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序幕 『蒼穹の下』


 ――みやみに敵と戦うな。

 ――むやみに剣を抜くな。

 ――むやみに命を奪うな

 そして何かを決断せねばならないときは、常に自分の心に従え。

 それが、ツェルが父レイウォルフ・ラインから剣を習う際に言われた、剣を振るう際の三つの約束事と、一つの心構えだった。

 ライン家とは、ユミル王国において建国の時代から存在している騎士の家系だ。恐らく名門と呼んで差支えないくらい、ライン家の男児は代々騎士となるのが通例で、それ以外の何かになった者は、建国から四〇〇年近い歴史の中でも数名くらいだろう。

 だからツェルは自分の将来というものを考えたことはあまりなかった。祖父や父、ひいては父祖に倣うようにして自分も騎士になるのだと漠然と受け入れていたし、それに対しての不満も特にはない。

 そんな風にツェルが自分の将来を慮っていた頃だ。

戦地に赴いた父の消息が知れなくなったという報せが届いたのである。

 武勇で名を馳せ、英雄とすら謳われていた父が戦地で行方不明になる――これには流石にツェルも驚いたが、それ以上に混乱に陥ったのはその周囲だった。

 ライン家の当主であるレイウォルフが不在となり、早くに妻を失くしていた彼の身内はツェル一人だった。そして当主不在となれば、ライン家を取り潰すという話が当然持ち上がる。ツェルとしては別にそれでも構わなかったが、のちに聞いた話によると、ライン家の取り潰しに異を唱える騎士は少なくなかったのだと言う。

 そして妥協案として持ち上がったのが、当時まだ十三歳だったツェルを騎士とする――というものだった。

 当然ながら、これに異を唱えた者は多い。当時のツェルは剣の鍛錬こそしてはいたものの、それは父による個人的な指導のみだった。

 そもそもユミルで騎士になるには、王国騎士団が運営する養成所――アカデミーに通い、課程を終えることで騎士見習いの資格を得る。その後騎士団の下で鍛錬を積み、晴れて騎士になるのだ。

 つまりそれだけの課程をすべてすっ飛ばして、若干十三歳の少年を騎士に任じようとすることを、官僚たちは良しとしなかったし、騎士団とてそのような特例を容認することには反対した。

 そうしてライン家に関する事情は、様々な意見がぶつかり合い――硬直状態に陥ったのである。

 最も、自分のあずかり知らぬところで動いている思惑になど、ツェルは興味がなかった。


 しかし、縁とは奇妙なところで結ばれるらしい。


 その日ツェルは、かつて父に修行と称して連れて行かれたことのある山を訪れていた。場所はユミル王都から北に半日ほどの位置にあるシェリザード山脈の麓に近くである。

 ツェルはこの山で三日程過ごしていた。内容は魔物の討伐である。王都の下町にある傭兵ギルドには、定期的な王都近隣の魔物狩りの依頼が出回る。ツェルはその依頼を請け負い、ついでに野生活をしていた。

 と言っても、内容は難しいもではない。山の麓を歩き回り、魔物と遭遇したらその数を確かめ、多かったら逃げる。少なかった場合は討伐し、討伐の証明として身ぐるみの一部を剥ぐ。そうして夕方になったら安全な場所を捜し、簡単な罠を作って野兎などを狩り、あるいは魚を捕まえて火をお越し、焼いて食べ、そして野宿をしているだけだ。

 修業を始めて数日後の昼食を終え、そろそろ王都に戻ろうと山を下りていた時、麓の近くで小鬼――ゴブリンの群れに追われている一団を見かけた。

 いや、一団と言うには人数が少ない。せいぜい集団か、一組という程度の人数だ。

 普段ならあそこでゴブリンに囲まれているのは、ゴブリンの討伐に来た傭兵か何かだろうと思って気にも留めなかっただろう。しかし、今回はどうにも様子が異なっているのに気づき、ツェルは足を止めた。

