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隣のつぶやきっ子

最後に見た夢はおぼろげに憶えていた。

朝、登校すると、プシュッ

ごくごく

と、教室の末席で、怜司がポカリをぐび飲みしている。

朝から三十度を越し始め、とても暑い。

「おっはよ、洲美ちゃん」

 友達の聖奈が声をかける。

「ああ、おはよ」

 怜司のほうへ向きなおり、

「おはよ」

声をかけてみる。

怜司は目を伏せ、よそを見つめてこちらを見もしない。口をとがらせて、ポカリの口に吸いついて、ちびちび飲んでいる。

(何で、何も言わないのよ)

 僕は相手にしないと言っているような無視。

心底頭にくる。噴火火山が爆発するような熱いものが込み上げてくる。

冷静さを取り戻すよう努力する。次もまた無視されては、こちらは面目がつかない。わかっていて、さらに突っかかっていくほどでもない。

握りしめた鞄の取っ手にわずかに力がこもっていて、歯がゆい。

「たりい」

 小さく彼はつぶやく。頭をぼりぼり掻き、あくびをする。さも眠そうにする。

 洲美は黙って、席に座った。人が不機嫌であるのを見てしまうと、病原菌が伝染してしまう時って、あるんじゃなかろうか。

たりいのが、感染してしまって、洲美の体が三キロほど太ったぐらい重たくなった。じんとふくらはぎに細い電流が流れていく。

自分がばかばかしくなる。

怜司のことは言葉を交わさなくても、どんな人物か、分かっている。

 冷淡、自己中

家のこともテレビの話題も、女の子のちょっとした話までも話しても、「別に」とか、「知らん」で、話が終わりそうだ。

洲美は、あんまり開放的な門戸があると、ついうかうかと入ってしまいそうになってくる。

洲美は、いつだって、こっちのことを分かってほしくて、うっかり口を滑らしそうになる。

けれど、言えない。言ったこともない。

今まで口を聞いたことも、ほぼない。

怜司は寡黙。

誰とでも、あまり話をしない。

洲美とは教室が一緒で、たまたま席が隣になっただけ。

彼は洲美にも、話しかけてはこない。

実際は、なんでも言える間柄どころではない。

言葉を交わさなくてもどんな人物かわかるなんてのも、こっちの思い込みでしかない。

たりいのが上昇する。たりい一番の原因は、第一限目から英語の小テストがあることだろう。

暑い朝から授業が始まるっていうのに、みんな、熱心だ。宿題の問題をめいめい用意している。机にかじりついて、教科書をめくっている子もいる。

洲美も最後まで教科書をひっついている部類で、席について教科書を広げる。

たりいのが広がった。

親は洲美は馬鹿で、よっぽどで二流の私立大学が関の山だろうという。血縁に国立大の医者や、法学部出身の人がいて、そこと比べての話。自分たちの学歴は棚に上げて、言いたい放題。

馬鹿という言葉にぴんとこない。馬鹿もの呼ばわりされて、怒る気持ちもわいてこない。そもそも馬鹿の加減が、自分に当てはまるのか分からないし、自分では馬鹿と思っていない。

ただ、進学するのにどこにでも入れるという実力を持ち合わせていないのは、自分でもわかる。近い将来、大学受験とか、OL生活とかあるのだろうが、先行きは暗い。それぐらいは、自分でもわかる。

隣の席、というのは、隣の席の人間の人柄とか、日常生活を垣間見ることができるのじゃなかろうか。

教室の中では、休み時間をのぞいて、常に至近距離一メートルのところにいて、同じ向きを向いて、同じ姿勢で座っている。同じところに鞄をかけて、同じ学校指定の靴を履いて、よくよく考えれば妙なことに違いない。同じところで、シャーペンを動かし、同じタイミングでページをめくる。英語の発音を一緒に唱える。先生の冗談で笑う。

