その四
交差路の遺跡、その内部。狭い通路――人と人が擦れ違えるか出来ないか程度の広さしかないその場所で、七人の人間と五匹の武装した蜥蜴人が相対すれば、どうしようもなく混戦になる。
リザードマンが保有する刃毀れした曲刀で突いてくるのを、ツェルは剣の切先で受け流す。同時にツェルの背後で構えていたローウッドが、頬に汗を流しながら弩を射った。射出された矢は刹那で三本。纏う鎧に一本が防がれ、円盾が一本受け流した。残る一本が蜥蜴の亜人の体皮を穿つが、その程度でリザードマンは止まらない。
奇声を上げながら亜人が迫る。
「鬱陶しいんだよ……ッ」
吐き出すように言いながら、ツェルは強く一歩を踏み込んだ。突然の急接近に、リザードマンがその爬虫類特有の瞳を大きく見開くのを睥睨しながら、ツェルは雄牛の型――顔の横に構えていた剣を突き出す。
瞬速の刺突がリザードマンの喉を捉えた。空気が弾けるような音を引き連れた刺突は、リザードマンの命を容易く刈り取る。
だが、倒したリザードマンが絶命する最中、その背後から死体を押しのけるようにして別のリザードマンが割り込んでくる。
耳障りな奇声を上げ、我先にとでも言う風に通路に詰まりながら迫るリザードマンたちを前に、ツェルは後退しながら辟易する。
「どれだけ単細胞なんだ……頭に何を詰めてるんだか」
「食欲と性欲くらいやないんか?」
「そりゃまた、ある意味羨ましい生き方だな」
にやりと笑うローウッドの科白に、ツェルは同調するように皮肉を吐きつつ、視線を眼前からは動かさないまま背後に問うた。
「後ろはどうなってる?」
「もうじき片付く!」
という音声と共に、新鮮な肉がつぶれるような音が聞こえてきた。ガイアスの振り下した大曲刀が、容赦なく後方から攻めてきた別の群れを処理しているのだろう。
「ツェルはん、ファイトや!」
「損な役回りだよ。通路が狭いから、どうしても一対一で遣り合わないとならないなんてなぁ」
そうぼやきながら、ツェルは迫るリザードマンの腹を蹴りつける。リザードマンがたたらを踏み、後ろに控えていた同胞を巻き込み倒れ込むのを見下ろし「魔術使!」と、ツェルは下がりながらルクレツァを呼ぶ。
一拍の魔を開けて、魔女が欠伸交じりに姿を現す。
「せめて名前を呼んで欲しいわねぇ」
そう言いながら、ルクレツァはにぃぃっと悪辣な笑みを浮かべて杖を翳した。杖の先端に蒼氷の術式が輝き魔術が励起する――刹那、通路に魔力の奔流が走る。転瞬、石造りの通路の床から無数の氷槍が噴出した。
標的を捉え、氷漬けにする《疾凍》の魔術。ルクレツァの眼前、通路に並び立っていたリザードマンたちを氷槍が穿ち、貫かれた箇所からその身体が瞬く間に凍り付いていく。
そして肉体をも凍結させる冷気に呑み込まれたリザードマンの身体は、大気の温度差の影響を受けてピシッ……という罅割れる音を契機に崩壊した。
その情景を目の当たりにし、ツェルとローウッドは揃って感嘆の吐息を漏らす。
「ひゃー……やっぱ魔術ゆうんは凄まじいもんやなぁ」
ローウッドが感心したようにルクレツァを見ると、彼女は得意げに胸を張った。
「まあ、この程度なら欠伸交じりで出来るわよ?」
「実際に交じってたわけだしな」
皮肉を返すが、彼女は意に反した様子もなく「うふふ」と笑っただけだった。
「そっちは終わったか?」
そう言ってルクレツァの背後から現れたのは、返り血を拭おうともせず顔の半分を血糊で化粧しているガイアスだった。レオーネとラドリアンヌも一緒である。彼と共に背後の迎撃をしていたのだ。
