幕間 『二年前』
魔物との抗争は今に始まったことではない。
そもそも人類が今の歴史を歩み始めた時と同じ頃に魔物は世界に顕れ、そして人類に牙を剥いている。
人類は――いや、人類に留まらず、亜人と呼ばれるエルフやドワーフたちも等しく魔物と戦っていた。それが続くこと数百年。連綿と続く歴史の中、幾度となく繰り返された闘争に終わりの日は見えていかった。
しかし魔物と言うのは本来、人間の領域に踏み入れることはない。人に危害を加えることは幾度もあるが、大きな都市に魔物が侵攻したことは、過去一度としてない。
教会が謳う女神の加護――それによって、人の生きる領土に魔物が押し入ることはないのだと言うが、信仰心の薄いツェルからすれば、その謳い文句は眉唾物である。
だが、多くの人間は教会の掲げる女神信仰を奉じている。民衆は女神の加護を信じ、その加護を与えると言う教会を信じているのだ。実際、真偽こそ不明だが小さな村から大都市に至るまで、人の生活圏に魔物が近寄ることはあれど、攻め入ることは限りなく少ない。
勿論、だからと言って魔物との戦いがなくなるか――と言えば、答えは否だ。
もしそれで戦がなくなっているのなら、今ツェルがロイシュタットに従って戦場に赴く、などという状況にはならないだろう。
だが……どうにも女神の加護とやらは、絶対ではないらしい。強力な個体――高い知性や膨大な魔力を持つ魔物には、その女神の加護とやらもあまり通じないそうだ。
故に、彼ら強力な魔物は他の魔物を率いて町などを襲撃するのだ。結果として、騎士や傭兵と言う存在が必要とされる場所――戦場が生じるのである。
魔物のその狡猾さや周到さは、まるで人間の狡賢さと比肩しているといっていいくらいだ。勿論、これらのことを公言すれば即刻教会に拘束され、審問にかけられるのだが。
「……いるのなら魔物のすべてを消してくれないものかな、女神様とやらは」
呟いた言葉が、反響して自分の耳に届くのを苦笑いする。
ツェルの顔を覆うのは完全防備の兜だ。戦場では常にこれを被ることを、ツェルはロイシュタットによって義務付けられていた。
曰く、そのほうが格好いいということだが、実際は別の意図があることをツェルは知っている。
恐らく、最近実しやかに囁かれている自分の――〈血塗れ〉ラインの噂が原因だろう。
『切られているはずのなのに気にした様子もなく戦っている』
『槍で腹を貫かれているはずなのに、当たり前のように戦い続けている』
『腕を失っても足を失って、戦えるはずないのに戦果を挙げる』
『前の戦で死んだと思っていたのに、次の戦場に平然とした様子で現れる』
――総じて最後には『本当に人間なのか?』といわれているらしい。自分でも、確かにこう客観的な意見を鑑みれば異常だと思えた。
でも、別に平気なわけではない。
斬られたら痛いし、腹を貫かれた時は死ぬかと思った。
腕や足を切り飛ばされたり、噛み千切られた時は気が狂いそうだった。正直何度失ったか判らない。繋げて治してくれた治癒術師には感謝してもしきれないくらいだ。
何より平然と戦場に立っているつもりもないし――その実、戦場に立っているのが、本当にツェルヴェルク・ラインであるという保証もないのに、よくもまあ……とツェルは失笑する。
真紅のコートに鉄仮面を被ったロイシュタット殿下直属の騎士、それがツェルことツェルヴェルク・ラインの戦場に立つ際の姿だ。
――逆に言えば。
真紅のコートに鉄仮面――この二つさえ揃っていれば、誰だって〈血塗れ〉ラインになれるのである。
そしてその場合、中身が本物のツェルヴェルク・ラインである必要はない。必要なのは、真紅のコートを纏った鉄仮面の騎士が戦場に立つことである。そこに中身の真偽は関係なかった。
故に、万が一ツェルが療養中であっても代役を立てることは容易であり、もし代役が死んだとしても、その実中身は無事なのである。
――〈血塗れ〉ライン。
求められているのは、その名を冠する偶像だ。
彼らの求める偶像と外面が一致すれば誤魔化すのは容易く、その影響力は他に得難いものだった。
どれだけ傷つこうと決して屈することもなく。
また。
死してなお、次なる戦場には必ず現れる不屈の――全身血塗れの騎士。
それがロイシュタットとツェルヴェルクが自軍の士気を高めるために生み出した幻想だった。
そしてその血塗れの騎士は、今日も戦場に立っていた。
その手に愛用に騎士剣を手に、自分の倍近い身の丈を持つ巨身の化け物の拳をひらりと躱し、同時に振り下された腕に剣を叩きつける。
――騎士剣。