怜司はたりいとか、ウゼエとかでバッサリ切り捨てるときがある。

英語のテストがあって、時間に余裕があれば、教科書を広げずにはいられない洲美とは違って、怜司は絶対にテストの前で教科書を広げたりしない。

勉強し忘れていたというときでも、平気で余裕面でテストに解答する。だいたい、でたらめが多い。

それから、体操着を忘れたら、体育の授業には出ないし、教科書を忘れても、なしで授業をすます。今日提出のプリントも永遠に持ってこないこともある。

いうなれば気の細かい洲美は、怜司のそういうふてぶてしさが信じられない。

「おい、これ」

 朝のホームルームの時間中、さっそくメモが回ってくる。怜司のごつごつしていて大きい指が目に入る。何だが、触れてみたい。そう思って、どきりとした。

メモを広げると、変な絵が描いてある。時々出どころの分からぬ怪文書が出回る時がある。

笑いを口の中で噛み殺して、胸の中を掻きたいようなおかしさで満面笑みになりながら、隣の席に渡す。

伊藤田君は何げなく受け取り、噴き出すのをこらえ、メモは後ろへ回っていく。

怜司の長くてしっかりした右手が宙へ持ち上がり、軽くそろえた指で前髪を掻き上げる。ふああとあくびが出て、ふうーっと大息が出る。

直接見ていなくとも、仕草は妙に分かるものだ。

奇妙な隣人は、なぜ不機嫌なのか?新学期に入ってから、席が隣に来たこと。それだけで、素姓はとんとしらない。

いや、そういえば、怜司のことを好きな今日子が、怜司がなになに町に住んでいて、家は一個住宅だとか言っていたっけ。

怜司のお母さんは有名だったそうだ。昔は女優で映画に出ていたって、聞いたことがある。

まあ単純に、たりいだけなのだろう。おおよそは。

朝から充血眼で数式を唱える桂次郎先生なぞ、特別なのだ。この学校では。

昨日見た夢は、町の中だった。人通りの多い通りで、誰かを追いかけていた気がする。

まだ、夢の中にいるような心地がする。

まどろみが、頭の中に残っている。怜司が出てきたかもしれない。何事かを叫んでいたかもしれない。避難訓練のようだったかもしれない。

母親が何気にチェックを入れてくる。服装、髪形、鞄、言葉の調子、話す内容。細かいところまで。

友達がブランドの財布や鞄を持っているのを見て、子供なのに分不相応だという思想の持ち主で、子供は子供らしくしていればいいと言う。

母親の理想の子どもというのは、毎日地味な制服を着て、黒い鞄を持って学校へ出かけ、授業が終われば、寄り道をせずまっすぐ家へ帰ってくる人。家の中ではテレビを見て、夕食が終わればテレビを見ていること。

洲美がいない間は、きっと部屋の中まで入って規律違反がないかどうか探しているに違いない。

入ったら、常に感じるあの視線をぐるぐる回して、部屋の中を撫で回しているだろうなあ。タバコ?クラブの割引券?なにかないかしら?お父さんに報告しなくては。

いつも嫌うヴィトンのバッグを、自分ではいくつも持っているくせに、洲美には持たせたがらない。いずれ働きだしたときに、自分で買いなさいという。でも、あんな高い物、子供にはもったいない。そう付け加えるし、おまけに、就職なんかしてもすぐに嫁に行くのだから、就職や進学は、別にしなくていい、とまで言ってくれる。

近所のおばさんたちも母親と似て、目や顔つき、仕草がいっしょだ。きっと同じようなことを考えているに違いない。同じ通りの同級生の山田さんも、洲美と似たような文句をぶつぶつ言っていたのを、聞いたことがある。

あの辺り一帯は、危険地帯だ。

崖崩れで立ち入り禁止の場所と同じだ。足を踏み入れるのもためらわられる、醜悪極まりない大地。一つの動きを取っても何を招くか分からない。

バス停でサラリーマンの背中にまぎれて、行列を作っているときは、まだ吹雪いている。

混雑したバスの中へ入ると、背広や学生服で黒っぽい群衆の背中が隣立し、灰色の制服の洲美も一群の仲間になる。

紛れてしまうと、熱くなっていた頭部が冷めて、肩の力も抜ける。

白い丸い吊革につかまると、借りてきた猫のようにおとなしくなれる。ほんとうにごろごろと喉を鳴らしたくもなってくる。

サーティーワンのアイスクリームは大好きだ。がっしりとした体形の盛り上がりに、スプーンを突っ込んですくい、口の中へ入れるとねっとりした濃厚な半固体の甘いものが舌や歯ぐきをもちもちとなでて通る。かぐわしい香りと冷たさが口から、頭の先へ立ち上り、アイスを食べているんだという至福の実感が広がる。

