その三
それは地鳴りだった。
ずしん……ずしん……という、とても大きな何かが近づいてくる――そんなことを想像させるような、重い地鳴り。
最初にツェルが気付き、音の出処を探る。ツェルに続いて、ガイアスが。ローウッドが。女騎士が。更には頭巾で顔を隠している影も地鳴りに気づいたようで、辺りを警戒し始める。
自然、武器を持つ面々が自身の得物に手を伸ばしていた。
ぞくりと背筋を走る悪寒に身構える。
――こいつは……拙いんじゃないか?
そう思った時だ。
「上だ!」
頭巾の男が叫ぶ。
ツェルたちの視線が一斉に頭上へと向けられる。同時、広間の天井に亀裂が走り――転瞬、それは姿を現した。
衝撃と共に天井が砕け、無数の瓦礫と共に巨大な影が落下してくる。
ツェルたちは瓦礫から逃れるように広間の隅へと走った。しかし、対処が間に合わなかった一人が、悲鳴と共に降ってきた瓦礫の下敷きになる。
それとほとんど時を同じくして、瓦礫と共に鈍重な着地音が辺りに伝播した。
「はは!」ガイアスだけが嬉々したように声を上げているが、他の面々はその闖入者の姿に息を呑んだ。
「冗談だろ……」ぼやきながら、ツェルは剣を鞘走らせる。
闖入者が「カアァァァァァ……」と息を吐くと、辺りに悪臭が蔓延した。
現れたのは、ツェルたちより三倍……いや、五倍近くの背丈はある異形――オークと呼ばれる魔物である。しかものその中でも体躯が二回り以上も巨大な部類――ジャイアント・オークと呼ばれる危険種。
「うひやぁぁぁ、オークや!?」ローウッドの悲鳴が辺りに木霊した。
――そんなことは言われなくたって判っている!
胸中でローウッドに叱声した。
そして、彼の悲鳴を合図としたかのようにオークが暴れ始める。
ツェルの体躯以上の太さがある腕を振り回し、オークは間近にいた名も知らぬ男を殴り飛ばした。男の身体がまるで枯れ木のように容易くへし折れ、壁際に叩きつけられ動かなくなる。
首が可笑しな方向に曲がっていた。いや、首だけではない。腕は原形を留めていないし、足のほうは殆んど引きちぎれているような状態だった。身体に至っては中から骨が突き出ている――間違いなく絶命しているだろう。どうやったって、助かりはしない。
腕の一薙ぎで一人殺したオークが、まるで勝鬨を上げるかのように声を上げた。そしてそのまま視線を巡らせると、今まさに殺された男の死体を見てへたり込んでいる女性に手を伸ばした。
――拙い、と思った時にはもう遅かった。
女性は迫るオークの手を見て悲鳴を上げるが、逃げ出そうとしない。どうやら男の死を見て腰を抜かしているらしい。あれでは逃げられない。
オークの手が女性を摑むと、そのまま無造作に持ち上げた。女性が抵抗するように腕を振り回しているが、オークはそんな行為など気にも留めていない様子であんぐりと口を開くと、一瞬の躊躇いもなくその頭に噛り付いた。
あまりの光景に、一同が息を呑む。しかし、そんなことなど露とも知らぬオークは容赦なく口に含んだ女性をその黄ばんだ歯が――噛み砕く。
鈍い音がオークの口元から響いた。ごきゃ……という骨が砕いたのであろう音が耳朶を叩き、ぶちりと肉を噛み千切る音が続く。オークの口元から鮮血が滴っていく。頭から喰われたのだ。それだけで死んでいることが判っているが、流れた血の量がより一層女性の死に現実味を帯びさせる。
ばりばりと、まるで骨の硬さなど気にしていないような咀嚼音が辺りに木霊した。そして、
じゅるゅじゅるじゅる……
と。
何かを啜る音。
――血を呑んでるのかよ!
