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アウトサイダー  作者: 明日ヶ太郎
3/17

参の幕

この章より物語が展開していきます。

 第二章 日常


 小型ガスバナーコンロで温められた珈琲から、ふつふつと泡が浮かびあがってくる。ぱちんと泡がはじけて、郁々たるアロマが漂った。

 マグカップを手に取る津島は、鼻腔をくすぐられるいい薫りにうっとりとしながらも、油断してはならぬと緊張な面持ちで珈琲をそっと口に含む。するとどうだろうか、たちまちその顔から至福の笑みがこぼれて、こぼれるあまり垂涎してしまったではないか。

「やはり俺の配分に狂いはなかった。多才は罪だなあ」と自画自賛する津島に、

「へっ、ならちょっと飲ませてみろよ」

 半ば乱暴にぶんどった東条がマグカップを傾ける。するとどうだろうか、今しがたまで渋い顔をしていたというのに、てきめんにふにゃけてしまったではないか。

「――おっと危ない。他人の涎は御免こうむる」

 危うく東条の涎が珈琲の中に入りかけたが、寸でのところで津島が奪還した。

「ちくしょうっ、美味すぎて涎がでちまった!」

「ふふん、だろう? 屋外で飲む珈琲こそ至福なの――」

「え? どれどれ私にも一口」

 ブギージャックは珈琲をかっさらった。「うまあ――……」

「あ、おい勝手に」

「僕にも飲ませてぶばァ!? な、なにこのドロドロした珈琲は……って唾液ぃいぃィ!?」

 薬師寺は奇妙な粘りの正体を悟り、凄まじい形相でひきつった叫びを上げた。

 度重なる唾液の嵐により、珈琲は、今となってはもう見る影もない得体の知れないモノへと変貌を遂げていた。

「おおお、お前らよくも俺の至福のひとときを奪いやがって……」

 他人の体液にまみれた《至福》を狂わしく見つめる津島の表情は儚げだ。

 そこで、責任を感じたブギージャックが薬師寺に提案する。

「その……き、気分を変えるがてらに音楽を聴いてみてはいかがでしょう。薬師寺君?」

「一応僕も被害者の一人なんだけれど、仲間が哀しんでいる姿は見たくないしね。いいよ」

 言うや否や、薬師寺は複数の周波数をモニターできる無線機のダイヤルを弄りはじめる。

「……どうせ皆大好きハングマンズノットだろう? 専用チャンネルすらある。俺はあまりあのバンドが好きではないんだよ。やたらと重低音鳴らすし、あの抉るようなデスボイスっていうやつ? 聴いていて気が触れてしまいそうだ」

「貴方はなにも分かってらっしゃらない!」すかさずブギージャックが反論する。「こんな世界だからこそすべてを忘れてハッピーになりたい、を叶えてくれるバンドなんですよっ!」

