その二
「また来ていらしたのですか?」
かちゃり……と、静寂の中に音が生じると共に小首を傾げたヘクトの視線を受け、ツェルはゆっくりと視線を少女へと移しながら首肯した。
「まあ、ね。いけないことだったか?」
「そうですね。此処が私の私室であったならば、迷わず肯定します」そう言いながら、ヘクトはやれやれとでもいう風に肩を竦める。
「ですが……幸か不幸か、此処はヴィルヴェル様の屋敷で、その屋敷にある書庫です。客人の出入りは自由ですので、咎めることはしません」
と言ったのち、ヘクトはその無表情を崩して僅かに呆れの色を浮かべ「ですが……」と困ったように嘆息した。
「殆んど毎日。少なくとも、二日に一回は必ずこの書庫にやって来る人は貴方が久しいで、正直に言います――どう対応すればいいのか判りません」
「と言う言葉以上に、君の表情は言外に『迷惑だ』と物語っているよ」
目を通していた本を閉じながら、ツェルは申し訳なさそうに苦笑を浮かべる。
「だけど、君に十人目の話を聞いて以降、誰といても気が休まらないんだ。人の皮を被った悪魔といるよりは、元々勝てる見込みがない存在の懐のほうがまだ安全だ」
「それは……ヴェルヴィル様のことですか?」
僅かに、その視線が鋭くなった――ように見えた。
「まあ、そんなところだ」と言って視線を逸らすと、ヘクトは「失礼ですよ」と苦言を投げる。
「ご機嫌を損ねたら怖いですよ」
「竜なだけに?」とツェルは即座に返す。すると、少女は至極真面目な表情で告げた。
「逆鱗に触れたければ、どうぞお試しください。死にますよ。冗談ではなく」
にべもなく投げ返され、また淡々と告げられた言葉の内容にツェルは背筋が凍るような錯覚を覚えてしまい、「……その時があったなら、素直に謝ることにする」と言うしかなかった。
すると、ヘクトの半眼が驚いたように見開かれた。
「試そうと思わないのですか?」
「いやいやいや!」
今度はツェルが目を剥く番だった。
「……むしろどうしてそんな発想に至るのかが知りたいよ」
そんなことを言うような娘には見えなかったのだが……と訝しむツェルの視線を受け、ヘクトは「いえ……なんとなく、そのような気がしただけです」と言って目を逸らした。
何処か神秘的な、口数の少ない娘と言うのが最初の印象だったのだが、こうして話してみると、表情の起伏こそ少ないものの、何処にでもいそうな普通の娘だなという感想を抱く。
「そんなに好戦的に見えるか、俺は?」
「どうでしょう。少なくとも、腕に自信はあるようには見えますけど?」
「そりゃまあ……一応は」
此処で否定するのは何か違う気がしたが、だからと言って肯定するのも何処か気恥ずかしい気持ちになり、ツェルは言葉を濁す。
「……凡人よりは上、ってところだよ」
「随分謙虚ですね」
「そうしておかないと、おっかないのに付きまとわれることが多いのさ」
うんざりしたようにツェルは言った。
腕試しと称して挑んで来る者には嫌と言うほど出会ったし、ガイアスのような強者との戦いを至上とする者にとっては、〈血塗れ〉ラインの名は食いつくには格好の餌らしい。遥か遠方の異国からやって来た者すらいたほどだ。
自分にそれほどの価値があるとは露とも思っていないツェルにとっては、驚きよりも先に申し訳なさが先立つ。
ツェル個人としては、自分の剣才は強さと言うよりも上手さと呼ぶべき部類だと思っている。