「ああ」と短く答えながら、ちらりとレオーネの様子を窺う。先日ゴブリン戦で顔を蒼くしていたが、今回はそんな様子は見られなかった。何となく安心して肩を上下させると、視線に気づいたレオーネがこちらを見向き、「ふん」とそっぽを向く。
「あら、どうしたのレオーネ。機嫌が悪いですね?」
と、こんな陰気な遺跡の中であっても変わらない能天気な笑みを浮かべて、ラドリアンヌがレオーネに問うた。が、問われた女騎士は「な、なんでもありません!」と声を荒げた。
そんな大声を出したら、また魔物が寄ってくるかもしれないだろ……という苦言はしないでおいた。これ以上彼女の機嫌を損ねるのはよろしくないだろう。最も、どうして機嫌を悪くしているのか、ツェルには判らないのだが。
などと考えているツェルの肩を、誰かが指で叩く。
振り返ると、そこには頭巾の男――コールがいた。まったく気配を感じさせることなく背後を取られたという事実に声を上げそうになったが、それよりも先にコールが囁くような声量で口を開いた。
「……奥に何かがいる」
「ッッ……目視は?」コールの言葉に、ツェルは即座に思考を切り替えて尋ねる。が、コールはゆっくりとかぶりを振った。
「近づきすぎると気づかれる。だが、並みの魔物ではない」
「遺跡の番人でもいるのか?」
と口にしてみたものの、この遺跡は過去に何人もの贄者たちが通っている道だ。それどころか、最近にもここを利用した贄者たちがいるのを、ツェルはカルケルで確認している。
なのに、今更どうして、そんな場所にそう言わしめるような魔物がいる?
過ぎる疑問に眉を顰めながら、コールに「先導してくれ」そう言ってから後ろを振り返り、「この先、結構ヤバいみたいだ。注意と準備を」と勧告する。
各々が真摯な面持ち――一部例外はあったが――で首肯した。ガイアスが嬉々とした表情で舌なめずりしていたことについてはもう突っ込まない。彼に関して言えば、最早「お好きにどうぞ」だ。
コールの先導に続いて進むと、広い空間に出た。最も、そう感じるのは今まで狭い通路を延々と進んでいたからかもしれない。人が五〇人くらいは入れそうな広間に抜け出たツェルたちは、周囲に視線を走らせた。
コールの言った通り、これまでとは何処か違う雰囲気が広間全体に漂っている。しかしその原因となる何かが見当たらず、僅かに首を傾げたツェルだったのだが――ずず……という、何かを引き摺るような音を耳にし、即座に音の発した咆哮に目を向けた。
「な、なんや……?」と口走るローウッドの問いには、勿論誰も答えない。ただ黙したまま、答えのほうが姿を現すのを待ち構えた――のと同時。
ブン……と、何かが降り抜かれる音が聞こえたかと思うと、広間の奥の暗闇から、凄まじい勢いで刃物が飛んできた。
回転しながら飛んできた斜線上にいたツェルはしゃがみ、コールは頭上に高く跳び、ガイアスは床を転がってそれぞれ回避行動を取り、振り返る。飛んで行った刃物が広間の壁にめり込んでいた。
刃物の正体は、凝固した血糊に塗れている巨大な肉切り包丁。どう見ても調理用ではないそれは、見るからに物騒な雰囲気を醸し出していた。めり込んだままの包丁を見てローウッドは「ひょわあぁぁぁ!」という奇妙な悲鳴を上げているが、無視。
包丁が飛んできた方向に目を向けると、其処から姿を現したのは奇妙な人型の何か。
人間なのか魔物なのか。一見してその判断が難しかった。
体躯だけならガイアスと肩を並べられるくらいの長身。しかし彼と反比例するような脂肪に満ちた肉体は、オークやトロールを彷彿させるが、その肌の色は人間のそれと同じだ。
上半身は裸体。下半身は辛うじてだがぼろ布のようなズボンを穿いている。