 囲まれているのは五人の人間だ。対して、ゴブリンの数は十四。単純に考えて、倍以上の戦力差だ。そして問題なのはゴブリンに対処しているのは、そのうちの一人だけ――それも少年だったのが、ツェルの足を止める理由だった。

 背格好は遠目に見てもツェルとそう大差はないだろう。しかし、贔屓目に見てもその立ち回りは素人の域を脱していないものだ。向かって来るゴブリンに対して、闇雲に剣を振るっているだけ。いや、剣の技量はそれなり。ツェルの見た限り、基礎の動きは出来ているし、充分に修練は詰んでいるのが判った。だが、問題は立ち回りにある。一人で十匹を超えるゴブリンを相手にし、残っている四人が襲われないようにと周囲に気を配りながら戦うとなれば、その精神的疲労は並みならぬものだろう。

 あれではそう間もないうちに均衡は崩れる。そうなれば、あの一団は全滅を免れないだろう。それは戦場の知識のない素人が見ても判る、単純な数の振りによる必定だった。

 と言っても、離れた場所にいるツェルにしてみれば、どうでもいいことだった。所詮は他人事である。まともな装備もなく、戦えもしない人間を連れてこんな魔物の現れるような場所にのこのこやって来たほうが悪いのだ。

 そう考えて、ツェルはその場を去ろうとした時だ。


 ゴブリンと対峙していた少年と、視線が一瞬だけ合った――ような気がした。


 それでも一瞬、見捨てても構わないかな……とも思った。

 だから、助けに入ったのは殆んど気まぐれである。もし理由が必要だと言うのなら――何となくだが、見捨ててはいけないような気がしたのだ、ということだ。

 斜面を駆け下り、不意打ちがてらにゴブリンの背に抜き打ちの一撃を浴びせた。ゴブリンの断末魔が上がり、他の仲間が何事か? とでもいう風に視線をこちらに向けた時にはもう、ツェルは最初のゴブリンの元を離れ疾駆し、次のゴブリンへと迫っていた。

 ツェルを目視したゴブリンが「ギギィ!」と声を上げながらツェルを迎え撃とうと、刃毀れし、錆びた小剣(ショートソード)木製の小盾(ウッドスモールバックラー)を構える。ツェルは地を強く蹴って跳躍した。

軽やかな身のこなしで、ツェルはゴブリンの頭上を飛び越えて背後に着地すると、振り返えらず、ただ無造作に剣を背後に突き出した。

ざくり……という手応えと共に、ツェルの剣がゴブリンの胸を貫く。ゴブリンは何が起きたのか理解できていないように「ギィ?」と小首を傾げ――同時にツェルは剣を払った。

(はらわた)を切り裂かれ、滝のように血を流し、腹の中身を地面にぶちまけながら断末魔を上げるゴブリンを置き去りにして、ツェルは再び疾駆(はし)する。目の前のゴブリンに気を取られている少年に、背後から襲い掛かろうとしていたゴブリンへと体当たりするように突っ込みながら剣を突き立てた。

 目を見開き、口から血の泡を吹きながら絶命するゴブリンを押し倒すと、ツェルはゴブリンの持っていた小盾を強引に剥ぎ取るや否や、「使え!」と声を上げながら少年へと投げた。

 投げ渡された少年は、殆んど反射的に盾を手に取ると、迫るゴブリンの剣を盾で受けた。そこにツェルがすかさず横から飛び込み、ゴブリンの胸に剣を叩き込む。

 これで四匹討った。そして残り十匹。


 ――さて、どうするか?


 ツェルは剣を振って血糊を払うと、ゴブリンの囲いを見回しながら舌打ちする。数は増えていないが、ゴブリンの多くは小盾を前に突き出すように構えを取り、こちらの様子を窺っている。先ほどまでの油断めいた様子は掻き消えていた。