怜司の場合、家に帰りたくないとは言わない。授業が終わって、教室から人がはけていってしまうまで居残っていて、たりいとかめんどくせえとかぼそっともらして、帰りたい気配はない。

後者の片隅で、仲間でつるんでいて、話こんでいるのを見ると、羨ましい。

男の子の仲の良さは女の子とは違って、優雅に見える。彼らにとっては、この世界は痛みも苦しみもない天国で、彼らは無邪気そのものだ。

そう思うと、腹の下がうごめき出すようなひきつれがする。

怜司の人を小馬鹿にした笑いは、見事だ。

英語教師はいちいち当ててきて、一時間中大半、質問してくる。真面目な良い先生で、熱心に教えてくれるが、時に授業に白熱するきらいがある。

分からない?分からないの?と、すごみを増してくる先生に指されても、誰も答えられない。怜司の場合、そんなもんわかるかというように先生を見据えて、挑戦的にふっと笑う時の、あの大胆さっていったいどこからくる?怜司の全身が、背筋も凍るような冷気を発散させて、嫌っけたっぷり。少なくとも、そこまで先生に対して恐れを知らぬ態度で臨めるのは、怜司らの一団ぐらいだ。

特に怜司は一瞬で火がついて、威嚇し始め、冷淡に微笑む。見た方は、冷たい水を浴びせられたようになり、長居すると危険が及ぶと気付いて、すごすごと退散する。

新しい学年に進級し、教室が変わってから、知り合った友達の大木聖奈は、洲美といつもつるんでいる。休み時間になればだべり、昼食時間になればお昼をいっしょに取り、だべり、放課後も一緒だ。

聖奈と話していても、でも、洲美は楽しくない。正直言ってしまえば、いや、洲美は誰と話していても楽しくない。

テレビの話とか、化粧の話とか、男の子のこととかはいまいち興味がないのに、彼女らはいつも同じ話をする。

かといって、ほかに関心ごとがあるわけでもない。

一度だけ、星座の話をしたことがある。洲美には重要と思われて、謎めく世界だと感心したものだ。けれど、友人たちはなにそれ?ときょとんと洲美を見て、あいづちも追及もしてこず、話題は洲美の一言で終わった。話はすぐに別の話題に変わった。ジャニーズか、特番かに。

洲美も続きは口にしなかった。問題にしたことの何が気になったのか、自分でもつかめていなかったから。

あのときの不思議さは、どこに消えたのだろう?

いきなり闇を見た。真っ暗な光ひとつない、本当の闇夜は、人間をなんとも思っていないように押しかかり、目や鼻や毛穴や口などの、体中の開いた穴から、洲美の体の中へ侵入してくるようだった。

思い出すと、今でも取り囲まれているような気もする。忘れても、相手は忘れてくれないで、獲物を欲しがっているようだ。

ある意味、怜司が横で、先生さえも含めて、なにもかも小馬鹿にした態度を取ってくれるのがありがたい。

口に出して言わないが、言葉に出来ない分、明らかにオーラが出まくってないだろうか?言わないほうが、大きな声を出してしまっているような。

男の子は、女の子とは違って、そんなとき、なにも気づかない。隣の席で、古典を朗読する怜司へ洲美がその視線で、ちらりとみたからといって、気づくことではない。

彼にとっては、いつもとはあまりに小さな違いしかないものだから、したがって、

「やべえ、教科書、忘れた」

 などと悠長に日常めいたことばかり言っているのだ。そう思うと、洲美の顔が自然赤くなる。

毎度のこと。

小テストもあると言うのに、教科書も忘れたとなれば、重い積荷がまた増えたではないか。

「教科書、見せてくれ」

 と言うかと思ったが、今日は何も言わない。いつもは、隣の柔道部の猪田さんには頼めないから、洲美の方へ言ってくるものだが。

いーや、なしで。

ポケットに手を突っ込み、居直った怜司は、そう思ったようである。

洲美のみぞおちに冷たいものが流れる。

テストもろくに勉強せずに受け、そのあと教科書もなしで授業を受けるのは、さすがに気が引けないか?