まるで死体を貪る餓鬼か何かのようだ。いや、餓鬼のほうがまだ可愛げがあるかもしれない。目の前にいるのは、間違いなく人間を餌とする化け物なのだ。
それも圧倒的な体格と怪力を兼ね揃えた怪物。
そんな怪物の姿に、残った者が揃って戦慄を覚えた。
ものの十数秒で二人。しかもそのうちの一人は喰われていると来ている。その光景を見て恐れを抱くな――ということのほうが無理な相談だ。
もっとも、
「つぁらぁぁぁあああああああああああああ!」
恐怖を抱くどころか、闘争心を刺激された者もいる。
〈狂戦士〉ガイアス・ウォーレン。
彼はオークが女性を食い散らしたのとほとんど同時に地面を蹴り、オークに向かって突撃した。
間合いを詰め、裂帛の気迫と共に背負った大曲刀を上段から振り下ろす。ただそれだけで骨肉すら両断しそうな一撃がオークを襲う。
しかし、寸前でガイアスの襲撃に気づいたオークが、その鈍重そうな体躯からは想像もできないような俊敏さでその一撃を紙一重で躱した。最も躱しきれず、僅かにだがガイアスの刃がオークの脇腹を切り裂く。
「はっ! 豚のクセに躱してるんじゃねーよ!」
躱したオークを、ガイアスは再び大曲刀を構えて肉薄する。
「せりゃああああああああああああ!」
再び、一閃。今度は横一文字の薙ぎ払い。
迫る斬撃を前にオークが動く。喰い掛けの肉を吐き出し、代わりにオークはその巨大な拳をガイアス目掛けて振り下ろした。
斬撃と拳撃が激突する。
誰がどう見たって、ガイアスの分が悪い。実際、ガイアスの剣とオークの拳が激突すると、一瞬の拮抗の後、ガイアスの身体が大きく後方に吹き飛んだのだから。
しかし――ガイアスが吹き飛ぶのと同時に、入れ替わるようにしてツェルがオークの懐に飛び込む。
手にする剣を袈裟に払う。
ガイアスに向けて振るった拳を振り抜いた姿勢のオークがツェルの存在に気づくも――遅い。
深々とツェルの剣がオークの腹を切り裂く。だが、分厚い脂肪に覆われたオークの腹が、ツェルの剣を半ばで受け止めた。
――振り抜き切れない!
そう判断したツェルは、即座に剣を引いた。そのツェル目掛けて、オークの膝が振り上げられる。
膝の一撃を辛うじて躱すも、ツェルはオークのその動きに言葉を失った。
オークのその動きは、まるで格闘技の心得があるようだった。
――こんなオーク見たことないぞ!
舌打ちしながら、ツェルはオークが放った追撃の拳を、体を開いて回避し――続く裏拳の一撃を寸でのところで剣で防御。しかし拳撃の勢いまでは殺しきれず、先のガイアスと同じように吹き飛ばされる。
「ぐがっ!?」
壁に背中から叩きつけられ、衝撃で肺の中の空気が吐き出された。背中から全身に伝播する痛みに悶絶しそうになりながら、ツェルはどうにか体制を立て直してオークを見る。
視線の先では、再びガイアスがオークと切り結んでいた。
あれほどの体格差がありながら、ガイアスはオークと互角に遣り合っている。拳撃を受け流し、反撃の斬撃を次々と叩き込んでいく。
魔術師らしき女や、頭巾の人物も遠巻きにオークの隙を窺っているのが判る。
「無事か、ツェルヴェルクはん!」
「なん……とかな」
ローウッドが駆け寄って手を差し出す。ツェルはその手を取って立ち上がり、剣を握り直しながら辺りを見回す。
出口は何処だ?
幾つもある通路に視線を向けるが、一見しただけではどれも同じものに見える。もし入って行き止まりだった場合、一発で詰みだ。戻った先で、オークの待ち伏せに合って終りである。
そもそも、どうしてオークが現れたのだろう。元々この建物がオークの巣だったのだろうか。などと余計なことを考えてしまう。
今はそんなことを考えている場合ではないのに。
そうして歯軋りするツェルの視界の端で、何かが動いた。一瞬、別の魔物か何かと思って警戒しながら視線を動かし――そして息を呑む。
ほの暗い通路の奥から姿を現したのは、一人の少女だった。