 それもそうだろう。ほんのわずかな時間の間に同胞が四人殺されたのだ。ゴブリンの知性は低いと言われているが、この段階に至ってなお油断するような間抜けでもない。

 つまりゴブリンたちに「こいつらは油断ならない」と認識させてしまったということになる。こうなっては、さっきみたく容易に倒すことは難しいだろう。

 前方に三匹。うち一匹は大きな棍棒を携えていた。

 あとは左右にそれぞれ三匹と二匹ずつ。そして後方に二匹。

 得物は棍棒が一匹。曲刀が一匹。小剣が四匹。手斧(ハンドアックス)が四匹。そして小盾を持っているのが計八匹。

 切り崩すなら右か後方だろう。しかし、少年の連れを守りながらと言うのはかなり厳しい条件だ。

「……来ていきなりだけど、逃げていいか?」

「面白いことを言うね、君は」

 ぼやくようなツェルの呟きに、少年が苦笑気味にそう返し「来てくれるとは思わなかったよ」と言葉を続けた。少年の言葉に「最初はそうするつもりだったんだ」ツェルもまた、苦笑と共にそう応じる。

「では、どうして?」不思議そうに少年が首を傾げた。その問いに、ツェルはどう答えたものかと僅かに考えてから、軽く肩を竦めて言う。

「何となく……だ。強いて言うなら、そうしたほうがいい――って思ったから」

 口にしてみてから、確かにそうなのだろうなぁと自分の行動の意味に納得する。これが父の言っていた『自分の心に従う』ということなのだろう――そう思うと、不思議と後悔がない。

 だからツェルは口元に不敵な笑みを浮かべながら少年に言った。

「それが勝ち目の薄い戦いでも、だ」

「――つまり、勝てないわけではないのだな?」

 含みのあるツェルの言葉に、少年は即座にそう返した。ツェルは大仰に頷いた。

「可能性がゼロじゃないというだけだよ。荷物が多いんだ、期待は薄いぞ」

「私の連れを荷扱いかい?」

「その通り」

 言って、ツェルは腰の剣帯から剣の鞘を外すと、背後で震えている女性の一人に向けて投げ渡し、「近づいて来たらそれを振り回せ」と言い捨てる。女性は目尻に涙を浮かべながらも、何とか地面に転がった鞘を手に取った。

「あんなのでどうにかなるのかい?」少年が不思議そうに尋ねてくる。ツェルは嘆息しながら言う。

「無抵抗でいるよりはマシ――ってくらいだ」

「つまり……気休めか?」

「そういう――こと!」

 答えると同時に、ツェルは向かってきたゴブリンの剣を受け止め――同時に剣を傾けて刃を流してゴブリンを引き寄せると、即座に体を開いて背後に回り、その膝裏に蹴りを入れる。

「ギィ!?」再びゴブリンが悲鳴を上げながら前のめりに倒れる。その背に向けて、ツェルは無慈悲に剣を突き立てた。

 ゴブリンの心臓位置に突き立てられた剣が、容易くその命を奪った。思わず安堵の吐息を漏らす、と同時にツェルの背を貫くような気配――殺気が迫る!

 振り返るその視線の先には、今まさにツェル目掛け斧で切りかかろうとするゴブリンの姿があった。仲間の命をも囮にした奇襲だった。

 避けることも、防ぐことも叶わない。

 ――(マズ)い!

「危ない!」

 刃が振り下ろされようとした瞬間、少年が盾を構えてゴブリンへと体当たりしたのだ。突然のことに対処が間に合わなかったゴブリンが悲鳴を上げながら吹き飛ぶ。

「助かった!」

ゴブリンへ追撃を掛ける少年の背にそう声を変えると「お互い様さ!」という返事が飛んできたが、ツェルは振り返らずに駆け出し、少年の連れに迫ったゴブリンへと躍り掛かる。

「ひぃぃぃぃ!?」と情けない声を上げる女性の前に滑り込むようにして割って入り、ツェルはゴブリンの小剣を自分の剣で受け止めて、仕返しとばかりにその腹に蹴りを入れた。

 蹴られたゴブリンがたたらを踏む。しかし追撃は出来なかった。別のゴブリンが二匹、蹴られたゴブリンを守るようにツェルに向かってきたからだ。

 ツェルは討ち漏らしたことに舌打ちしながら、左手で腰のベルトから投擲用短剣(スローイングダガー)を抜く。迫ってきたゴブリンの内、左のゴブリンへと投擲した。ただし、狙いは胴体ではなく足元だ。身体の中心に投げても、手にしている小盾で受け止められてしまうのは明白。

