全部返してもらっただけです。約束通りでしょう?
「婚約を破棄したい。俺は、真実の愛に誠実でありたいんだ」
目の前にいる婚約者のローベルトはそんなふうに言って笑った。
フィーネはそれを聞いて愕然とした気持ちになった。
フィーネが抱いていた感情は、突然のことに驚き、突き放されて悲しみに暮れる様なものではなかった。
強いて言うならばここで打ち切りかという無力感に近しいものだった。
「俺はこのコリンナと一緒なら、たとえどんな生活になったとしても寄り添って生活していきたい。お前もそうだろう、コリンナ」
「はい、ローベルト様」
ローベルトの隣には、稀に見るほど美しい絶世の美女が座っている。
ローベルトとぴったりとくっついて座っていてその肩に少し体重を預けている。
金糸のような煌めく金髪に、宝石のような碧眼の瞳、目が覚めるような美人なのにどこか薄幸そうで、儚く見える。そんな気の弱そうな愛らしい小動物のような女性だ。
そんなコリンナは、少しの合間もなく、ローベルトの言葉に同意した。
「どんな生活になってでも……ですか。決意はもう、揺るがないのですね」
「ああ、そうだ。お前がなんと言おうと俺は、揺るがない」
フィーネが問いかけると、ローベルトも少しも迷わずにフィーネの言葉に返す。
(これでも、必死になって向き合ってきたつもりでした)
フィーネは少しも俯くこともなく真顔でそう考えた。
表情が顔に出ないとよく言われて、真面目腐っていて、面白味がなくて、尽くすことができない、女らしくない女。
よくそんなふうに言われるので、今もその虚無感が顔に出ていないことは自覚していた。
しかしそれでも、おこがましい言葉かも知れないが彼のためになるように、好かれるように、最終的には大成して三人で幸せになれるように手を尽くした。
ローベルトを褒める詩を綴ったし、自慢できるような刺繍も送った。彼の両親への礼を尽くすことも忘れなかった。しかしそれもこれもすべてが無に帰した。
それがどうにも虚しくて黙ってしまった。
「……」
「こう口にしてもやっぱりお前は、表情一つ変えないんだな。コリンナとは大違いだ。コリンナはいつでも表情豊かで俺のことを癒やしてくれた、そうだよな?」
「はい。でも、なにも特別なことはしていません、自然と心からあふれる感情で接しているだけですわ」
「うん。比べて、お前は悲しげな顔一つできない。俺が触れられたくないことにもづけづけと入ってきて口出しして」
「……」
「母や父とも俺の知らない話題で盛り上がって勝手に掌握しようとして、アドバイスという名の侮辱で俺を辱めた」
フィーネにはローベルトの言うフィーネのやった酷いことについて、弁明するだけの材料と言い分もあった。
けれどもそれは当時にもきちんと話したことであり、ましてや彼の心が決まってしまった今に蒸し返しても意味がないことだろう。
「比べてコリンナは俺のことをきちんと察して口出ししないでくれる。俺が嫌だという相手とは口を利かないでいてくれるし、上から目線で物を言ったりしない」
「……そうだと、思います」
ローベルトの言葉にフィーネはなんとか同意した。
「俺は、そんなコリンナに一番の気持ちを向けてやっていると示したい。本当はオトマイヤー伯爵家跡取りの地位なんてどうでもいいんだ。俺はただ、真に自分を愛してくれている人と幸せな時を過ごしたいだけなんだ」
「ローベルト様」
「……」
コリンナは小さくローベルトの名前を呼び、笑みを浮かべている。
そもそも、コリンナがどういう立場の女性かというと、彼女は第二夫人。
つまり、愛人になることが決まっている子爵家の娘だ。
結局はローベルトとどちらも結婚するのだから、元来こんなことをする意味はないが、彼が跡取りの地位を望んでいなかったとなると話は変わってくる。
いくら中級貴族の伯爵家と言っても領主は仕事も多く自由が利かないことが多い、それにコリンナのようなあまり教育も受けていない子爵令嬢では伯爵夫人は務まらない。
だから彼女を一番に愛していると法的にも示すには、婚約は破棄するほかない。
その彼の理屈はよくわかった。
どうしてこうなってしまったのかフィーネにはわからないけれども強いて言うなら、フィーネの持ちうるいかなるものでも人の心は繋ぎ止めることができないから。
というのが今のところ考えられる可能性だった。
それを確認するために問いかけた。
「けれど、いいのですか。本当に、婚約に際して契約したローベルトへの支援はすべて返してもらうことになります。もちろん消費してしまったものについては是非は問いませんが」
「ああ……なんだ、俺に未練があるのか? 今更、それを言って俺が婚約破棄を取りやめると?」
「そうは、思いません。あなたは知っているはずですから。ただの確認です」
「そうかよ」
「まずは、十年後までの継続的な金銭の支援」
「ああ」
「それから、我が領地の一部の権利」
「ああ」
「ご両親の事業への口利き」
フィーネは思いついた順にひとつづつ、フィーネの生家であるゼクレス侯爵家がローベルトと婚約時に約束した品々を口にした。