剣術――というよりは、ただ積み重ね続けた『殺し方』の練熟から来る技巧に過ぎない。究極的に言うならば、『殺し方を熟知している』ということだ。
何処を切れば人が死ぬか。
何処を切れば魔物が死ぬか。
どうすれば一刀で仕留められるか。
一刀で仕留めるにはどうすればいいのか。
それらを考察し、熟考し、熟知し、練熟するために殺し続けてきた研鑽の結果が、〈血塗れ〉ラインの剣だ。
戦うための剣でもなく、ましてや守るための剣でもない。
――ただ殺すための、純粋なまでに殺戮に特化した、骸の道を築くためだけの剣。
それは『騎士』という存在にとってあるまじき剣技だ。
無辜の民を守り、王威と民意によって戦場に赴き、そして王に代わって剣を振るう騎士にあるまじき異端の剣だという自覚はしている。
だからこそ、ツェルは自らを強者とは思わない。強さの頂を目指すような、純粋な志を抱く戦士ではないからだ。
戦場に望まれ、そこでしか価値を持たない――暴力を伴い、死だけを生み出すただの殺戮者だ。
「〈血塗れ〉ラインの剣は、殺すだけの剣だ。勝つためのものではない。勝利なんて、後付けだ。後先考えずに剣を振るって、敵を倒し続けて――気づいたら勝ち続けていただけだ。それは強いとは言わない」
「では、貴方の思う強さとはどのようなものなのですか?」
独白のような言葉に、しかしヘクトは真摯に問うた。問いを投げられるとは思っていなかったツェルは驚いて目を瞬かせ、少女を見つめる。彼女は静かな水面のような面持ちでじっとツェルを見つめ、答えを待っているように見えた。
答えるべきか。あるいは答えないべきか。どうするべきか悩み、僅かに逡巡を経て――結局、ツェルは答えることにした。
「……どうだろうな。あまり、考えたことはなかった」
最も、口にした答えは答えと呼ぶにはあまりにも空虚な言葉だったが、それでもツェルは言葉を続ける。
「ただ、強いて言うのならば」と口火を切って、思い返す。自分が剣を捧げるに値すると信じ付き従った、主君の姿を。
「自分の信念を、思い描いた願いを、貫き通すことのできること。どれほどの困難であろうと、たとえその歩く道が険しい茨の道だとしても、歩くことを辞めない意志は……強さなんじゃないかと思っている」
「まあ、俺には随分と欠けているものだがね」と付け加えて、ツェルは苦笑した。
苦笑して、そして目の前の少女の表情を見て、息を呑んだ。
笑っているのだ。
勿論、嘲笑うような、小莫迦にするような笑みではない。
まるで何か嬉しいことがあったかのような、あるいは何かを祝福するような純粋な笑みに、ツェルには見えた。
だからこそ目を奪われたのか。ツェルは呆けたようにヘクトを見据えていると、彼女は僅かな笑みを浮かべたままに言う。
「欠けている、と言いますが、本当にそうなのですか?」
「え?」
笑みに見惚れていたから――というわけではない。本当に、ヘクトの尋ねた言葉の意味が、一瞬理解できなかった。
――本当に、そうなのか……だって?
聞き取った言葉を自らの中で反芻し、改めてその言葉の意味を考え……ツェルは渋面を浮かべて黙考する。
自分にはあるのだろうか。今自分が言ったような、決してあきらめることを諦めない意志が。ただ歩くことすら困難な茨の道を踏破しようと思えるような強固な信念が。あるいは、無明の荒野を独りであろうと立ち止まることなく歩こうと思えるような何かが。
それが、ツェルヴェルク・ラインにはあるのか。
――俺に……そんなものがあるのか?