授業中、先生の視線が洲美には気になる。

半笑い半怒りで、洲美の顔がゆがむ。

「見せようか、教科書」

「え?」

 声が小さかったのか、怜司の耳には入らず、思い切りのある、良い声で怜司が聞き返す。

「リーダーズ、見せようか?忘れたのなら」

「いーよ、別に、なくても大丈夫さ」

 怜司はとぼけたように言う。

なにしろ、洲美とは今日話したくないようだ。

拒否されては、言いだした洲美は立つ瀬がないではないか。二度目にぐぐっと、胃袋の下が入るいらつきが、体をかすめていく。

骨の髄まで、しみ込んでくる。

沿線の街に住んでいて、古い洋館のような家に住んでいる怜司って、何?

心の中で想像でやり取りしてみているけれど。

ノート貸し、教科書貸し、連絡回し、その他いろいろあるが、役名外れの、ずばり助っ人、とでもいうところだろうか。

体のいい世話役。

いや、そこまで求められてもいない。世話をしたこともない。

世話を焼かれることを望まれてもいない。

こちらこそ、世話を焼くなぞしたくない。

そもそも、怜司は洲美の事をどれだけ知っているというのか?

朝起きて、パジャマ姿で鏡を見ると、髪はぼさぼさ、口からはよだれ。自分でも目をむくあさましい姿。

朝食はパンと目玉焼き、サラダ。せっかく作ってくれる母親には申し訳ないが、毎朝年中同じメニュー。もちろんこんなこと知るわけないよね。

歯磨き粉は石鹸歯磨き。これがとてつもなく、変な味がする。もちろん知るわけない。

バスに乗って、学校へ行く。校門はいつも込んでいて、自転車とぶつかりそうになる。馬鹿よけよとか、荒い声が飛んでくるときもある。多少、洲美は傷つく。

教室へ来ると、聖奈が真っ先に来てくれる。自分を見つけて歩み寄ってくれることは、何とも嬉しい。

洲美は授業は真面目に受けている。進学する気が一応あるから。

でも時々、集中が切れてぼんやりして、シャーペンをもて遊んでいる。

鼻の下がかゆくなって、ポリっと掻くのも癖みたいなものだ。

昼前になると、おなかが鳴る。ぎゅーの時もあるし、ゴロゴロと、妙に音が大きい時もある。

怜司の腹もその前からなっている。ので、洲美の音は気にしてないようだ。

昼は教室の外のベンチとか、校舎の陰とかで食べる。聖奈と中学校からの友達と、他の子も加わって、食べている最中から話が始まっていく。

洲美も彼女らの会話にとりあえずは加わる。

好きな子の話題とか、先生のうわさ話とか、おしゃれのこととか。

昼からの授業は、ほっとするひとときだ。あと少し授業を受ければ解放される。放課後もおしゃべりして、昼の続きをする。

家へ帰れば、テレビを見る。ユニクロの上着に綿のパンツをはいて、ポテトチップスを抱えて、ソファに寝ころび、リモコンを向ける。

五時ごろから、ニュースばっかりやっていて、つまらない。面白そうなところを回して見ていく。

夕飯は、父の帰りが遅いので、母子二人が多い。お互い、良く思ってない部分があると、それと知れて、気まずくなるもので、夕食はご馳走でもあまり喜べない。

箸で運ぶものに加えて、振りかけられた取り払えぬものも、一緒に食べているような気がする。ふわふわとした味気ない綿をかみしめているような、食感。

ふと母親を見れば、母もただかみしめているだけで、無表情だった。

おいしいねと、洲美が機嫌を取ると、少しだけ母の顔が、嬉しさで明るくなる。

だから、いつもどれか一つをさして、おいしいという日もある。そんなこと、知らないよね。

父が帰宅し、風呂に入っているのと、洲美が一階へトイレや水を飲みに、部屋から下りて行く時と、ちょうど重なることが多い。

父親が鼻歌を歌っているのが聞こえるときは、父親の調子が良い時だ。部長さんと仲良く仕事をして、今週末は接待もなく、一日ごろ寝。そうなる週だろうと分かる。

すると、母も父も穏やかで、日曜は二人で出かけることになったりして、お前も友達と遊んできなさいなんて、いつもは言わないことも言う。

なんだか世の中は、不毛な世界。

真面目に勉強して、親の言うことを聞いて、友達の言うことを聞いても、勉強は次々と知らない展開になって、人は気分しだいで言うことが変わり、これで絶対大丈夫だという確かなものがない。

