8. 矢印の謎を解け
カチャン
塔子がスプーンを置いたのと同時に、俺もサンドイッチを食べ終えて、手を拭いてから再び絵美の手帳を最初から読み出した。
ここまでの展開を簡単に整理すると……『下駄箱 ↑』から辿ってきた矢印が途切れたのだ。
矢印を辿った先に、荒木絵美が居て、そこで矢印が途切れたのだがら、今朝の夢の中の少女の正体が絵美だったというのを答えにしてしまっても不自然ではない。
しかし、違うと思う。
これは俺の直感で、根拠なんてものも全く無いんだが、夢の中の女の子は絵美ではない。
確信だった。
「うーん……」
俺は唸り声を上げた。
「空乃助、何かわかった?」
塔子が訊いてくる。
何もわからないが、やはり 『1/9 11:15 → ハムと会う』 というメッセージが気になる。というより、怪しいのがその文字列以外に存在しない。しかし、何のことだか全くわからない。
と、その時、シゲオが塔子の袖を引っ張った。
「…………」
無言で何かを訴えている。
「どうしたの? 調子悪いの?」
シゲオはふるふると首を振る。その後キョロキョロと何かを探す素振りを見せた。
「わかった! トイレね!」
塔子は少し大きな声でそう言った。すると、
「お手洗いはこちらですよ、ご案内しましょうか?」
すぐに店員さんがやって来た。
「あ、えっと……」
「ボク、おトイレ行こっか」
店員さんはシゲオの手を掴んだ。シゲオはこくりと頷いて席を立つ。
「あ、すみません、お願いします」
シゲオと店員さんは何となく楽しそうに店の奥へと消えて行った。
「さてと……」
塔子はそう言って、目の前に置いてあった割り箸を取ってそれを割った。
そして、シゲオの食べかけのハンバーグを食べ始めた。
ハンバーグはまだ三分の一以上残っていた。
「うわ、何これ、すごい美味しい」
「おい、いいのか? 勝手に食べて……」
俺が訊くと、
「シゲオがね、もう無理だって言ってたの。目で訴えてたでしょ。空乃助のことがこわくて口には出せなかったみたい」
「そうなのか……」
「…………」
「…………」
無言。
俺はまたあの文字列とにらめっこを始め、塔子はハンバーグを丁寧に食していた。
♪ ♪ ♪
シゲオが店員さんに連れられてトイレから戻って来た。
その間に、白井塔子がハンバーグを食べ切っていて、
「あ、空いたお皿、お下げしますね」
店員さんが全てのお皿をひょいひょいひょいと持ち上げて、
「ごゆっくりどうぞぉ」
可愛い声でそう言うと、また店の奥に戻って行った、なんてことがあったりした。
とにかく、戻ってきたシゲオに俺は言う。
「おう、おかえり、シゲオ」
「…………」
相変わらず反応してくれない。
精神的にキツイなぁ、これ。
「ただいま、おねえちゃん」
「おかえり」
塔子や店員ちゃんには心を開いているのが不思議だ。
年上の男性がこわいというのは何となく理解できるが、無視なんてことをすると更にこわいことになるかもしれんぞ。
さて、そういったことはひとまず置いておいて、本題。
今は絵美が俺に渡した手帳にあった文字列について考えよう。まずは今までのメッセージの整理だ。
『下駄箱↑』
『1→A 白井』
『SOS↑』
『↑ 自転車を除く』
『1/9 11:15 → ハムと会う』
塔子のボールペンを借りて、広げたナプキンに並べて書いてみたが、今ひとつ統一感が無い。
共通するのは、全てに矢印が入っていることくらいだ。
「ねえ、空乃助。この『1→A 白井』って記号は何? 何であたしの名前が入ってるの? あたし『下駄箱↑』は聞いたし『SOS↑』は見たけど、その間にあるこれは……」
「ああ、それ、塔子の上履きだよ」
「え……そんな、矢印なんて書いた覚え無いんだけど……また落書きされたのか……何回消してもやられるのよね」
その時、また、シゲオが塔子の袖を引っ張った。
「どうしたの? シゲオ」
「他の矢印は『↑』向いてるのに、上履きのとハムのだけ『→』だね」
シゲオはそう言った。
「ああ、そうだな。でも、それに何の意味があるんだ?」
俺はさっぱりわからなかったが、塔子が何か閃いたようだった。はっとした表情をしていた。
「……空乃助! ちょっとボールペンかして」
「ああ」
俺は塔子にボールペンを渡す。塔子はテーブルの端に置いてあったナプキンを引き抜いて広げた。
そして1から26までの数字を順に縦に並べて書いて……
その真横に『A』から『Z』までのアルファベットを、これも順に書いて……
俺に見やすいように反転させた。
1はA、2はB、3はC……
というように、対応表が完成していた。
「いい? 空乃助。この暗号は超単純。小学生のシゲオにだって頑張れば解けるようなものよ。まず、矢印の方向が同じもので分けると二つのグループが出来るわよね。その『→』を向いているものだけを見て」
『1→A 白井』
『1/9 11:15 → ハムと会う』
見た。
「これが、どうかしたか?」
「数字とアルファベットだけが書かれてるところをよく見て」
『1→A』
『1/9 11:15』
これは……。
「数字をアルファベットに変換するという意味か?」
「そう! そうすると……」
「1がA、9がI、11がK、15がO……てことは……AIKO……藍子?」
「アイコって人に心当たりは?」
心当たりも何も……
「俺の幼馴染だ」
ということは……藍子が、夢の中の女の子だったっていうのか?