 津島は胡散臭そうに目元に皺を寄せた。「まるで麻薬だな」

「音楽は麻薬だ。過去の自称知識人はかく語りき」

 東条はなぜか誇らしげに言うが、だれも聞いてない。

 不意に、無線機を捉えていた黒い瞳がしばたく。それがはじまりのように赤の他人の男女の会話が辺りに流れ込んできた。

『もうっ、ホントにやるのぉ?』

『いいじゃん、やってみようよ』

『でももし、だれかに聞かれでもしたら恥ずかしいし……』

『だれも聞きやしないって。それに聞かれるかもっていうスリルがあるから燃えるんだよ』

『あっ、ちょと急に……やんっ! もぉ、貴方ってホント変態さんね』

『その変態さんを好きになった変態さんはどこのどいつかな?』

『うふふ……あぁ、あっ、ちょ、とっ、は、はげしぃよぉっ』

 どうやらとんでもない周波数に合わせてしまったらしい。薬師寺は首を傾げる。

「あ、ごめん。まちがったかも。ちょっと合わせ直すから待ってて」

「待ちたまえよ玄太君」

 津島は断固として止めにかかる。

「我々は今、とてつもなく得難い経験をしようとしている。この巡り合わせ、神の贈り物と思わずしてなんとする」

「でも今からハングマンズノットを聴くんじゃなかったの?」

 例えるならば、壇上で熱弁する政治家のごとく政治家ではないただの変態がわめき散らす。

「ええい、バカたれが! こちらの方がよほど素晴らしい旋律が聴けるというものだ! どうかね諸君、異論がある者は手を挙げろ。ケツの穴に銃腔をぶっ刺してやる!」

 次の瞬間、東条とブギージャックは割れんばかりの拍手喝采で応えた。異論なし! 津島さん貴方はよく分かってらっしゃる! 

 これにて反対皆無の完全可決とあいなった。

 情欲にまみれた熱気にたじろぎながらも薬師寺は渋々従う。

 引き続き、彼らは放送に耳を澄ませた……。

『やっぱりいつもよりも興奮しているじゃないか』

『だってぇ、あっ、やっぱりだれか聞いてるかもしれないって思うと……』

『ああ、僕もいつも以上に興奮しているよ。これ病みつきになるかも』

『ああっ、駄目だってばぁ、病みつきになっちゃ駄目だってばぁっ』

『そういう君こそ既に病みつきだろ? いいじゃないか、こんな世界でちょっとハッピーになったってだれも責めやしないよ』

『そ、そうかなぁ? あ、あ、ハッピーになってもだれも怒らん、ないかなぁっ?』

『そうさ、だからもっとハッピーになっちゃえよ』

『あ、あ、あんっ、うんっ、は、ハッピーになる!』

『そら、ハッピーになって逝っちゃいな!』

『ああぁっ、ハッピーすぎて逝っちゃうよぉっ!』

『くぅ、ぼ、くも……ハ……す、ぎて――……逝っち……』

『……あぁ…………』

『………………ハ』

「「ハ?」」

 なにかの佳境に入ったところで、突然音量が小さくなる。

「どうやらふたりとも盛り上がりすぎて、マイクが口元から外れちゃったみたいだね」

 淡々と推察する薬師寺の傍らで、津島たち三人は無線機にへばりついて血走った眼球をぎょろぎょろさせながら懇願した。

「「気づけ、気づけ、気づけ、気づけ、気づけ、気づいてようっ!」」

『…………』

 しかし無情にもその祈りが聞き届けられることなく、無線機は完全に沈黙した。

「――なぜだっ!? やるからにはとことんやるのが礼儀というものだろう? 責任を果たせ、でなければこの不完全燃焼した気持ちはどう始末をつけたら!?」

 腹の底から煮え返るような怒りを消火することのできない津島は喚き散らす。だがそれに引き替え、東条とブギージャックはなかなか殊勝なもので、業腹を律して大地と面と向かっていた。と思いきや、そうではなかった。

