞いて、市民たちはまた犠牲になるのは自分たちなのだと落胆し、権力者たちは自分の雄弁さに酔いしれ、より安全な場所に身を隠す。
だが、西門に集まった住民たちは知っている。
この男が口だけの男ではないということを。
どの騎士よりも誇り高く、誰よりも強く、真っ直ぐな男ということを感じ取っていた。
それら全てはゼウスが、そして第三騎士団がこれまでとってきた行動により勝ち得たものだ。
この場に居る者の多くがこう思った。
『ゼウスになら背中を預けられる』と。
「ゼウス! ゼウス!! ゼウス!!」
そんな住民の想いはゼウスを後押しする合唱に繋がった。
ゼウスコールを続ける者たちにとって、目の前の門が開くかどうかはさほど重要ではなくなっていた。
何故ならあのゼウスが、俺たちに背中を預けて欲しいと言ったからだ。
ゼウスなら必ず、平和を取り戻してくれると確信していた。
ゼウスは心の中でこう呟く。
『どでかいものを背負っちまったな』
ゼウス自身も、竜を単独で倒せると本気で考えているほど、自分の力に自惚れているわけではない。
だが、やるべきことは全力でやる。
たとえ不可能でも意地でもやる。
やり遂げる。
そうやって幾度も壁を超えてきた。
城壁から飛び降り、そのまま駆け出したゼウスはふと空を見上げた。
太陽と地平線が重なり合い、茜色に染まった空は夕闇の世界に移ろうとしていた。
『時間がないな』
直感的にそう感じると、走る速度を上げる。
走ると同時にゼウスは今日までのことを思い返していた。
あれは住民がパニックになる十日前のことだった。
領内で活動を続けている大盗賊団の本拠地を長い戦いの末ようやく叩き、残党狩りを進めている最中だった。
そこに公爵家の使者が現れ、任務は中止。
急遽、ヴァルハラ迷宮都市に帰還命令が下されたのだ。
第二騎士団の団長であるゲイリーと、第三騎士団の団長であるゼウスが公爵家の屋敷に呼び出された。
第一騎士団が対サイク帝国の先鋒として長き間、公爵領に帰還していないことを鑑みれば、事実上公爵家の最大戦力を保持する二人が呼び出されたことになる。
モンジュー公爵家の騎士団には第一、第二、第三、とそれぞれに序列があり、最も戦力が高く、権威があるのは第一騎士団である。
第一騎士団の役割は主に外敵からの備えであり、時として公爵家の命令で他国に遠征することもある。
次に序列が高いのは第二騎士団である。
第二騎士団の主な役割は領地内での治安維持。
それは冒険者ギルドとの縁が深いヴァルハラ迷宮都市では骨の折れる仕事である。
そして最も序列が低いのはゼウス率いる第三騎士団である。
この第三騎士団は元々は存在しなかった。
だが、第一騎士団の長き不在とゼウスの成長を考慮して、二年半前に新たに創設されたのだ。
役割は第一騎士団の穴埋めと、第二騎士団の補助、そして監視だ。
監視という役割は表立って公言できるものではない。
その役割を担っていると知っている者は第三騎士団では只一人。
公爵家現当主であるセオルドが直々に下した命令であり、腹心であっても漏らしてはならいという制限の元、第二騎士団、そしてモンジュー公爵家三男であるロドスの動向を秘密裏に探っていた。
セオルドは長男、次男の死が偶然だとは考えていなかった。
あまりにも不自然で、あまりにも都合が良すぎた。
だが、セオルドにはリンカ王国宰相として王を支える役目があり、簡単に領地に帰ることなどできない。
そして、ロドスのヴァルハラ迷宮都市内での力は日毎に増していて、恐らく第二騎士団でさえもロドスの意向に沿って行動を行うであろうと考えた。
そこで白羽の矢が立ったのが、当時サイク帝国と一進一退の攻防を行なっていたヘレモア平原で獅子奮迅の活躍をし、サイク帝国七将星の一人であるファラーを、一騎打ちで打ち取ったゼウスだった。
また、セオルドはゼウスが王都で活動していた時から、騎士としての清廉さに一目置いていた。
ゼウスはセオルドの目となり、剣となり、盾となることを期待されて送り込まれたのだった。
ゼウスもまたセオルドの人柄から、この人ならば剣を預けられると確信した。
ゼウスはロドスと初めて会った時、瞳の奥底にドス黒い深い闇があることを感じ取っていた。
ゼウスの直感は黒。
だが、いくら追っても尻尾を露わさない。
悪事の気配は感じても、小さな証拠さえ残っていなかった。
第二騎士団もロドスに迎合しているとはいえ、悪事に手を染めているような雰囲気はなかった。
成果が見えない中、呼び出されたのが今日だった。
団長であるゲイリーとゼウスを突如招集したのだ。
実際にロドスの説明通りだとすれば、その対応にしては大袈裟だとゼウスは考えた。
何か裏があるのは間違いない。
そう確信していたが、裏を取れるだけの情報は存在しなかった。
下手に動けばこの先、さらにロドスから警戒をされて動きにくくなる。
実際にここ一年は遠征ばかりの任務を与えられていて、ゼウスを遠ざけようとしている感はあった。
今回の騒動を簡単に纏めると副ギルドマスター潰し。
最も自然に導き出される答えだった。
ロドスとギルドマスターであるバルボアの関係は周知の事実だ。
ヴァルハラ迷宮都市育ちのゼウスも二人の関係はよく知っている。
恐らく選挙戦に向けて力尽くで潰しにかかった結果、こうなっているのだろうと。
だがーー
あの竜の存在は一体…………?