貌は判別が出来なかった。皮で出来た拘束具のようなもので顔全体を覆っているのだ。
結局として、人間に近い何か――というのが、判断の限界だった。ただ判るのは、その全身から滲み出て隠すことのできない死臭と、こちらに向けている敵意の視線が、目の前の醜人が敵であることを否応なしに意識させる。
「あぁ……あぁー」
誰もが息を呑む中で、醜人がそんな声を上げた。手にするのは先ほど飛んできた肉切り包丁のと似たような刃物。身の丈に近い尺寸のそれを手に、醜人が動く。
トン……と。
その見た目に反して随分と軽やかな一歩を踏み出し――転瞬、それはまるで放たれた矢の如き勢いで、一番手近にいたガイアスへと躍り掛かったのである。
「ぬお!?」彼らしからぬ驚愕の声がその口から漏れ聞こえた。
想像よりも遥かに早い醜人の動き。それに驚かないはずがないだろう。ツェルだって、まさかあれほど速く動けるとは思ってもいなかったのだ。
しかし、それでもガイアスは一流の傭兵である。認識の反応が僅かに遅れこそすれ、戦士として鍛え上げ、幾多の修羅場を潜り抜けてきた彼の肉体は意識するよりも早く敵意に反応して動いていた。
背負っていた大曲刀を抜き、醜人が振り下ろした包丁を受け止める。甲高い金属音が辺りに反響する中、ガイアスが醜人と競り合――おうとしたのだろう。しかしそれよりも早く、醜人が動いていた。
ガイアスの曲刀が包丁を受け止めたのと同時に、醜人は即座に包丁から手を離すと、今し方相対していたガイアスに目もくれずに方向転換すると、先ほど見せた駿足でツェル目掛けて突進してきたのである。
「――おいおい冗談だろ!」
唾棄するように文句を垂れながら、ツェルもまた剣を手に迫る醜人を見据え――腕を振り上げる醜人に向かって疾駆。醜人が拳を振り下ろすよりも早くその脇をすり抜け、同時にその振り上げた腕の下。右脇を袈裟に切り払――
「……は?」
――ったはずだった。
しかし、振り切った剣には何の手応えもなかった。いや、手応え自体はあった。だが、それはとても人を、肉を切った感触ではなく……ぶよんっ、という弾力のあるものだった。
駆け抜けながら後ろを振り返ると、やはり醜人の身体には一片の太刀傷も刻めてはいない。
思わず呆然とするツェルの視線の先で、醜人はガイアスの時と同様に今し方対峙していたツェルのことなど忘れたように猛進すると、凄まじい勢いで壁に激突した。その凄まじい勢いで壁が崩れ、崩れた瓦礫に醜人が埋まる様に、誰もが唖然とする。
「……自爆?」
と、その様子を見てレオーネが首を傾いだ。まったく以て同意見だったのだが、まさかそんなはずはあるまいと様子を窺っていると、瓦礫を除けて醜人が立ち上った。
そしてその手には先ほど投擲したあの包丁が握られている。
「得物を捨てておきながら回収するたぁ、どうにも意味が判らねーことをするな」
と、大曲刀を正眼に構えながらガイアスが言った。ツェルとしても、それには同意見だった。あの醜人は、これまでツェルが相対してきた如何なる敵にも似つかない、ある種想像の埒外のような存在だった。
「あぁぁぁー。ああー」
赤子のような声を上げて、醜人が再び動く。包丁を手にした醜人が矢のような速度で疾駆した。今度は誰を標的にするでもない。広間の中を縦横無尽に走り回り、手当たり次第に包丁を振り回すと言う、出鱈目な方法でだ。
「ちょっと、なんなのよこいつ!」
ルクレツァが魔術を放とうとするが、あまり相手の動きが速すぎて対処できず困惑している。破れかぶれと言った様子で《火球》を撃つも、まったく当たる気配がない。
「ラドリアンヌ様、お下がりを!」
「あらあら、やんちゃさんですね~」