ユミル王国の騎士が有することを許された、魔術を内封する兵器。その騎士剣の剣身が内封されている魔術を励起――騎士剣全体が淡い光を帯びて、刃が異形の腕に撫でた。
それだけで、騎士剣が帯びる魔力の刃が、いとも容易く異形の腕を断つ。
両断された切り口から鮮血が噴き出し、鋭い牙の並ぶ口が絶叫を上げ――その口膣内目掛けて、ツェルは跳躍と共に剣を突き立てた。
同時に騎士剣の纏う魔力が爆発する。突き立てられた魔物の頭部が、一瞬遅れて弾け飛んだ。
爆発の衝撃によって頭部が弾ける。肉片や脳漿が四散八散し、噴水のように魔物の血が噴き出す中、ツェルは返り血を浴びることも構わず、倒れる魔物の頭上を飛び越えて戦場を駆け出した。
駆けながら剣を掲げ、声たからに叫ぶ。
「幾度も立ち上がれ!」
『子羊が獅子となるまで!』
呼応するように、戦場か各所から鬨の声が上がった。その声を耳にしながら、ツェルは再び迫る魔物へと向かって剣を振るう。
血風の中を駆け抜け、剣を振るい、魔物を屠る。そしてひたすらそれを繰り返す。
それだけが――それこそが、ツェルの成せる唯一のことからだ。
◇◇◇
戦線が落ち着いたのは、それから一時間が過ぎた頃だった。青い髪をした傭兵が、魔物を率いていた統括者を討ったのである。
ツェルが複数の魔物を相手取る中、その傭兵は仲間を引き連れて姿を現すと、まるで獣のような荒々しい剣舞で魔物の群れの中を突き進み、その巨大な剣を以て魔物の統括者を斬り伏せたのである。
それと同時に魔物たちの統率が崩壊した。元々種族の異なる魔物が同じ陣営であれるのは、ひとえにその一団を率いる者がいるからこそである。そして、それは人間であっても変わらない。だからこそ何が起きたかは容易に想像がついた。
軍勢の崩壊だ。
統率が執れなくなった軍隊は、人が思っているより遥かに脆い。
指示がなければ、自分たちは何をすればいいのか判らなくなる。判らないまま行動を取ることはできず、また勝手に動けば新たな混乱を招く。そして多かれ少なかれ無防備になってしまう。無防備を晒してしまう。そしてその無防備な部分と言うのは、敵対者にとっては好機以外のなにものでもなく、またそういった機会というのは思っている以上に目につきやすい。
後陣の騎士や傭兵たちが攻めに転ずるのは、かなり容易なことだっただろう。
勝敗は、決した。
勝鬨が上がる戦場を、ツェルは幽鬼のように歩いて陣へと戻る。血塗れの騎士に求められているのは戦場での貢献だけだからだ。戦が終われば、その場に留まる意味はない。
ただ、主君の元に戻るのみ。
返り血を洗い流す間もなく、ツェルはロイシュタットの天幕へと足を踏み入れようとして――中から声がすることに気づいて足を止めた。
声の種類は二つ。
一つは聞き慣れた主君――ロイシュタットのものだ。
だが、もう一つの声は聴き覚えがなかった。判ったことは、話し相手が女性だということだけ。
入るか否かを躊躇っているうちに、天幕から女性が姿を現した。
その女は全身をすっぽりと隠すような外套に身を包んでいた。ご丁寧にフードまで被っていて、顔を確認することは叶わない。
「あら、失礼」
ツェルの存在に気づくと、女性は僅かに見える口元に微笑を浮かべて会釈すると、足早にその場を後にした。
わずかの間だけ、ツェルは歩き去る女の背を見据える。
戦場にいる女性と言うのは数が限られる。魔術師か、治癒術師か。あるいは娼婦か……しかし、前者二つの内、魔術師は前線に出ているし、治癒術師は戦が終わったこれからが本領だ。とてもでないが、この戦の総指揮官であるロイシュタットの下に訪れている時間があるとは思えない。勿論、火急の報せがあった可能性もあるが、どうにも女の態度からそのような気配は感じられなかった。
ならば娼婦――というのは、最も有り得ないことだ。戦の前や戦勝の宴後ならいざ知らず、今まで魔物との戦の只中にいたのだ。当然、女と閨事を繰り広げているような状況ではない。
――……まあ、そんなことしていた日には、俺がロイを叩き切るんだけどな。
主君――いや、友人の愚行は是が非でも止める……もとい、監視役も任されているツェルとしては、そんなことはないことを祈りつつ、「ロイ、入るぞ」と言うや否や、返事も待たずに幕へと踏み入れる。
「せめて返事を待ってから入ってきてもらいたいものだね……」
天幕の主は、苦笑交じりに闖入者を一瞥する。
「お疲れ、ツェル」
「本当に疲れたよ」