自問する。
しかし、それですぐ出てくるような答えなら、そもそも最初から口にしていたはずだ。となれば、自分の中にそんなものは存在しない――と言う答えに辿り着くだろう。
だが、果たして本当にそうなのか。
自分には――ツェルヴェルク・ラインには、貫くべき信念が本当にないのだろうか。
ない、とは思いたくない。
だが――ある、と断言することもできない。
「判らない……考えたことも、なかった」
「そうですか」
どうにか絞り出した言葉に、しかしヘクトは大した感慨もなくそう頷くだけだった。
質問しておきながら、興味なさそうな静かな表情をしているヘクトの様子に辟易しそうになる。が、どうにか持ち直したツェルは、盛大に溜め息を吐いて被りを振った。
「君と話していると頭を使うよ」そう皮肉を零すと、ヘクトは「おや」と僅かに目を見開いて小さな笑みを零す。
「奇遇ですね。私も似たようなことを思っていました」
「それは……喜ぶべきところなのかな?」
「どうでしょう。少なくとも、私は嬉しいとは思いません」
寸前の笑みを掻き消して断言するヘクトに、ツェルは「だろうね……」と嘆息一つ。そして手にしていた本を書棚に戻しながら「そろそろ帰るよ。明日もまた探索があるわけだし」と言って立ち上がる。
「精力的ですね。他の贄者たちにも見習ってほしいものです」
「まったくだ」眉を顰めてそう零すヘクトの言葉に同調し、失笑した。そんなツェルを見上げ、ヘクトは何気なく尋ねる。
「明日もまた、宿場街へ?」
「いや、明日からはその奥だ。ようやく遺跡の前までの行き方を確保できた」
となんでもない風に言うと、ヘクトは驚いたように目を見開き、言った。
「もう辿り着いたのですか? 交差路の遺跡に」
「そうだけど……何か可笑しいかな?」
尋ねると、ヘクトは「ええ、物凄く」と、大仰に頷く。
「黄昏領に来て僅か一週間少しで交差路の遺跡に辿り着いた人たちは、貴方たちが初めてだと思います。あの遺跡に辿り着くには、最短でも一月はかかると言われていますから」
「え?」
ヘクトの口から告げられた情報に、思わず間抜けな声を上げてしまった。そんなツェルを睥睨し、少女は淡々と問う。
「一体どんな進路を取ったのですか?」
「宿場街道を直進したけど……」何処か剣呑な雰囲気の漂うヘクトを前に、思わず言葉の最期が尻すぼみになる。すると、案の定ヘクトは呆れたようにため息を吐いた。
「なるほど。命知らずの集団――ということですね」
「……つまり?」
「これまでの贄者たちは皆例外なく宿場街道を避け、迂回して交差路の遺跡へと向かっていますから」
「……」
ヘクトの言葉に絶句するツェル。そして「迂回路なんてあったのか……」と途方に暮れたように項垂れた。そんなツェルに、ヘクトはヘクトで「よく無事でしたね」と呆れ顔になっている。
そんなヘクトの視線を受けて、暫く項垂れ続けていたツェルは「……今後は気を付けるよ」と、辛うじてそれだけ口にすることが出来た。
はぁぁぁぁ……と深い溜め息を漏らしながら、ツェルは仕方なしと言う風に歩き出し、書庫を後にしようとした。
「ツェルヴェルクさん」
その背を、ヘクトの声が呼び止める。ツェルは書庫の扉に手を掛けながら振り返った。視線の先には、先ほどと変わらない小柄な少女が立っている。だというのに、その身から醸し出される脊梁にも似た雰囲気はなんなのだろうか。
向けられる視線を受け止めながら、ツェルは「どうした?」と尋ねた。
呼びかけに対し、ヘクトは暫し逡巡するように視線を足元に彷徨わせ――やがて意を決したように口を開く。
「どうか……くじけないでください。絶望しないでください。いえ、くじけようとも、絶望したのだとしてもなお……そこから立ち上がってください。この先で、何があろうとも……」
と、ヘクトが言った。
思わず、息を呑む。
「それは――」
一体どういう意味だ?
と、尋ねようとして、止めた。それは今にも泣きだしそうなヘクトの瞳を前に、その質問をするのは憚られたからか。
あるいは――
その言葉の意味を今知ってはいけないと……内なる声がしたような気がしたからか。
「ご武運を」
返す言葉を失ったツェルは、ただその言葉を受け取る以外なかった。