レオーネに庇われるようにして壁際に立つラドリアンヌがもまた、緊張感に描いた科白を口にしつつも困惑したように醜人を目で追っている。その手には教会の聖職者が扱うことのできる魔術――『奇跡』の輝きが見えたが、あれでは放ったところで当てることは難しいだろう。
「ぬあっ!」
「くそっ!」
ガイアスとツェルもまた、醜人の接敵には対処できるものの、とてもではないが追いかけることは出来なかった。ローウッドの弩も、ルクレツァたちと同じようにあまりに無軌道な醜人の動きに対応できず、狙いが定まっていないらしい。
――まあ、当たったところで通用するかは別だよな。
先ほど切り付けた時のことを思えば、ローウッドの矢があの身体に突き刺さるとは思えなかった。
ツェルの剣やローウッドの矢では、おそらくまともな手傷は負わせられないだろう。頼みの綱はガイアスの大曲刀とルクレツァの魔術あたりか。だが、それも当てなければ何の意味もない。
――この剣が騎士剣だったら、話は変わっただろうが。
ない物ねだりと判ってはいるが、そう思わずにはいられない。
「〈血塗れ〉!」
考えに耽っていると、ガイアスが叱声を上げた。意識を戻すと、いつの間にか目の前に醜人が迫っているのが見えた。
「ちぃ!」
舌打ちと共に、迫る醜人を迎え撃つ。
疾走の勢いを乗せて肉厚の包丁が叩き下ろされた。
ツェルは振り上げる形でその一撃を受け止める。凄まじい衝撃が剣を通じて腕や肩に伝播していく。まるで歴戦の武人が放つような強烈な一刀。それを辛うじて受け止めるツェルだったが、醜人はそれだけで留まらず、疾駆の勢いのままツェルへと突進したのである。
肉厚の腹が目の前に迫り、気付いた時には衝撃が全身に走った。
――何が……
と考えて、ようやく自分が醜人の突進に巻き込まれ、壁際に叩きつけられ――もとい、押し付けられたのだと理解した。
見ただけで自分より遥かに重量のある相手による、凄まじい速度で迫っての体当たり。しかも壁に叩きつけられるというおまけつきである。
全身の骨が軋む音を聞きながら、ツェルは視線を巡らせる。醜人とガイアスが拮抗していた。醜人の包丁を愛用の大曲刀で受け止めながら、どうにかその場に押し留めようとしている。
だが、それでは駄目だというのがツェルには判った。あれほど接敵していては、ルクレツァの魔術やラドリアンヌの奇跡の影響がガイアスにまで及んでしまう。
当然ガイアス自身もそのことを理解しているだろう。だが、醜人がそれを許さないのである。
距離を開ければあの駿足で捉えられない。だが近づかなければ足止めが出来ない。それでは八方塞だ。
「コール……いるか?」
痛む身体を起こしながら、ツェルは姿の見えない男の名を呼んでみた。
「此処に居る」
するとすぐ近く、それこそツェルの隣から静かな声が発せられた。最早その神出鬼没さに驚く気にはならず、ツェルは苦笑しながら尋ねる。
「今手持ちの道具ってなんだ?」
「……何故そんなことを?」
訝しむように視線を向けてくるコールに、ツェルは不敵にほほ笑みながら言った。
「コール・ヤクトウルム。その名前なら聞いたことがある。東方の地で有名な、あらゆる道具を有する暗殺者に、そんな名前があった」
「お前のことだろう?」悪童のようなからかう風体で、ツェルはコールを見る。彼は何も答えなかったが、沈黙は肯定と同義と昔から相場は決まっているのだ。
「あれの足を払えるか?」
一方的な問いかけに、しかしコールは僅かに間を置いてから「……可能だ」と答えた。
「なら、任せた」
そう簡潔に告げると、コールはその頭巾の奥に覗く双眸を不思議そうに顰める。
