第1話 看病
この日、開店時間を目前に控えているにもかかわらず、リェティーが二階から降りて来ることがなかった。
既に朝食の準備は整っていた。
普段なら早起きをして、率先して準備を手伝ってくれる彼女だからこそ、クレイドは気がかりだった。
そろそろ呼びに行ったほうが良いだろうかと迷いながら、気がつくと足取りはリェティーの部屋へと向かっていた。
「リェティー?」
声をかけると同時に、扉を三回ノックして返事を待つ。
しかし、一切反応がない。
「ごめん、中に入るね」
扉を開けて部屋の中の様子を見ると、リェティーはベッドの中で眠っていた。
しかし、彼女の呼吸は荒く、顔は熱を帯びたように赤く染まっていた。
リェティーの額にそっと手を乗せると、ものすごい高熱であることが瞬時に分かった。
「これは……」
心配そうにリェティーを見た。
リェティーは薄っすらと両目を開けて、ただ辛そうにこちらを見ただけだった。
クレイドは、この状態で自分に出来ることといえば、まずは何か冷やすものを持ってくることだろうと考えた。
「冷たい水を持ってくるから、少し待っててね。早急に戻るよ」
それだけ言うと、急いで一階へと駆け降りた。
この家には、あいにく"冷たい"水はなかった。調理用水としての水はあるものの、リェティーの高熱には何も役に立たないだろうと思われた。
水といえば衛生面が気になるところだが、スベーニュの街周辺は他の街に比べて幾分水質なども良好であった。川の水などは到底飲めるものではなかったが、教会など公共利用可能な施設が設置する井戸では、透明感のある冷水を誰もが平等に入手できる。
それゆえ、クレイドが真っ先に向かうべきだと考えた場所は教会だった。高熱を出したリェティーをこの家に一人残すことに強い不安を感じながらも、今は急いで水を持ってくることが何より優先すべきことであると考えた。
クレイドは片手に水汲み用の桶を持ち、朝の街へと繰り出した。
――リェティー、頼むから無事でいてくれよ……!
クレイドがリェティーの身をこれほどまでに心配するのは、彼女の高熱の原因が感染症である可能性を拭いきれなかったからだ。
世界は度々感染症に見舞われており、そう遠くない過去、大勢の人の命が失われた歴史があった。スベーニュの街も例外ではなかった。
ただ、病気について素人のクレイドがどれだけ考えても、正解を導き出すことなどできないことは分かっていた。
井戸で冷水を汲み、いち早くリェティーの元へ帰ることだけを考えようと、クレイドは自身に言い聞かせた。
井戸で水を汲んだクレイドは、教会の鐘の音を背に、貴重な一滴すらこぼさないようにと、慎重かつ早急に家へと向かった。
クレイドは帰宅すると、布を冷水に浸して絞り、リェティーのいる二階の部屋へ戻った。
彼女の様態は相変わらずで、その布を額の上に乗せると、目を開けてクレイドを見た。
「あ、ありがとうございます……」
この状況で感謝の言葉をわざわざ述べるリェティーに、クレイドは一瞬だけ口を噤んだ。
「リェティー、今日はずっとここにいるからね。大丈夫だよ」
クレイドがようやく声に出した言葉は、自分でも驚くほど力強かった。リェティーを不安にさせまいと思う気持ちが言葉に表れていた。
リェティーが小さく口を開く。
「ごめ……ん、なさい……。お仕事の、邪魔……して……」
「何を言ってるんだ。今日は店を休みにするから、何も心配しなくていいんだよ」
「でも……。私、もともと体が、弱いんです……。ごめんなさい……」
謝り続けるリェティーに対し、クレイドは静かに笑いかけた。
「そんなの何も気にすることはない。無理して喋らなくていいからね。何も心配しなくていい。今から街の医者を呼んでくるよ」
「ま、待ってください、お兄さま……。お医者さまに、診てもらう必要は、ありません……。今までも、何とかなっていたので……」
クレイドは頭を悩ませた。
リェティー本人がそう言うのなら、この高熱は感染症とは別のものなのかもしれない。それなら医者を呼ぶことによって街の人々に根も葉もない噂を広められるリスクを考慮すると、今このタイミングで医者を呼ぶことは得策ではないかもしれない。
「医者に診てもらわなくて、本当に大丈夫だろうか」
クレイドの言葉は、独り言にしてはどこかリェティーの反応を求めているようであった。
「はい、本当に……」
リェティーは口元を少しだけ綻ばせた。これが彼女の答えだと、クレイドは理解した。
それから、クレイドは教会の鐘が鳴るごとに冷水を汲みに井戸まで足を運んだ。
額の布を交換しながら、この日はリェティーの看病に徹していた。
夜を迎えると、クレイドはリェティーの部屋にある椅子に座りながら、彼女の様子を傍で見ていた。時々ランタンを手に提げながら、彼女の顔色や熱の状態を近くで確認していた。
途中、リェティーの穏やかな寝息が聞こえてきた。どうやら様態の悪化はないようで、熱も快方に向かっているようだった。
クレイドは少し安心すると、座りながら時々うたた寝をしていた。
***
翌朝、太陽の陽射しが部屋の窓から入り込んでいた。
リェティーは眩しそうに目を開けると、自力でゆっくりと身体を起こした。
「大丈夫? まだあまり無理はしないでね」
クレイドが少し慌てたように言うと、リェティーは今にも泣きそうな顔で俯いた。
「お兄さま、昨日はご迷惑おかけして、本当にすみませんでした。そして、ありがとうございました……」
クレイドは柔らかな笑みを向けて、リェティーの頭にそっと手を乗せた。
「元気になってくれたら、それだけでいいんだ」
リェティーは下唇を軽く噛み、じっと堪えた。
彼女のその姿には、13歳という年齢を思わせない強い精神力が垣間見えた。
「何か持ってこようか。ミルクは飲めるかな?」
クレイドの問いかけに、リェティーは小さく頷く。
「よし。それじゃあ、少しだけ待っててね」
クレイドは一階へ続く階段を降りた。
キッチンで火を少し炊いて温めたミルクをカップに入れると、再びリェティーの部屋へ向かった。
「持って来たよ。少しぬるいかな……」
リェティーは先ほどの表情から一転して、部屋に入ってきたクレイドにしっかりと視線を向けた。
「お兄さま、ありがとうございます」
リェティーはようやく少しだけ表情を和らげた。
クレイドに向けて両手を伸ばし、ミルクの入ったカップをそっと受け取る。
「美味しそう……。お兄さま、いただきます」
リェティーはミルクを一口飲んだ。
身体が芯から温まり、ほっとする安心感に包まれた。
「とっても、美味しいです」