「これは……マジなのか……? 『ハムと会う』って方の意味は?」
「これは推測だけど、こんな単純な暗号を使う人だもん、複雑な意味は無いと思うの。だから、ハとムをくっつけて出来る漢字」
「つまり『公』か」
「すぐに思い付くのは――」
「公園だ!」「公園ね!」
俺と塔子は、戸惑うシゲオを尻目に、一つの答えに辿り着いた。
「そのアイコさんって幼馴染に会えそうな公園はあるの?」
「……一ヶ所だけ、ある」
というか、そこしかない。
電車で十数分、徒歩十分の場所にある、俺の地元の公園。
小さい頃、特に小学生の頃によく遊んだ場所。
どのくらいの頻度で遊んだかというと「いつものところで」と言えば必ず会えるくらいの場所だ。
住宅街の真ん中にある、とても小さな公園だった。
中学生になって、その場所がかつてゴミ捨て場だった場所にできた公園だと知ってから、なんだか汚い気がして全く近付かなくなってしまったから、今も存在するのかどうかすらわからない。
でも、藍子と俺に関わる公園は、その場所しかなかった。
「この『ハムと会う』はつまり、その公園で会いましょうってことよ」
塔子に言われるまでもなく、俺は確信していた。
「行こう、行かなきゃ」
「あたしも、付いて行って良い? 見届けたいの」
と塔子。
「ああ」
当然、断る理由は無いと思った。
「おねえちゃん、僕も良い?」
シゲオが塔子の袖を引っ張って言った。
「ああ、シゲオも来い」
「うん」
ようやく俺の言葉に返事してくれた。なんか感動した。
「よし、行くぞ」
目指すは、思い出の公園。
俺は立ち上がった。
「はい、これ伝票」
塔子が茶色いプラスチックプレートを俺に手渡した。値段を見る。
「……ぅえ?」
『6,135』
伝票には、可愛らしい字でそんな悪魔のような文字列が書かれていた。
「これは……目の錯覚かな……」
「あたしたちは先に出てるわね」
固まる俺を置き去りに、塔子とシゲオは立ち上がり、手を繋いで店の外へ出て行ってしまった。
その光景を、どこかフィクション世界にいるような感覚で眺めていたのだが……
「お客様ー、お会計はこちらでーす」
右手を挙げて俺を呼ぶ可愛い店員さんの声が俺を現実へと引き戻した。
「は、はいー」
きっと何かの間違いに違いない。千の位の数がちょっと誤作動を起こしたに違いない。俺は店員さんのいるカウンターまでゆっくりと歩き、伝票を渡した。
「えと、お会計は六千百三十五円になります」
店員さんは電卓の上に右手を置いていた。
どうやら冗談やジョークの類ではないらしい。
俺は財布を取り出し、ひとまず中身を確認する。
――足りなかった。
冷や汗が頬を伝う……。
「どうかしましたか?」
首をかしげる店員さん。
まずい、まずいぞ、どうすれば……。
このままでは……大恥……いや、もう恥とかそんな問題じゃなくて、無銭飲食という名の犯罪にランクアップしてしまう。
今まで皆勤賞だったのに初めてのサボりの果てに無銭飲食……。
しかも知り合ったばかりの小学生男子を連れている……。
やばいだろ、これ。
捕まるんじゃないか、これ。
冷や汗が、止まらない!
と、その時だった!
「大丈夫?」
黒い服を着たオッサンが、俺の肩を掴んでいた。
これは……これはまさか……!
奥の部屋に連行されて非道なことをされてしまうパターン!?
しかしオッサンは、意外な言葉を口にした。
「お金が足りないのなら、おれが払ってやろう」
耳を疑った。
「え? え? でも……」
「いいんだ……。どうせ、おれが持っていても、すぐに価値を失う金だ。それに、人助けをすれば、何か良いことがあるかもしれんしな」
黒い服のオッサンはそう言って天井に視線を向けた後、財布から一万円札を取り出した。
「じゃあ、一万円で」
黒い服を着た男はそう言って、店員さんに大金を手渡す。
「はい」
店員さんは一万円を受け取ると、
「一万円入りまーっす!」
店員さんは大きな声を出した。
店員さんは電卓を何度か叩き、三枚の千円札と何枚かの硬貨を手に持った。
「お釣りが、お先大きい方三千と……八百六十五円です。お確かめください」
「釣りは、その男の子に」
黒い服のオッサンはそう言って、颯爽と店の外に出て行った。
吹っ切れたような笑顔で。
なんという紳士……。
ちゃりん。
俺は釣り銭を受け取る。
本当に、本当に助かった。
ありがたい。
ありがたい!
本当にありがたい!
まだ世界には信じられないくらい優しい人がいっぱい居るんだと思った。
もしも金が足りないなんてことになったら、大変なことになりかねなかった。
ありがたい!
俺は、その名も知らぬ黒い服の男に、いつか絶対に恩を返そうと思った。
一万円分もの大金のお礼を……。
「……ごちそうさまでした」
俺はそう言って、店を出る。
「ありがとうございましたー」
外に出ると、塔子とシゲオは店の前に置かれていたベンチに座って待っていた。
時刻は午後三時。
「行きましょうか」
「ああ、急ごう」
俺たちは俺と藍子の思い出の公園に向かって歩き出す。建物から出て見上げた空は黒い雲。
今にも雨が降り出しそうだった。
いやな予感がした。
藍子に危機が迫っているのかもしれない。