「どうして、自分がそれをやると思う?」
「……なんとなくさ」
「答えになっていない」
「なんだっていいだろ? そんなのは」
適当に言葉を返しながら、ツェルは剣を手に取り、同時に足元に転がるそれを見て……にぃっと笑みを深める。
「良いもの、落ちてるじゃないか」
そう言ってツェルはそれを左手で拾い上げ、肩に担ぐ。そのまま視線だけをコールに向けると、「じゃあ、頼んだぞ」と言い捨てると同時、一目散に醜人へと疾駆した。背後で舌打ちが聞こえたような気がしたが、聞こえなかったことにした。
実際「なんとなく」と言ったが、実際その程度にしか考えていなかったのだ。彼が十人目という可能性だって考えたし、もしそうでないにしても、手を貸してくれるかは怪しいのだが……どっちに転んでもツェルは困らない。
手を貸してくれたらそれだけで状況は好転するし、手を貸してくれないのなら別の手を考えればいいだけのことだ。
ツェルが知りたいのは、コールがこの先戦力として戦術に組み込めるかどうか。そして組み込めるなら、彼の戦力的価値はどの程度か――という、それだけのことである。
――さて、どう動く?
そう考えた矢先、何処からともなく「十秒後、距離を取れ」という声が聞こえてきた。ツェルは応じるように笑みを深めると、迷いない踏み込みで醜人へと接敵。
「せいりゃ!」
裂帛の気迫と共に右手の剣で刺突を放つ。背後からの強襲。
狙うは――心臓。
吸い込まれるように突き進む剣尖だったが、醜人の肉体はツェルの必殺の突きを容易く受け止め弾き飛ばした。
度し難いまでに常軌を逸した肉体だ。何をどうすれば脂肪で剣を弾けるというのだろう。
半ば真剣に疑問を抱くツェルだったが、それも醜人の反撃が迫ると即座に思考から零れ落ちる。振り向き様の横一文字をしゃがんで躱すと、跳ね上がるように飛び出して、ツェルは醜人の脇をすり抜けてガイアスの横に並び、左手に握っていたそれをガイアスへ放った。
「贈り物だ」
「はっ、いいじゃねーか!」
ツェルの投げ渡したそれを、ガイアスは狂喜したように手に取った。ツェルが拾って届けた物――肉切り包丁を手に取ったガイアスは、持っていた大曲刀を地面に突き立てて、代わりに肉切り包丁を両手で構える。
堂に入ったその姿。歴戦の勇士さながらのその出で立ちに思わず笑みを零してしまう。
と同時に、そろそろ重病を迎えることに気づき、ツェルは小さく「下がるぞ」と零す。
ガイアスが怪訝そうに眉間の皺を寄せたが、それも一瞬のこと。承知してくれたようで、彼は言われた通り醜人から距離を取るように後ろに跳んだ。ツェルもそれに続いて後方に跳ぶ。
すると、開いた距離を埋めるように醜人が再び突進を開始する。一歩であの恐るべき速度に達した醜人は、一直線にツェルたちを追って駆け抜け――転瞬、何かにつんのめったように姿勢を崩し、見事なまでの転倒を披露した。
「今だ!」
叫ぶツェルの合図を正しく理解したルクレツァとラドリアンヌが術を放った。
無数の熱塊を放つ《蓮撃》と、眩い輝きを放つ剣を撃ち出す《輝剣》が嵐の如く醜人へ殺到した。
起き上がろうとしていた醜人の背へ二つの術が集中砲火される。肉の焼け焦げる臭いが辺りに充満し、同時に肉を切り裂かれたことで飛び散る血の臭いも続いた。
「あ……ああ……」
二つの術をまともの喰らった醜人が、声にならない呻きを漏らし、なおも立ち上がろうと身体を動かしているが……もう手遅れだ。何故なら――
「手間を取らせてくれたじゃねーか……!」
肉切り包丁を手にしたガイアスが、醜人の眼前に立ちはだかっていたからだ。彼は鉄塊のようなそれを軽々と持ち上げ、鬼気迫るような方向と共に醜人の頭へと振り下した。