 ならば、と牽制の意味を込めて足元を狙ったのだが、運よく投げた短剣はゴブリンの足首に突き刺さった。ゴブリンが痛みを訴えるように地面を転がるのを横目に、ツェルはもう一匹のゴブリンを迎え撃つ。

 錆びて刃毀れした小剣による突きを、ツェルは剣の切っ先で横に受け(パリィ)しながら一歩踏み込み、手首を回して剣を握るゴブリンの右手首を狙う。

 しかしゴブリンは即座に対処してきた。身体を大きく半歩後退。右足と共に身体を大きく開く形で下がり、左の盾を構えるように体制を変える――同時に地を蹴ってツェルへと体当たりしてくる。

 殆んど条件反射で、迫る盾に蹴りを入れた。バキッという音と共に、小盾が砕ける。予想外の事態に驚愕するあまり「なっ!?」と思わず声を上げるツェル。

しかし、それは盾を砕かれたゴブリンも同じだったらしい。ゴブリンは「ギャギャ!?」と呻いて自分の持っていたはずの盾を見た。見事に真ん中から真っ二つに壊れた木製の小盾がバラバラに崩れていくのを呆然と見ているゴブリンに、我に返ったツェルが思い切りその頭に剣を叩き下ろした。

 頭蓋をかち割り、血飛沫と共に脳漿が飛び散る。些か同情を禁じ得ないこともなかったが、こればかりは道具の手入れを怠った自分を恨め! と胸中で嘯いた。

 同時に「よし!」という声が聞こえた。見れば少年がゴブリンを一匹討ち取っているのが見えた。同時に視線を巡らせ、ツェルはゴブリンの数を確かめる。

 残っているゴブリンの数は六匹にまで減っていた。そしてそのうち一匹は怪我を負っている。このままなら、油断をしなければ勝てなくもないだろう。

 そう思った時だ。ゴブリンの一匹が遁走を始めた。一瞬逃げ出したのかと思ったが、三匹のゴブリンが走り出したゴブリンを守るように道を塞ぐように立ち回り出したのを見て、ツェルは自分の失態に気づいて叫んだ。

「あのゴブリンを逃がすな! 仲間を呼びに行きやがった!」

 ツェルの叫びに、他のゴブリンを相手取っていた少年が僅かに視線を動かしたが、目の前のゴブリンで手一杯と言う様子だった。かと言って、少年の連れにゴブリンの足止めを期待することもできない。

 俺が行くしかないか、と走り出そうとした。だが、それも叶わなかった。背後から悲鳴が聞こえたからだ。

 振り返ると、少年の連れの女性たちがへたり込んでいるのが見え、「ひ、姫様ぁぁぁ……」と言いながら彼方に視線を向けている。

――姫? 誰のことだ? いやそんなことよりも……!

などと考えながら女性たちの視線を追ったツェルの目に映ったのは、曲刀を且ついたゴブリンが少女を引き摺っている姿だった。

「ちくしょう!?」悪態を吐きながら、ツェルは遁走したゴブリンを諦めて少女の下へと走り出す。が、その進行を邪魔するように他のゴブリンが割って入ってきた。

「邪魔だ!」

 怒号し、ツェルは再び投擲用短剣を抜き放つ。空気を切り裂いて走った短剣を、ゴブリンは易々と盾で受け止めた。

よし、それでいい。

 ツェルはにやりと笑って地面を蹴ってゴブリン目掛け跳躍した。盾を構えていたゴブリンを足蹴にし、再度跳躍。大きく空中に飛び出すと同時、「らっ!」という気迫と共に手にしていた剣を思い切りぶん投げた。

 ヒュンヒュンと回転しながら飛んで行った剣が、少女を連れて行ったゴブリンの目の前に突き刺さる。

 驚愕した様子で声を上げるがこちらを振り返る。同時にツェルが地面に着地し――更に残っていた最後の短剣をゴブリンへ投擲。当たれ! と祈りながら放った短剣は、見事にゴブリンの左目を貫いた。