何処か神秘性を帯びたその姿を見た瞬間、ツェルは妖精か何かと我が目を疑った。まるでお伽噺の中から抜け出してきたかのような、ある種の幻想さすら宿しているような少女。
彼女は何処かぞっとするような冷ややかな双眸で、ガイアスと対峙するオークを見据えた。そしてその手に握っていた小振りの指揮棒のような棒をオーク目掛けて翳すと、小さく何かを口ずさみ――そしてそれは放たれた。
少女が行使したのは魔術だった。棒の先に描かれた光の円環から迸る閃光が、狙い澄ましたかのようにオークの頭部を襲った。
同時にツェルは、少女の手にする指揮棒のようなものが、魔術を行使するための魔術杖だと悟る。
「……みなさん、出口はこちらです。ついてきてください」
そして突然の闖入者の所業に全員が言葉を失う中、少女は静かに言葉を口にした。オークの悲鳴と地団駄による喧噪に包まれている空間の中で、しかしはっきりと皆の耳に届いた。
皆が判断に迷っているのが判る。果たしてこの少女を信用していいのか? と、悩んでいるのだろう。
そう感じるのは実際、ツェルもそんな信条だったのだからだろう。
しかし、少女はこちらの反応など気にも留めた様子もなく、無言で元来た道を戻っていくのを見た瞬間、ツェルは迷いを捨てて叫んだ。
「――行くぞ!」
言うや否や、ツェルは少女の消えた通路へと走り出し、振り返りながらもう一度声を上げる。
「死にたくないなら急げ!」
「は、はい!」
最初に反応したのは、あの金髪の巡礼者だ。彼女は護衛である女騎士が静止するよりも早く走り出し、少女の後を追った。女騎士は舌打ちをしながらその後に続く。
「確かに、こんなところで死ぬのはごめんね」
言って、魔術師らしき女も帽子を抑えながら通路へと走り出す。いつの間にか短剣を手にしていた頭巾も同様。オークの動きを警戒しながら、音もなく地を滑るようにして通路へと向かう。
「ローウッド!」
ツェルは商人の名を叫んだ。すると、彼は電撃に撃たれたように飛び上がり「はいぃぃぃ!」という情けない声と共に通路へと走り出す。
その様子を見て、ツェルはなんとなく苦笑してしまう。
――よし。あとは一人か。
「ガイアス・ウォーレン!」
最後に、ツェルは未だオークと対峙するガイアスに声をかける。彼はなおもオークと切り結ぼうとしているようだったが、ツェルが名を呼ぶと舌打ち一つ漏らして視線をこちらに向け――
「仕方がねぇか……」
と忌々しげに言った。同時に剣を頭上に大きく持ち上げ――それを地面目掛けて振り下ろす。
凄まじい衝撃と共に、石畳の地面が爆発した。あの長身から生み出される膂力と、肉厚の大曲刀だからこそできる芸当だ。
爆散する石畳がオークを襲い、怪物は悲鳴を上げながらガイアスと距離を取った。そして、その一瞬の隙をガイアスは見逃さなかい。
彼はオークが退くと同時に地を蹴って反転し、ツェルが立っている通路に向かって全力で走る。
すると、オークが何かに気づいたように此方を見た。やばい、とツェルの直感が告げたような気がした。
そして、その直感を裏付けるようにオークが突如ガイアスの背を追って走り出す。地を揺らすような足音と共に、やはりオークと言う名からは想像もつかない俊敏さでオークはガイアスの背へと迫った。
「くそっ!」
悪態を吐きながら、ツェルはコートの裏に手を伸ばした。其処に仕込んでいる投擲用短剣を抜き、ガイアスを追うオークへと投げ放つ。
三本の短剣が、疾駆するオークへと飛んで行く。
だが、その程度でオークは止まらない。飛んできた短剣をまるで羽虫のように腕を振るって叩き落とす。
走る勢いは変わらない。
このままではガイアスが通路に辿り着くよりも早く、オークがガイアスを捉える。
そう思った時だった。ツェルの背後から、風を切って何かが空中を疾駆し――オークの顔に突き刺さった。
オークが悲鳴を上げる。
よく見ると、オークの顔には矢が突き刺さっていた。
一体何処から?
