九の幕
※今回は回想シーンのみとなります。
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煌びやかな生活は終わりだ。今となってはもう、それをだれが言ったかさえ思いだせない。
がやがやと騒がしい一帯で、僕はわけも分からず怯えていた。
ふいに父さんが現れる。僕を闇へと引きずっていこうとする。抵抗したけど、やっぱり大人の力には敵わなかった。
暗闇の中で、僕は一つのことに気づく。母さんがいない。どうしてここに母さんはいないの? と父さんに訊くと、少しだけ間を空けて言った。
もう母さんはどこにもいないんだ。
哀しそうに呟く父さんを見て、僕も哀しくなった。
闇に熔け込むかのように、父さんは次第にその姿を暗ませていく。
寂しさのあまり一人うずくまっていると、新たな情景があふれだしてきた。
鼓動の高鳴りを感じた。全神経は、ある一点に集約されていく。
僕にとってかけがえのない存在。父さんと母さんとは少しだけ違う感じの、見かけただけで頬っぺたが熱を帯びて、心が躍動してしまう存在。
僕の大好きな女の子――雫が、そこにいた。
僕は早まる気持ちを抑えつつ、一面に咲く彼岸花をゆっくりと押し分けていく。
彼女は俯いていた。顔を覗き込むと、やっぱり泣いていた。
僕の心が、くしゃりと音を立てる。でも、すべきことは分かっていた。
僕は彼女の涙を指で拭きとり、いつものように勇気づけたのだ。
「大丈夫。ひとりじゃないから、泣かないで」
すると、さっきまでの彼女の泣き濡れた顔が、たちまち微笑みに満たされていった。
朗らかに笑う彼女を見ると、僕の心も穏やかになる。
でもそんななかにあって、にわかに降りだしてきた雨。僕はしょうがなく、彼女の手を握って家に帰ろうとするが、腕がぴんと張って、次の一歩が踏みだせなかった。
振り返ると、雫はまるで蝋人形のように硬直していた。その表情はどことなく悲しげで、今にも泣き崩れてしまいそうなほどだ。
慌てて僕は彼女を抱き寄せるが、次の瞬間――僕は泣き叫んだ。
彼女の全身から炎が噴きだしていた。地獄の業火が彼女を包み込む。僕は我を忘れて、雨の中炎上する彼女を必死に抱き締めた。血の気が引くほどの熱さに気が狂いそうになる。
――どうか神様、この身が滅びようとも、雫だけはお救いください!
そうすると、願いは聞き届かれたのか、高熱が引いていく。と同時に、雨は止み、さんさんと照りつく太陽が舞いもどっていた。
もう大丈夫だよと僕は言おうとするが、途中で噤んでしまった。雫がどこにもいない。周囲を見回しても、どこにも見当たらない。
はたと、足元を見やった。
雫がいた。白濁とした液体となって。
世界は、闇に腐食されていく。
暗い闇のなかで、ぼっと足元に燐光がともった。蒼白い光はひとりでに、ゆらゆらと浮遊する。どこかに向かっている様子だ。
僕は考えなしについていった。
冥々とした道なき道を辿って少したらず。蒼白い空間に辿り着いた。
白装束を思わせる白衣姿の男たちは、円筒状の棺桶とおぼしき槽に群がっている。それを見た僕は、すぐに悟った。あの中に雫がいる!
いてもたってもいられなくなった僕は走った。が、白衣姿の一人に立ちふさがれる。
残酷な光景を見てはならないと男は言う。
僕は、雫はどこにいるのと訊いてみた。
すると男は答える。
「……残念ながらお亡くなりになりました」
心の芯を失った僕は、崩れ落ちた。
と同時に、背後から銃声が聞こえてきた。
振り返ると、なぜか父さんが血を吐いて倒れていた。暗がりに佇む人影が見えた。
……おじさん? 身の毛もよだつ思いで呟いた声に反応した人影は、次なる標的を捉えて嗤い狂う。僕は転げ回るように逃げる。意味も分からず逃げる。人殺しの咆哮を聞く度に、涙がこぼれ落ちた。唐突に追跡者の気配がなくなる。肩越しで後ろを確認してみるとだれもいなくなっていた。
僕は安心するあまり、派手に転倒した。胸を撫でおろす。
とても静寂だ。とても静寂だった。
そこで、はっと気づく。
家族は、もういない。雫さえもいなくなってしまった。僕は、ひとりぼっち。
そんな世界で、はたして生きてゆく価値はあるのだろうか。足場をなくした僕の心は、ずぶずぶと絶望の暗闇に沈んでいく。
瞼を閉じて脱力する僕は、思った。
いっそこのまま沈んでしまえ。
闇に熔け込み、闇となる。いつまでも、このままで在りたい。
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