「ちくしょう……俺もハッピーになりてぇよう」

 東条は泣きながら津島を見る。「景久、ハッピーなるにはどうしたらいい?」

「俺に聞くな」

「私をハッピーにさせてください。方法は問わないから」

「俺に触るな、この汚らわしい奴らめ」

 シキビトのように詰み寄ってくる彼らに、津島は苛立ちながら振り払う。

 彼は青空を見上げて言った。「だれだってハッピーになりたいわっ!」

 一人なんともない顔をする薬師寺は、提案する。

「で、どうする? ハングマンズノットでも聴く?」

「ハングマンズノット……あぁいいじゃないか! なんだか無性に聴きたくなってきたぞ!」

「そうだ、俺たちにはハングマンズノットがあった! これさえ聴ければ、すべて事も無し! ハッピーだぜ!」

「ハッピー、ハッピー、ハングマンズノットハッピー! ひゃっほぅ!」

 口惜しい思いを忘却の彼方へと押しやりたいがために『ハッピー、ハッピー』と狂ったかのように連呼する彼らに呆れつつも、薬師寺は再度ダイヤルを合わせはじめる。

 と、ここで彼が怪訝そうな顔をした。

「え、こ、これって――」

「もしや奴らがもどって来たのかっ!?」

「いや、そうじゃないよ」

「ああ、そう」

「でもこれ聴いてよ」

 薬師寺のただならぬ面持ちに戸惑いながらも、津島は耳を澄ましてみる。そうすると、同じ構成で刻まれた音が幾度となく反復されるのが聞こえてきた。

「モールス符号、か? いまだに使っている物好きがいるもの……ん? これは……」

 薬師寺は頷いた。「救難信号(SOS)だよ」

「まさか。どうせお遊びに決まっている」

「でも本当だったらどうする?」

 冗談だろうと鼻の先であしらっていた津島も、その表情を強張らせる。しかしなにかを思いだしたかのように周囲を見渡してから、彼は大仰に肩を竦めて見せた。

「だとしても、まずはこの状況をどうにかせねばなるまい」

 彼岸であるかのような不毛地帯。倒壊寸前の建物は草花に寄生され、口々から大木が突き抜けている。言うなれば赤褐色に包まれし黄泉の国といったところか。その根幹で、彼らは今とある市街地の中心部にて、如何にもしがたい袋小路に囲まれていた。

 気が遠くなるほどの数の、シキビトによるお手製の囲いであることは言うまでもない。


「むしろこっちが救難信号(SOS)をだしたいぜ、まったく……」

 東条は有刺鉄線でこしらえたバリケードを点検しながらぼやく。

「オーケー。まだバリケードは持ちそうだ」

 彼はあらかたの仕事を終え、津島に伝えた。

「ご苦労、とりあえず飯でも食おうか」

「いいね、腹減って死にそうだ」

 津島は武器の点検をしているブギージャックと薬師寺にも呼びかける。

「お前たちもこっちへ来い」

 夕食の準備ができたと見るや否や「きゃっほう!」と言いながらはじけるようにして飛び上がるふたり。

「やけに嬉しそうだな。そんなに腹が減っていたのか?」

「というよりも、これが最後の晩餐、今生の見納めだと思うと無性に空腹を感じた、と言った方が適切でしょうかね」

 ブキージャックは、そう言った。

「僕はもっと単純に皆とご飯を食べられることに喜々してるだけさ」

 薬師寺は言った。不毛な大地に花を咲かせるような屈託のない笑みで。

「……お前はいつまでも変わるなよ。ぐれたりでもしたら承知しないぞ」

「なに言ってんの。こんな身なりだけれど、僕は景久たちと同じ成人なんだからね。ここまできたらもう性格は変わらないよ」

 そうだった。ちんまりとした背丈で、しかも愛らしい容姿にもかかわらず、実は津島たちと同じ成人かつ男性だった。やはり神はいないということか。百歩譲っていたとしても、それは生粋の変態に違いあるまい。

 ――アウトサイダー一行曰く、最後の晩餐は、端的に言うと不味かった。

 まさかバケモノどもに包囲され野宿するなど考えもしなかったから、人として必要最低限のエネルギーを補充できただけでも良しとするしかなかった。

 しかし少なからず食事を摂ったことにより、津島たちは活力を取り戻した。それにつれて彼らの表情が怒りで満たされていく。

「そもそもあの女がすべての原因なのだ。許せん!」

 津島は吐き捨てた。それに同調するように東条も言う。

「大体仕事の内容にしては報酬がよすぎたんだ」

「車からバイオ燃料を抜き取るだけの簡単な仕事だってはしゃいでいたのは貴方ですがね」

「うっ」

 ブギージャックに不意に指摘された東条は怯む。が、薬師寺は言った。

「でも、一番はしゃいでいたのは景久だよね。あの女に直々に指名されたって」

「うぐっ」

 非難のまなざしが一点に集中する。

「お前ってホント、あの女に弱いよな? どこがいいわけ?」

「私には理解できません。なんだってあんな牝犬(アバズレ)が好きなんですか?」

「景久はただ単におっぱいが好きな変態さんだもん」

 散々な言われようの津島は、頭を垂れた。

「おっぱい……それがすべてだ」


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