そもそも流言飛語だけで人があそこまでパニックに陥るのか?
確かめなければならなかった。
そして、人型の生物と戦う冒険者たちと出会った。
ゼウスが西地区を猛烈なスピードで駆け抜けている頃、冒険者学校ではグリゼリスとエルトが校長室で向かい合っていた。
「なるほどの。シンヤはやはり、ワシが見込んだ通りの傑物というわけだの」
「私は……彼の力を……いえ、人として存在を見下していました。ですが今なら分かります。シンヤはその力だけでなく人として、私ごときよりも遥かに尊敬できる人です」
肩を落として身を竦める姿は、公爵家の一族には似つかわしくないように思える。
その姿は真摯に自身の過去を悔い、反省している姿に映った。
グリゼリスは人を見下したり、上に見たりしているということは、自分自身で意識しているつもりはなかった。
それを今回の件で身をもって気付かされた。
あれだけの力を誇示することなく、驕ることもなかったシンヤ。
対して、自分は迷宮の中でも侍従の言われるがまま、世話を焼かれていた。
とても矮小な人間に映っただろうし、その通りだった。
危機を乗り越え、自身の行動を振り返り、とても人前で堂々とできる資格などなかった。
「あのプライドの塊のようなグリースたんがそこまで落ち込むとわの。じゃが、その気持ちこそ大切にせねばならんぞ? 悩むなら心置き無く悩むがよい。失敗も幾らでもして構わん。そこにこそ人は成長の可能性を秘めているもんじゃ」
「はい……ありがとうございます。で、ですが……グリースたんというのは……」
「グリースたんもちょっと肩の力を抜いた方が良いぞ? 人と壁を作りすぎるのもよくないと思うんじゃ。人の関係も呼称から、と言うしの。いいもんじゃぞ? 信頼しあった仲間同士だけで呼び合う呼称なんての。ワシも後100歳若けりゃ、グリースたんとウハウハドキドキのラブ迷宮を探索できたんじゃがの。残念じゃ」
「はぁ………」
「ラブ迷宮って知っておるか? あれはワシの青春真っ只中の頃じゃったーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」
グリゼリスはエルトの話を聞きながら、一体自分は何をしているのだろうかと考えるようになった。
街に死体が溢れているという情報が飛び交う頃に呼びだされ、課外活動でのことを質問されていた。
グリゼリスは、命の恩人であるシンヤに仇で返すような行為は絶対にしたくなかった。
だから、召喚魔法というシンヤにとって命取りになり得る情報は巧妙に隠して質問に答えた。
だが、百識のエルトと呼ばれた知謀を警戒して、無理のない話を作らなければいけなかった。
そこで使われたのがシンヤの火魔法と達人級の剣術だった。
エルトは一切疑っているようなそぶりを見せず、最後にはコレである。
警戒していた自分が阿呆らしいし、エルトの言葉に力を貰っていた自分が恥ずかしくなった。
エルトの昔話が一通り終わると、グリゼリスは校長室から解放された。
まず、大きな溜息が自然と出てくる。
そして溢れ出る疑問。
これだけの危機が迷宮都市で起こっているのに、何をしていたのだろうか?