にべもなく答えながらツェルは被っていた兜を外し、ようやく一息ついた。そして炉端の石ころをような感覚で手にしていた兜を無造作に地に投げ落とす。それを見ていたロイシュタットは、眉を顰め嘆息した。細く長い、若草を模した髪飾りが、その仕草に合わせて揺れる。
「血生臭いものを、私の天幕で捨てないでくれないか?」
「それを頭に被っている俺の身になってくれ。もう一秒だって被っていたくない」
「〈血塗れ〉の異名が、草葉の陰で泣くんじゃないかい?」
「いっそ存分に咽び泣いてくれ。代わりに俺は泣いて喜ぶさ」
にやり、と口の端を吊り上げてツェルは言う。「ひねくれた奴だね?」と呆れ顔のロイシュタット。
気心の知れた相手だからこその空気が二人の間に流れるが、それも一瞬。ツェルは笑みを消し、その双眸を細めてロイシュタットを見据える。
「それで……さっきの女は何者だ?」
「おや、惚れたのかな?」喜色満面といった様子でロイシュタットが口元に微笑を浮かべた。一体何をどう曲解すればそうなるのか……彼の脳内は本当に理解できない。そう思いながら溜め息一つ漏らした。
そして「冗談ではなく」と苦言しながらツェルは射抜くような視線を向ける。ロイシュタットは「判ったよ」と両手を挙げて降参の仕草。そして、とっておきの秘密を告白するかのような表情で言う。
「自称『魔女』だそうだ」
「ふざけてるのか?」
「至って真面目だよ」
怪訝するツェルに対し、ロイシュタットは厳かに笑った。
「彼女はそう言って私の前に現れた。そしてこうも言ったよ――『近いうち、貴方は選ばれる』と。意味を尋ねる前に、彼女は回れ右をして去って行ったから、どんな意図があったのか、計りかねているところだ」
「……怪しさ全開だな」
「まったくだよ」とロイシュタットは頷き、「まるでお伽噺の冒頭に出てくる悪い魔法使いのようだ」くくっと笑いを零す。その様子から、少なからず面白がっているのが判ってしまい、ツェルは呆れて溜め息を吐いた。
「それは不吉のたとえじゃないのか?」
「不吉とまでは言わないよ。だがまあ、碌でもないことだということだけは確かだね」
「そう思うのなら、なおさら気を付けろ。戦場に一人で現れるような怪しい女なんて、暗殺者だと考えるぞ、普通は」
「美人は敬うべきだろう。それが例え私の命を狙う輩であっても、だ」
ロイシュタットは晴れやかな笑みと共にそう言い放つ。そんな彼の科白に対し、ツェルは大仰にかぶりを振った。
「お前の傍付でいるのは、いつも気苦労が絶えないよ」
「その分、私は気楽でいれる。感謝しているよ、ツェル」
愚痴に対して、ロイシュタットは皮肉たっぷりに返して口元を歪める。そんな彼の仕草に釣られるように、ツェルもまた口元に苦笑を描いて肩を竦めた。
「できたら誠意ある形でその感謝を表現してほしいな、ホント」
「なら抱擁しようか?」
「剣の錆にしようか?」
そう軽口を叩き、二人は声にして笑った。
が、それのほんのわずかな間だけ。笑い合う二人の耳朶を叩いたのは――警笛の音。
まるで海が凪いだように、二人の笑い声は鳴りを顰め、表情に緊張が走った。ロイシュタットが無言で腰かけていた椅子から立ち上がり、立て掛けてあった剣に手を伸ばす。
ツェルもまた腰の剣に手を添えて、いつでも抜剣出来る姿勢を取った。
二人が視線を交わす。それだけで意思疎通を成すかのように、同時に首肯。歩み寄ってきたロイシュタットを背に、ツェルは天幕の入口から外を窺い――転瞬、幕を殴るようにして外に飛び出し、その光景を目にした。
――否。
目の当たりにしたのだ。
「なんだ、これは……」
ツェルの視線の先。そこに繰り広げられていた光景は、間違いなく終わったはずのもの。いや、もしかしたらそれ以上の惨劇。
耳に届くのは数多の悲鳴と断末魔と、剣戟と爆音からなる不協和音。
そして頭上から降り注ぐのは、魔術によって生み出されたのであろう、数多の業火だった。
「ロイ!」
降り注ぐ魔術の雨を認識すると同時に名を叫び、振り返る。振り返りながら彼の下へと駆け寄る。
剣を手にしたロイシュタットが、驚いたように目を剥く中――ツェルは「逃げろ!」と叫んだ。叫んだつもりでいた。
しかしそれが叶ったのか、ツェルには判らない。
声が届いたのだとすれば、ロイシュタットはなんと言っただろうか。
何故? だろうか。
あるいは、何処に? か……その答えをツェルが耳にすることはなかった。
彼の声が耳に届くよりも早く、頭上から降り注いだ魔術の猛威が地上を焼き――次にツェルが気付いた時には、もうすべてが終わっていた。
そしてロイシュタットの姿は、何処にも見当たらず、以後――彼の行方は杳として知れなくなっていたのである。