そう思って振り返ると、そこには肩で息をしながら弩を構えているローウッドの姿があった。
彼は呆然とするツェルと目が合うと、にやりと口元に不敵な笑みを浮かべながら言った。
「いやはや。持っておくと役に立つもんやなぁ」
「こいつ……!」
そのふてぶてしい態度に、思わず歓喜の声を上げそうになるツェルだったが、背後から降ってきた「どけ!」という声に我に返る。
誰の声などと考えるまでもない。ツェルは振り返ることもせず、「走れ!」と叫びながらローウッドと共に通路の奥へと走り出す。その後ろを飛び込むようにして駆け込んできたガイアスが追従する。
「急ぎやがれ!」
「言われるまでもないさ!」
「うひゃあああああああ!」
男三人の声が通路に木霊する中、その声を呑み込むような破砕音が背後から轟いた。
走りながら視線だけを向けると、通路の遥か彼方が崩落しているのが見える。オークが追ってこようとして破壊したのだろう。それくらいは推察せずとも判った。
問題は、なおも通路が破壊され続けているということだ。障害など無視して無理やり押し通ろうとしているのか。だとしたらなんという力技か。
知性がない分、本能のままに暴れている――ということか? 追われている側としては迷惑以外の何でもない。
悪態を吐きそうになるのを必死に抑えながら、ツェルは二人と共に通路の奥へと一目散に走り抜ける。そうして辿り着いた奥にあった螺旋階段を二段飛ばしで駆け上り、ようやく出口らしきものが見え、安堵の息を漏ら――そうとした矢先、下のほうで何かが崩れる音がした。
「な、なんや!?」ローウッドが素っ頓狂な声を上げる。
「想像はつくが……」ガイアスが舌打ちをした。
「見たくないな」ツェルは嘆息と共にかぶりを振った。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
凄まじい咆哮が下方から襲い掛かる。
「走れ!」
ツェルが叫ぶと、ローウッドは地を這うようにしながら階段を登り始める。
ツェルとガイアスが揃って螺旋階段の吹き抜けを通して下を覗くと、やはりというか――そこにはぎらぎらと目を輝かせながらこちらを見上げているオークの姿があった。
互いの視線が交錯する。捕食者と被食者が相手の存在を確認するような、そんな交錯。
そして恐ろしいことに、その口元がにたり……と三日月を描いたように、ツェルには見えた。
あの化け物はまだ、獲物を捕らえることを諦めていない。
「ヤバい」
独り言のように漏らしながら、ツェルは踵を返して階段を駆け上る。ガイアスもそれに続いた。彼が如何に〈狂戦士〉と謳われる猛者と言えど、ジャイアント・オーク相手では分が悪すぎることが判っているのだろう。
「おい〈血塗れ〉! あいつをどうにかできねーのか!」
「出来ないのが判っているから逃げているんだろう!」
「敵に背を向けろってのか、ふざけるな!」
「お前がふざけるな!」
「俺はふざけちゃいねーよ!」
「だぁぁぁ、面倒臭い!」
前言撤回。この男は根っからの命知らずらしい。あるいは単に莫迦なだけなのか。どっちにしろ、不利を知ってなお挑もうとするなど、正気の沙汰じゃない。
あのオークは本来十人単位の戦士が足止めをして、その隙に魔術師が高火力の魔術で討つことを前提とした化け物だ。百戦錬磨の英傑であろうと、一騎当千の勇者であっても、単身で相手にするような存在ではない。
故に、戦力差が歴然としている今は逃げるしかないのだが、それを良しとしない戦闘莫迦もいれば、そうはさせまいと喚声を上げる化け物もいる。
螺旋の下、全身で声を発する巨身が、その図太い腕を振り上げた。渾身の一撃と言わんばかりの剛腕が、螺旋階段の柱を殴打する。
一撃で――そう。たった一撃で、階段の支柱が粉砕された。まるで子供の積み木遊びのように容易くである。そして柱によって支えられていた螺旋階段は、形状を維持することが出来ず瓦解を始める。
「ああああああああああああああ! 神様ぁぁぁあ!」
ローウッドの口から悲鳴が漏れた。
ツェルが舌打ちをしながら手すりに摑まり、改めて眼下のオークを睨む。すると、見上げていたオークはまるでそんなツェルの様子を楽しむように口の端を吊り上げていた。癇に障る笑みだった。
「ガイアス・ウォーレン!」ツェルは傭兵の名を呼んだ。傭兵はツェルの隣で同じように眼下のオークを見下ろしながら「何だ、〈血塗れ〉」と返す。
ツェルは腰の剣を抜き放つと、簡潔に言葉を投げつけた。
「直に崩れる。そうなったと同時に跳べ。一か八かの破れかぶれだ」
ツェルの言わんとすることを理解したのか、ガイアスはにたりと口の端を吊り上げて笑みを浮かべる。酷い話だが、その笑い方は眼下のオークと大差がない悪辣な笑みだった。
「死にたくなければ外すなよ、〈血塗れ〉」背中の大曲刀の柄を握りながら、ガイアスが言う。
「どのみち失敗したら待ってるのは冥界行きだ」途方に暮れそうになるのを必死に堪えながら、ツェルはタイミングを計った。
そして、螺旋階段が崩れていき、ツェルたちの足元が落下し始める――その瞬間。
騎士と傭兵が同時に跳躍する。
瓦礫の雨が降る中、獲物が降ってくるのを嬉々として待つオークの頭上目掛け、騎士と傭兵が得物を手に落下。そして――
――ざしゅっ!
――と、ツェルの騎士剣がオークの右目を穿った。突然の出来事に理解が追い付いていないのか、オークは潰れていないほうの目を瞬かせている。
そして、一瞬遅れて落ちてきたガイアスの大曲刀が、
「っらあああああああああああああああああああ!」
猛獣の如き雄叫びと共に、オークの頭頂に叩き落とされた。
――ばこんっ!