 目に短剣が突き刺さったゴブリンが悲鳴を上げ、両手で顔を覆ってその場に蹲る。

引き摺られていた少女が解放されるのを確認すると、ツェルは一目散に少女の下に駆け寄ると、殆んど『掻っ攫う』という表現がぴったりな勢いで横抱きにしてその場を離脱する。

「きゃあ!?」と少女が悲鳴を上げるが、気にしている場合ではない。取り敢えず「摑まってろ!」と叫び、ツェルは自分の剣を回収してその場を取って返す。

「あ、貴方! こんな無礼が――」

「後にしてくれ!」

 少女が何やら訴えようとしているのを黙殺し、ツェルは襲い掛かるゴブリンの間を死に物狂いで駆け抜けると、少年たちの下へと辿り着く。

「ちゃんと見てろ!」女性たちにそう叱声を飛ばし、返事を聞くこともせずツェルは残るゴブリンを睥睨する。

 負傷しているのが二匹に、健全なのが三匹。そのうち一匹は少年が相手をしている。ならば――さっさと決着(ケリ)をつけてこの場を離脱する!

 決断と同時に、ツェルはまず少年が対峙しているゴブリンへと向かった。あと一匹減ればこの場から離れることもできる。

 少年とゴブリンが切り結んでいた。数度剣と盾の応酬を繰り返している。幸いなことに、少年に目立った怪我はない。せいぜい軽い裂傷程度で、血は流れているがその大半はすでに乾き始めていた。ツェルが乱入する以前から十四匹のゴブリンから女性たちを守りながら戦っていたことを考えれば、それは充分善戦と言える結果だろう。

 大したものだなと感心しながら、ツェルは少年の剣を盾で受け止めたゴブリンを横から突いた。剣を握っていた腕を険の切っ先が穿ち、ゴブリンが剣を取りこぼす。

 同時に少年が距離を詰めた。

自身の剣を引くと同時に自分の盾をゴブリンの盾に叩きつけて位置をずらすと、引いた剣を今度は勢いよく突き立てる。鋭利な切っ先がゴブリンの喉を貫いた。二人の剣を受けたゴブリンは、断末魔の代わりに数度痙攣して崩れ落ちる。

「今だ、走れ! 逃げるぞ!」ゴブリンが倒れるのを確認すると、ツェルは女性たちに向かってそう叫んだ。すると、まるで雷に打たれたかのように女性たちと少女が麓を駆け下り始めた。

 残っていたゴブリンたちが走っていく四人に視線を向けるが、追うことはしなかった。流石に怪我を負った仲間を置いて追うには、いささか分が悪すぎることを理解している様子だ。

 ――これなら逃げられるか?