街中で戦う冒険者への応援は?
そもそもエルト校長は最前線に行かなくて良いのだろうか? と。
だが、エルトは違う視点からこの戦場を眺めていた。
大気中に流れる魔素の変化を読み解き、ヴァルハラ迷宮都市は強烈な激流の中にいることを感じ取っていた。
エルトが感じた魔素の乱れはまず、シンヤの疑似天使化によってもたらされた。
それはヴァルハラ迷宮都市に来てから初めてティーファに魔力という食事を与えた時だった。
圧倒的な魔力の膨張と収束。
短い時間だったがその変化は桁違いで、エルトがこれまでの生涯で感じた全ての事象に比べても、比較にならないほどだった。
勇者や魔王どころではない。
それを遥かに凌駕する存在が突如表れ、消えていったのだ。
エルトの肝はその時点で氷点下にまで冷え切っていた。
これからこの世界は滅びますと言われても納得できるほどだった。
だが、何も起こりはしなかった。
ついに自分の頭も耄碌したのかと考えた。
あれは夢か幻だったのだと。
だが、それは一度では終わらなかった。
エルトのこの魔素の変化を読み解く力は範囲はそれほど広くなく、具体的な場所を特定できるほど精度も高くない。
それでも、ヴァルハラ迷宮都市で起こっているということは確信できていた。
第二の変化はティーファが赤竜を召喚した時だった。
これまでの乱れに比べれば規模は遥かに小さいが、それでも勇者降臨時に感じた乱れに近いものがあった。
そしてその乱れの原因は自身の目で確かめることが出来た。
『竜とはまた粋なものが現れたの』
そんな言葉が自然と漏れていた。
竜の存在が何を意味するのか、その答えがグリゼリスの記憶にあるのでは、という考えにエルトは至った。
端的に言えばシンヤの存在。
それがこのヴァルハラ迷宮都市で起こっている、不可解な事象の全ての原因となっているのではないかと推測していた。
だが、その根拠は薄かった。
エルトはこれまでに感じていた、驚異的な魔力の乱れの間隔に注目していた。
とある新人冒険者が迷宮に入っている期間は魔力の乱れがなく、その冒険者が帰ってくると同時期に乱れが発生した。
もっと言えば、その新人冒険者ヴァルハラ迷宮都市に来てから起こり始めた現象でもあった。
エルトは留意しておく人物であるという認識をしていた。
「ふむ。まだ分からぬが、シンヤはまだまだ秘密を多く抱えてそうだの。じゃが、シンヤに限っては心配はなかろう。グリースたんの問題もあったのじゃが、あのしおらしい態度。良い経験を積んだようじゃ。じゃが、その変化が真実を濁らせようとするんじゃの。今回の課外活動は死者無しという奇跡に続き、意外な成果をもたらしたのかもしれんの」
エルトは世界の理が変わっていくような感覚をこの一ヶ月感じながらも、不思議と脅威に感じることはなかった。
その魔素の乱れは確かに世界を破壊できるほどの力を持つ。
だが、その魔素の色はとても綺麗で、人を優しく包み込む暖かさを感じたからだ。
「今回の騒動は心配なかろう。この街にはあの男が帰って来ておるからの。さて、老いぼれは負傷者の治療に勤しむとしようかの」
現在冒険者学校は負傷者の治療の場となっており、数少ない回復魔法の使い手としてエルトは治療に当たっていた。
枯渇しかけた魔力がグリゼリスとの長話の間に少し回復すると、エルトは再び負傷者の傷を癒していく。
そこで伝えられる竜の活躍と戦況報告から、事態は収束に向かっていると推測していた。
「流石にこれだけの魔力を使うのは久しぶりじゃて、老体にはキツイのー。もう勘弁してくれんかのー」
エルトは無駄口を叩きながらも、またヴァルハラ迷宮都市内で魔素の変化が起こっていることを感じ取っていた。
小さな乱れだったが、とても禍々しいものだった。
そしてまたここで桁違いの魔力の膨張を感じとるが、それに続くように禍々しい魔素の乱れが何度も起こっていく。
「行く末は凶と出るか吉と出るか、ただ見守るしかないというのも辛いもんじゃ」
エルトはこの世界の行く末を案じ、ささやかな祈りを乗せて魔法の詠唱を続けた。




