第1話 接待
スベーニュの街の一角にある、木造二階建ての楽器店“avec des cordes”。
既に太陽は頂点に昇り、街には柔らかな日差しが降り注いでいた。
楽器職人のクレイドはつい先ほど目を覚ましたところで、頭の中はまだ眠っているような、どこか冴えない感覚が残っていた。ほぼ徹夜で楽器の調整を行っていたため、いわゆる睡眠不足状態だった。
依頼人の男性に修理済みの楽器を引き渡すのは本日昼頃の予定である。
クレイドは客人が来訪するまでに何か食べておこうと思い、昨日の終業後に市場で購入したパンを戸棚から取り出した。
唐突に店の扉を叩く音が聞こえて、クレイドは動きを止めた。まだ『open』の看板を外に出していなかったが、依頼人の男性が来てしまったのだろうかと少しばかり気持ちが焦る。
手に取ったパンを戸棚に戻すと、空腹のまま扉に向かった。
「お待たせしました」
「あの、看板がまだ出ていなかったのにすみません。実は、僕のヴァイオリンの弦が切れてしまいまして……」
入り口に立っていたのは、外見15歳前後の少年であった。緊張しているのか、おどおどした様子である。そんな思いをしてまでこの店の扉を叩いたのだから、よほど一大事なのだろう。
クレイドは柔らかな表情で少年を迎えた。
「どうぞ中へ」
「あ、ありがとうございます。実は明日、演奏会があって……」
少年はいかにも焦燥に駆られた表情をしている。
「大丈夫ですよ。ただ、予約のお客様がもうすぐ来店する予定なので、少しだけお待ちいただいてもよろしいですか? 終わり次第、すぐにあなたの楽器を新しい弦にお取り換え致します」
「か、構いません! ありがとうございます!」
少年の顔色が、安心したようにぱっと明るくなった。
「では、先に楽器をお預かり致しますね。奥に部屋がありますので、ご自由にお休みください。客間ではないので狭いですが……。今、何か飲み物をお出しします」
クレイドは少年を奥の部屋へ真っ直ぐに通した。
少年は促されるまま、ぎこちなさそうに椅子に腰かける。
「こんな、わざわざすみません」
「いえ。少しだけお待ちください」
クレイドはお手製のぶどうジュースをテーブルの上に乗せると、一礼して作業場へと戻った。
その後、予定通り依頼人の男性が楽器を取りに来店した。
「お待ちしておりました。お預かりしていたヴィオローネ(※ヨーロッパの古楽器)、こちら修理済みでございます」
クレイドは低音域の擦弦楽器ヴィオローネを男性に渡した。
「おぉ、ありがとう。助かるよ。えっと、お代はいくらだったかな?」
「代金の前に少し弾いてみていただけませんか。もし納得がいかないようでしたら、お代はいただきません。または、無料で修理し直します」
男性は目をぱちくりと開き、ニ度まばたきをした。
ヴィオローネの太く柔らかな音が室内に響いた瞬間、男性はすぐに弾く事をやめた。
「気に入らなかったでしょうか……?」
クレイドはぼそりと尋ねた。
「違う、これはすごい……! こんなすぐに実感できるとは思わなかったが、購入時よりも格段と良くなっている! 何も変わっていないはずなのに、音も弾きやすさも全て変わったと感じるのは何故だろう?」
男性はキラキラした眼差しで楽器を見回す。楽器に何が施されたのか、理解できていない様子だった。
「喜んでいただけて、私も嬉しい限りです。私が行ったことは修理のほかに、歪んでいた部分などを少し調整して、素材の良さを引き出しただけです」
「いやいや、少しだなんて! 最大限に引き出してくれたじゃないか! ありがとう!」
男性は興奮した様子でクレイドに手を差し出して握手を求めた。当然クレイドもその求めに応じた。
「そこまで喜んでいただけて、本当に良かったです。それでは、修理代の話なのですが……。銀貨二枚でいかがでしょうか?」
「そ、それは安すぎるぐらいだ。申し訳ない」
「いえ、これでお願いします」
クレイドは決して譲らなかった。
こうしてクレイドは報酬に銀貨二枚を受け取った。
男性は喜びに全身を包まれながら店を出たのであった。
ようやくクレイドは少年のヴァイオリンの修理に取りかかり始めた。
切れた弦は一本だけだが、既に他の三本もいつ切れてもおかしくない状態だと判断して、全てを交換することに決めた。
弦の張り替え程度であればクレイドにとっては手慣れたもので、作業はすぐに終了した。
その後は、彼が万全の状態で明日の演奏会に臨むことができるようにと、楽器の微調整を丁寧に行った。
「お待たせしました。どうぞ、試しに弾いてみてください」
「は、はい! ありがとうございます!」
少年は立ち上がってクレイドからヴァイオリンを受け取ると、楽器本体を左肩に乗せた。
恐る恐る簡単な音階を弾き始める。
「あれ? 何だか、音の響きが良くなった気がします!」
「少し気になった部分がありましたので、調整しました。もちろんその分の代金は取りません。こちらでいかがでしょうか」
クレイドは人差し指を一本、ピンと伸ばした。
「あの、それは安い気がします」
「お金を取るためだけに仕事をしているわけではありませんから」
クレイドは少年に柔和な笑みを向けた。
「あ、ありがとうございます」
少年は懐の布袋から一枚の銀貨を取り出した瞬間、クレイドは咄嗟に首を横に振った。
「あっ、いえ。銅貨の方です」
「それは安すぎますよ?!」
少年は驚きのあまり声を張り上げる。
「お願いできませんか?」
クレイドが再び頼み込むと、少年は申し訳なさそうに頷いた。取り出した銀貨を懐に戻して、代わりに銅貨一枚を出す。
「本当にすみません。こんなに良くしていただいて、ありがとうございました」
「お気になさらないでください。ぜひ、演奏会を成功させてくださいね」
こうしてまた一人、客が帰って行った。
楽器の新たな魅力を知って、客が嬉々として帰っていく姿。これぞ職人冥利に尽きる。そう思う毎日だ。
――それにしてもお腹がすいた。一旦小休止して、少し遅れた食事にしよう。