「行くぞ」

「あ、ああ!」

 ツェルが促すと、少年はすかさず頷いて先を走る連れに続くように駆け出した。その後ろにツェルが続く。

 振り返るが、まだゴブリンの援軍はないようだ。どうやら間に合ったらしいと安堵の吐息を漏らすツェルに、前を走る少年が振り返った。

「助かったよ、礼を言う」

「まだ逃げ切ってない。礼は本当に安全な場所に辿り着いてからにしてくれ」

 どんなに簡単な戦場であっても、油断した者から死んでいくのは世の常だ。ましてやゴブリンは仲間を呼びに行っている。安心するには不安材料が多すぎる。

「その通りだね」ツェルの意図を理解したのか、少年はしっかりと頷いて見せたあと、ふと思い出したように言った。

「そう言えば、自己紹介がまだだったね」

「それ、今必要なことか?」

「私にとっては重要だ。命の恩人に礼を欠くのは忍びない」

 そう言って、少年は走る速度を僅かに下げてツェルに併走すると、疲労の色濃い顔に笑みを浮かべながら名乗る。

「ロイ。ロイシュタットだ」

「ツェルヴェルク。ツェルでいい」

「よろしく、ツェル」

「こっちこそ、ロイ」

 おざなりに返事をしながら、ツェルは「ん?」と脳裏に疑問符を浮かべる。

ロイ――ロイシュタットと言う名には聞き覚えがあった。しかし、それが誰の名前であったかまでは思い出せない。

 何処で聞いた? いや、違う。誰かから聞いた覚えがある。

 そんな昔でもない。つい最近のはずだ。確かあれは、父さんが死んですぐの――

 そこまで考えていたところで、思考は途切れた。背後から角笛の音が聞こえたからだ。

反射的に、ツェルは振り返った。ロイも同じく。二人の視線の先には、土煙を上げて山道を降りてくる一団が目に留まった。その光景を目の当たりにし、ツェルは「おいおい……」と驚愕の声を漏らす。

「……たかが五人を狩るには多すぎだろ」

 いや、今は自分を含めれば六人か、などと現実逃避気味に訂正を施しながら、ツェルは背後の情景に辟易とした。

 土煙の正体は、ゴブリンの団体だった。そう――団体。その数、遠目で見ても二〇以上。おまけに黒狗(ブラックハウンド)と呼ばれる魔物にソリを引かせ、その上に乗ってのご登場である。あんなもので追われては逃げ切ることは困難だろう。

 ツェルは忌々しげに舌打ちし、黒髪を掻き回した。やはりあのゴブリンを逃がしたのは痛恨の極みだった。無理をしてでも仕留めるべきだったと後悔するが、するべきことだけは判っている。

「先に行ってくれ。どうにか足止めする」

「正気か? あの数が相手では、生き延びることなんて――」

「できないだろうけど、お前たちの生存率は上がるだろ?」

 無理やりに口の端を吊り上げて笑みを浮かべるツェル、ロイは信じられないと言う風に目を見開いている。

「出会ったばかりの私たちのために、君は死ぬと言うのか?」

「死ぬ気はない。死を覚悟しているだけだ」

 困惑するロイに向け、ツェルはそう皮肉を放つ。最も、結果としては同じことだが。それでもツェルは構わないと思った。

そして思ってしまった以上、もうあと戻る気もない。

「――おれは騎士だ。いや、騎士ではないけど、心はそのつもりでいる。父祖たちがそうであったように、父がそうであったように」

 騎士という名の偶像が、どうしようもなくツェルの中に根付いてる。それは連綿と受け継がれてきたラインという一族の誇りであり、矜持だ。

 まだアカデミーに在籍すらしていない、正式な騎士とは程遠い存在であろうとも、そうあろうと言う意志は本物だと思っている。

 ならば、無辜の者を守るために剣を振るうのは当然だ。

 故に、ツェルの覚悟は揺るがない。

 剣を構え、いざ向かわんと足に力を入れようとしたその時、ロイが声を張り上げた。

「君が騎士だと言うのならば、私はなおのこと君を無謀な戦場に行かせるわけにはいかない! 君が騎士だと言うのならば、その命を賭して我々を守り、生き抜く方法を模索しろ! 騎士ツェルヴェルクよ!」

 突然の激に、ツェルは思わず目を剥いてロイを振り返る。そこには悠然と佇立し、毅然とした態度でツェルを睥睨するロイがいた。

 しかし、それは本当に先ほどまでツェルが肩を並べて戦い、そして逃がそうとした少年なのかと目を疑うような超然とした姿だった。

「それにもう、逃げる必要も、君が命を懸ける必要もないようだ」と、呆然と佇むツェルの様子を見ながら、ロイはふっと微笑を浮かべて言う。

 それはどういう意味かと問う必要はなかった。問うよりも早く、その言葉が意味することが、ツェルの視界に飛び込んだからだ。

 ツェルとロイの頭上を飛び越えて飛んで行く無数の矢と、炎の塊。

「矢と……魔術(スペル)!?」

 それらが飛んで行った方向は、ツェルたちの背後。死線は自然とその後を追い、それが齎す結果を目の当たりにする。

 飛来した百を超える矢の雨と炎の魔術――《炎球》を打ち込まれたゴブリンの群れが、抵抗する術もなく次々と倒れていくのが見えた。

 その光景は、まさに一方的な蹂躙である。徹底していると言ってもいい。むしろそれは戦場の鉄則だ。たとえ相手が自分たちより戦力に劣ろうとも、決して侮ることなく確実に息の根を止める――非道いなどとは言わないが、聞こえるはずのない断末魔が聞こえたような気がして、ツェルは僅かに眉を顰める。