ずどんっ……! という切断音と共に、血飛沫が上がった。
「ふははははははははははははははははは!」
哄笑を上げながら、ガイアスが何度も何度も刃を振り上げては振り下す。刃を叩きつけられるたびに醜人の身体が痙攣していた。やがてぴくりとも反応しなくなった醜人を前にしても尚、刃を振り下ろすことを止めないガイアスの姿にレオーネがまたも顔を蒼くしていたが、まあそれは仕方がないことだろう。
それとは逆に、ラドリアンヌがまったく顔色を変えずに笑みを浮かべているのには驚いたが。
ツェルはガイアスを止めることもせず、代わりにいつの間にか背後に立っていたコールを振り返る。
「ありがとう。助かったよ」
「……変な奴だ。暗殺者に感謝するなど」
「今は曲がりなりにもパーティを組んでるんだ。助けてくれたことに感謝するのは、普通のことだろう」
そう返すと、コールは呆れたというふうに被りを振った。そんな彼の仕草に微笑を浮かべるツェルの背に、「おーい、誰かこっち来てぇな!」という、今までお前は何処にいたんだ? と突っ込みを入れたくなるような声が聞こえてきた。
声のする方向に目を向ければ、広間の奥まった場所の更に奥に通じるらしい扉から顔を覗かせるローウッドの姿が見えた。
「お前……こんなところに隠れていたのか?」
「いやいや。わいにあんなん相手取れちゅーほうが無理やろ。大人しく隠れるが吉や」
溜め息を吐きながら扉に駆け寄るツェルに、ローウッドはぬけぬけとそう答える。そのちゃっかりっぷりは、もう呆れを通り越して尊敬する次元だった。
が、同時にローウッドの隠れていた扉の先を見て、ツェルは険しい表情を浮かべながら言った。
「……よくこんな場所に隠れていられたな」
ツェルの視線の先にあったのは、一言でいえば人肉の山だった。
十や二十では済まない。数百か、下手をすれば千に届くであろう、腐敗した人間の骸の山がその部屋には積み重なっていたのである。
恐らく、あの醜人に殺された人間たちなのであろう。ある者は台の上に置かれて輪切りにされ、ある者は燻製を創るかのように吊るされている。処理の終わった者は一塊に部屋の隅に積み重ねられていた。
そこはまさに、人肉の調理場というやつだ。
遅れてやって来たガイアスたちが、揃ってその惨状に目を剥いた。死体の山など見慣れているだろうガイアスも、流石に険しい表情を浮かべているし、レオーネは予想を裏切らず、部屋から飛び出して外で呻いているのが聞こえる。普段は嗜虐的な笑みをたたえていた魔女も、まるで動じることのないような笑顔を浮かべていた巡礼者も、流石にこの光景には不快感を禁じ得なかったらしく渋面を浮かべている。
そんな中で、ローウッドだけが嬉々として骸に手を伸ばし、その身体のあちこちを探っていた。
「……何をしてるんだ?」
たずねるツェルの科白に、ローウッドは「へ?」と振り返りながら首を傾げ、得心が言ったように笑みを浮かべた。
「何て、そらぁ死体についとる金目のものをあさっとるにきまっとるやろ? こういう場所は、ワイら商人にとって稼ぎ場なんや」
「拷問された死者に対して、随分と冒涜的なことをするのね」
そう言ったのは、魔女ことルクレツァだった。まるで外道を見るような眼差しでローウッドを睥睨する彼女だったが、ローウッドは気にした様子もなく肩を竦めた。
「冒涜いーますけど、ワイらにしてみれば、金になるものを放っておくほうがよっぽど冒涜的やで? 見てみ。この御仁なんて随分と立派な飾りを付け取るやろ? きっと高くつくで」
そう言ってせっせと死体に手を伸ばすローウッドの様子に、誰もが呆れて言葉を失う。