と言う子気味良い音と共に、オークの頭が真っ二つに両断される。高所落下によって勢いを増した分厚い刃が、肉を切り裂き、頭蓋を粉砕。大量の血飛沫が吹き上がり、頭の中身が血飛沫と共に四散させる。
人間のそれとは違うようで似た色の血が天高く噴き上がり、やがて血の雨となって二人の全身を濡らした。
これだけの致命傷を受けては、如何に生命力の強いオークでも生きてはいられなかった。断末魔を上げることもなく、ゆっくりとオークの巨体が崩れ落ちる。鈍重な音を響かせて仰向けに伏したオークを見下し、ゆっくりとツェルは剣を引き抜いた。血振るいし、鞘に納めたところで、隣に立っていたガイアスもようやく剣を引き抜く。
「はっ、ざまあみやがれ。豚が」
そんな科白を吐くガイアスに呆れればいいのか感心すればいいのか判らず、ツェルは難を逃れたという現実を噛み締めて溜め息を吐く。
それと時同じくして、頭上から「ツェルヴェルクはーん! ガイアスはーん! 無事でっかー?」と呼びかけるローウッドの声が聞こえた。
返事の代わりに、ツェルは肩を竦めながら声を上げる。
「ロープかなんか持っていたら、投げてくれないか?」
◇◇◇
「あら、貴方たち。生きてたのね?」
崩壊を免れた螺旋階段の残骸をのぼった先で待っていたのは、あの露出の多い女性からのそんな言葉だった。
「……」
女の態度に、ツェルは最早何も言い返す気にならず、ただ半眼で睨み返すに留める。そして何気なく女から視線を外した――その先に広がる光景に、ツェルは息を呑んだ。
最初に目に留まったのは、世界を呑み込むような茜色。
地平線の彼方から世界を照らす黄昏の光だった。そしてその黄昏の光に包まれている無数の廃墟と、その先で彼方まで広がっている荒野に目を奪われる。
そして、浮き上がる疑問は一つ。
――此処は、何処だ?
その景色を、ツェルは観たことがなかった。そもそもツェルのいた大陸に、記憶違いでなければこれほどの荒野が広がる場所はないはずだ。
ふと我に返って周囲を見回す。
ローウッドはあんぐりと口を開いたまま呆けているようだった。
あの傭兵をしても、険しい表情で眼前の光景を凝視してる。
先に脱出した巡礼者の女性と女騎士は、信じられないと言う風に驚愕の色を浮かべている。
頭巾の男は途方に暮れたように地面に膝をついていた。
先ほどの女は苦笑いを浮かべているが、その実冷や汗が頬を伝っているのが、ツェルには見て取れた。
誰も、誰もかも、目の前の光景に言葉を失っている。
そしてそれはツェルも同じだ。
言葉もなくかぶりを振るツェルは、ふと背後に動く気配を感じて振り返る。そこには、先ほどオークへと魔術を放った少女が立っていた。
ツェルが視線を向けると、少女がゆるりと会釈をして言った。
「――ようこそ、新たな贄者の皆様。私の名はヘクト。カルケルを治める首魁から、貴方方の案内を任されました」
贄者? カルケル? 首魁?
意味の判らない単語が連続する。ただ一つ、ツェルが理解できたことは、
「ようこそ……だと? どういう意味だ」
まるでこちらの来訪を知っていたかのようなその言い回しだ。
「言葉通りです。貴方方は、この世界に招かれた存在。彼の領王、リヴェレムによってこの領土の住人として選出されたのです」
――リヴェレム。
その名に、聞き覚えがあった。
リヴェレム。それは数百年以上昔に存在していた、とある領地の領主の名だ。今では伝説とまで化した、古の魔術師にして英雄であり――狂気の下に暴挙を犯した者の名前。
皆の視線が、恐怖と困惑に彩られた眼差しが、ヘクトを射抜く。しかし少女は眉一つ動かさず、ただ朗々と言葉を紡いだ。
「皆さんはこう思っているはずです。『此処は一体何処なのか?』と」
まったく以てその通りだ。
そして同時に、答えを知りたくもないとツェルは思った。知ってしまえば、最早後戻りはできない。
いや、とっくに後戻りなんて出来ないのだろうけども。そう思ったのはただ、現実の直視を拒んだからだ。
でも、目の前の少女は無慈悲だった。
覚悟を決める時間すらくれず、ただ事務的な様子でその名を口にする。
「この地の名は――クレヴスクルム。領王リヴェレムが総べる、黄昏の地です」