人生は二転三転する。

心臓の近くにくぐもった暗い雲が、雨を降らしてくる。

さざめく水面の波音が、耳の奥で鳴っている。

確かに、怜司のたりいというのが、正解のように思われる。

洲美のことも何も知らなくても、怜司はすべてをお見通しだったのか。

たりい、ウゼエが、正直なところだと教えてくれていたのか。たりい、ウゼエのうめき声をあげて、いつの間にか洲美にも馴染んでしまったのか。

おかしい。怜司に感化されてしまった自分が、おかしくて、筋肉がひきつるような忍び笑いが漏れる。

「着席、着席ー」

 先生が入ってきた。

と、ポロリと消しゴムが手の平から落ちた。

たたん、という音がして、怜司の足元に転がっていく。

拾おうとすると、怜司が拾い、戻してくれる。なんだか、面倒くさそうだ。

洲美の手のひらに、怜司の指が当たった。一瞬、前にもこういうことがあったことを思い出す。


教室移動の途中で、ノートを忘れてあわてて取り戻った時のことだ。洲美は教室に一人で残っている怜司と、二人きりになったことがある。

戸を開けたとたん、怜司がこちらを向いて、あれ、という表情をした。戸惑っているようだった。

忘れ物を取るには、怜司の近くへ行かねばならない。普段は意識しておらぬのに、とたんどきどきした。しんとした教室の空気は張りつめていて、歩くのも足がからまりそうになる。

怜司は特に何も気にする風でなく、背を向け、手を頭にやった。足は机の上に投げ出している。教室移動はせず、ここでさぼる気なのだろう。

かつて知ったる仲、とまではいかないが、いつも隣で見慣れている仲。別に大したことないと自分を落ち着かせ、発奮す。

「えと、ノート」

 自分が忘れ物したことを独り言にして、相手に分からせる。

「ノート、忘れた?」

 怜司が聞きつけ、こちらを見る。

「うん、そう、あ、あったあった」

 ノートを取り出し、急ごうとした洲美は、ハタと足を止め、怜司を振り向く。

「あの、行かないの?化学の教室」

 一人出ていっては、置いていくような気がするので、ついおせっかいを言ってしまう。余計なことと分かっていて、こんな自分、キライ。

「うん、化学マジ分からねえもん。今日はパス」

「あ、ああ、じゃあ、私行くね」

 返ってくるものは分かっていた。洲美はサボリなど出来ない体質で、いざ実在する人物を間近にすると近寄りがたい。

と、怜司が伏せた目を開き、静かで、冷やかな光を宿す目を向ける。視線は誰もいない教室で、確かに洲美を見ていて、いつもまともに顔も見なかったものが、ばっちり見てしまい、おまけに目と目が合うとはこういうものだったかというほど、二つの目同士が絡み合ってしまった。

怜司が見ているものは、遠くの星を見つめているような遠いものだった。冷やかで遠いものが息を詰まらせて、こめかみの血管が熱くなって、足の力が抜ける。胸の騒がしさは止まって、心臓も止まったかのようになる。怜司が確かで揺らぐことのない、圧倒的な存在感を持っているように見える。この世で唯一、強いもの。額縁があれば、捕らえて飾っておこう。

思わず口から変な声が出そうになって、口を押さえて教室を出る。怜司に気付かれなかっただろうか。

それ以来、まだ怜司の顔をまともに見てない。いや、最初からまともに見たことがないから、あれ一度きりだ。

ずっと、心のどこかで圧迫感を持っていたものの正体は・・・これ、だっただろう。

洲美は勇気を出して、思い切って顔をあげてみる。

どきり、とした。なんて顔が近いのだろう。

怜悧な輪郭、涼やかな光を宿す目が、刺すようにこっちを見ている。

確固たる自分がある自信に満ち溢れた顔、自分の意思がある何かの生き物。

生き物と生き物のにらみ合い。お互いの息遣いが聞こえてきそうな距離感。

 何を考えているのか見通せない。

けれど、洲美に決して悪い感情は抱いていないのは分かる。

張りつめた表情の中に、優しげな笑みが浮かんでいる。少しだけ見える怜司の中の洲美の居場所。

今の一瞬だけかもしれない。けれど、その居場所はなんて居心地が良いのだろう。

 洲美は消しゴムを受け取って、自分の机の上に戻す。やれやれ、隣の席に気になる人がいると、仕方ない。


読んでいただき、ありがとうございました。

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