彼の言っていることはあながち間違ってはいないだろう。戦場では、殺した相手の身に着けている金品を奪うのは割とよくあることだし、魔物の持っている道具なども回収すると言うのは、誰でもやっていることだ。
しかし、これだけの猟奇的な現場を前にしてもその姿勢を変えず、金品を目ざとく見つけられるローウッドの姿を認めるかどうかと言えば、また別問題なのであるが。
どうしようもないな……と半ば諦めの境地でローウッドの様子を眺め、何気なく彼の漁る死骸に視線を移し――ツェルは我が目を疑った。
――そんな……莫迦な。
自分が目にしたものが信じられず、ツェルは自分の目を疑い、認識を疑い、正気を疑った。
しかし、何度見ても見間違えでないことは、誰よりもツェル自身が理解していた。
だから――気づいた時にはもう、ツェルは凄まじい勢いで剣を抜き、呼吸する間もないような速度で抜剣した得物をローウッドの肩越しに副えていた。
「ツェ……ツェルヴェルクはん?」
信じられない物を見た、と言う様子でローウッドがツェルを振り返り――刹那、ローウッドは「ひぃぃ!?」と恐怖したように悲鳴を上げた。
「これ以上冒涜するというのなら、俺は貴様を――切る」
底冷えするような冷淡な宣言に、ローウッドは粟を食ったように尻餅をついて「かかかか勘忍をぉぉっ!」と絶叫しながら後ずさる。
「ガイアス・ウォーレン。コール・ヤクトウルム。刃を引け」
背後で今にでも切り掛かって来そうなガイアスと、静かにツェルの背に短剣を押し当てているコールを振り向く。
殺気を漲らせた眼光に、二人が息を呑むのが判った。その後ろではルクレツァが目を剥いて言葉を発さぬまま口を開閉し、ラドリアンヌも言葉を失ったように立ち尽くしている。何が起きたのかと戻ってきたレオーネが、驚愕の表情を浮かべていた。
――だが、そのどれもがどうでもよかった。
そんなことよりも、今するべきことは他にある。
向けられた刃のことも気にせず、ツェルは寸前までローウッドが探っていた亡骸へと歩み寄った。
まだ新しいのだろう。この場にある幾百もの死体の中では、恐らく原形を留めているほうだ。腐敗も酷いし、すでに元の姿など判別が難しい段階になっているのだろうが……それでも、一目見ただけでそれが誰のものか判った。
カラン……と、ツェルの手から剣が零れ落ち、そのまま崩れるように膝をつく。
死体なんて幾らでもある。
似たような背格好のもなど、幾らでもある。
見間違いであればいい。勘違いであればいい。そう願いながらも、ツェルはその死体を飾っている、細く長い、若草を模した髪飾りを見て、そして、その右手の中指に嵌められている指輪を見て――そして確信する。
「何故だ……何故、お前が……此処に、居る?」
指輪に刻まれている刻印は、ユミル王国の王族の証明だ。
そして髪飾りは、王位継承権を持つ者の証。
最早間違いようがなかった。その死体が誰のものであるか、もう、疑う要素は……ない。
「何故……こんな姿になっているんだ……ッ!」
あの日から、ずっと探して旅をしてきた。
いつか再び肩を並べ、共に道を歩めるのだと信じていた。
何処かで生きているのだと――信じていたのに。
「何故だ……何故なんだ――ロイシュタット!」
――どうして、お前が此処に居て、こんな姿になっている!
「うあ……うぁ……うぁあああああああああああああああああああああ!」
横たわる亡骸を前に、ツェルヴェルクは慟哭の声を上げる。
あの日戦場から姿を消し、行方を暗まし続けていた親友の――探し続けていた己の主君の、最早見る影もなくなったその姿が、そこにはあった。