 だが、それも一瞬のことだ。というのも、自分の肩を背後から叩かれたからだ。


 振り返ると、そこにはロイが穏やかな笑みを浮かべていた。

「助けが来たんだ。もう、安全だよ」

「助けって、誰が――」ロイの言葉にツェルはそう返しながら視線を彼の後ろに動かし――そして、そこに移った光景に息を呑んだ。

 いや、その先の言葉を失った、と言ってもいい。というのも、ロイの背後。更に言えば、先に逃げていた女性たちの向こうには、百人ほどの騎馬隊が居並んでいた。

 掲げる軍旗は間違いなくユミル王国の国章。そして国章を背に描かれる剣を銜えた獅子の姿――それはユミル王国騎士団の紋章である。

「なんで……騎士団が?」

 何とかそれだけを口にすることが出来た。当然の疑問だ。たかがゴブリン如きの討伐に騎士団が赴くことは有り得ない。もし彼らが出向くのなら、そもそもギルドから依頼が出回ることなどないはずである。

 では、なんのために?

 そう、疑問を口にするよりも早く――


「――殿下! 姫様! ご無事ですか?」


 その答えは、騎士団の先頭――おそらくはこの一団を率いているのであろう騎士の言葉が教えてくれた。

 ――殿下に……姫様? まさか、まさか!?

 ツェルは自分の顔から血の気が引く音を聞いたような気がした。今自分の顔面が真っ青になっていることが容易に想像できた。

 此処に至って、ようやく思い出す。ロイシュタット――ロイシュタット・ノクティクルス=ユグド。それはこの国の王子の名ではないか!

 幾ら顔を見たことがなかったからと言って、自国の王子の名を忘れてしまった自分にがっかりする。何より顔を知らなかったとはいえ、数々の暴言に非礼を働いた。騎士として忠誠を誓うべき相手に対しての暴言の数々。ツェル自身自覚があるだけに、言い逃れができない。

 ――……首が飛ぶかなぁ。

 そんな未来が容易く想像できてしまい、ツェルは空を仰いだ。ツェルの憂鬱さと相反するような蒼空が憎らしい。

「ツェルヴェルク!?」

 近づいてきた騎士が、驚いた様子で声を上げる。名を呼ばれたツェルもまた、その騎士に視線を向ける。見知った顔だった。確か父の訃報を知らせに来た騎士で、父の友人である騎士の一人だ。

「何故お前が殿下と共にいるのだ?」

「……いろいろ事情がありまして」

 ツェルはきまり悪そうに視線を逸らしながら、その場に跪いた。剣を地に突き立て、臣下の礼を取る。そしてロイを――ロイシュタットに頭を下げる。

「御尊顔を拝見したことがなかったとはいえ、数々のご無礼を働いたことを謝罪いたします」

「ツェル……」ツェルの言葉に、ロイは驚いた様子で目を瞬かせた。そしてゆっくりと首を振る。

「そんなことはない。君のおかげで助かったんだ。感謝こそすれ、君を罰する理由は、私にはない」

 やんわりと告げるロイの言葉に、ツェルは拒むように頭を伏せ続けた。すると、そんなツェルの姿に何を思ったのか、ロイはふと思いついたように手を叩くと、「じゃあ、一つ君に頼みたいことがある」と言った。

「なんなりとお申しください」ツェルは迷わずそう応じる。さて、どうなることやらと内心兢々とするツェルに向け、ロイは小さく失笑と共に告げる。


「――私の護衛騎士になってもらいたいのだが、どうだろうか?」


 蒼穹に染まる空の下、ユミルの王子は少年にそう尋ねたのだった。






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