なぜ、ゼクレス侯爵家がここまでのことをしたかというと、それはひとえに、フィーネの代に跡取りがいなくなってしまったからだった。
後を継げる男児がいない。
それはとても深刻な問題で、親類から引っ張ってこようと養子を探したり、両親たちも子供を作ろうと励んだのだが、実らなかった。
そしてすくすくと育つフィーネを見て、家を取り潰すからには後ろ盾がなくなり誰からも守ってもらえなくなるフィーネを心配した。
だからこそ、財産や多くのものをなげうってでも幸せな結婚を実現しようと躍起になった。
そうしてなされたのがローベルトとフィーネの婚約であり、すでに多くの支援がローベルトの元へと渡っている。
さらにいうと、オトマイヤー伯爵家は跡取りには困っていなかったものの経済的に困っていた。
なので、ローベルトは家族からの絶対的な信頼とツテを手に入れて、そのおかげでローベルトは次男でありながら跡取りの地位についた。
「最後に、貸し出している使用人や人材の返還」
「ああ! もういいだろう。話は終わりだ。俺はコリンナさえいれば十分なんだ」
再三の確認に彼はしびれを切らし、後日書類を送ると言ってコリンナを連れて応接室を後にする。
結局、お金も地位も、家族から称賛される名誉を人に与えたとしても、本当の意味で人を繋ぎ止めることはできない。
フィーネ自身もできる限りのものを渡してきたつもりだった、しかし結局楽な方へと流れるばかりで意味などなかった。
フィーネはいつもこんなことばかりだと思った。
(器用な人ならもっとうまくやれるのでしょうか)
形式的に慰謝料をもらい、フィーネとローベルトの婚約は破棄された。しかし両親はとても嬉しそうだった。
というのも、フィーネはもう婚約をした時とは違って、後ろ盾を失う身分ばかりが高い令嬢になる未来はなくなったからだ。
だから、ローベルトとの婚約のためにだした財産も戻ってきて、さらにはフィーネ自身の選択肢も広がる。
それを両親は純粋に喜んだ。
父も母もあれだけのことをしたうえでもやはり、ローベルトの元へといった使用人たちの報告を聞いて彼とフィーネの結婚生活を不安に思っていたらしかった。
だから、望むものになって望む人と幸せになっていいのだと言われた。
そう言われたが、フィーネは腑に落ちていなかった。
なんせ、なにをするにしても人というのは必要不可欠なものだからだ。
友人でも、仕事仲間でも、恋人でも人を長く繋ぎ止めるということは難しい。
なので、フィーネはきちんと約束通りに戻ってきた人材たちに最後の報告を受けた後に聞いてみた。
「最後に一つ、皆さんにお聞きしたいことがあります」
彼らは一様にフィーネのことを見つめて一番年かさの事務官が「なんなりと」と柔らかい表情で言った。
「……人を繋ぎ止め、つなぐものとは何だと思いますか? 別の場所へと赴いても戻ってきたあなた方に聞きたいのです」
背筋を正してフィーネの机の前にいる使用人たちを見た。
一番に答えたのは、やはり年かさの事務官ハインツェだった。
「わたくしが、一番大切にしているのは信頼です。何事も誠実に対応した積み重ねが人を寄せるのでは」
彼らしい意見に、フィーネは頷いて『信頼』と小さく紙に書いた。
次に、あちらに言っていた中でも位の高い侍女が答える。
「私は温かさ、ですね。どんなに良い待遇でもそれがなくてはやっていけない」
その言葉にうなづいて『温度』とフィーネはよくわからないまま書いた。
そうして、順繰りにそれぞれ自分の思いを口にしていく。
そしてフィーネの執務室にいる中で、一番美しくて、目を引くはかなげな美少女が控え目に答えた。
「お金、かしら」
「……お金ですか、コリンナ」
「ええ、だって、女なんて若く美しい時期はすぐに終わるわ。その後まで共にいてくれる人がいるかなんてわからない。だから安心できるだけのお金が必要じゃないかしら」
「……」
「わたくしは少なくともそれを基準にお仕事をしているわ。まぁ、もう心配もいらない程、あるけれど」
「……そうですね。そうだと思います。あなたはとてもよく頑張って下さいました」
飾らない誠実な答えにフィーネはとても深く頷いた。
そして彼女をねぎらった。
なぜ彼女がこの場にいるかと言えば、当たり前のことでゼクレス侯爵家が雇いあげた人材であるからだ。
親類の子爵家の女の子で、本当に父と母は昔なりふり構っていなかった。
地位も名誉もお金も、そしてなにより美しくいうことを聞いて愛する女性を用意した。それが第二夫人のコリンナだ。
コリンナがローベルトを癒やす役、フィーネが彼の横に立つ役とお互いに役を決めて彼を導こうと協力関係にあったのだ。
「あら、いいのですわ。フィーネ様。たんまりもらえればわたくしはそれで、なんの不満もありませんわ」
「あなたには嫌な役をやらせてしまいました」
「……違うわ。あの人が嫌な人だっただけではないの」
「……わかりません」
コリンナはローベルトのことをそんなふうに言い表す。
たしかに、フィーネもコリンナもできる限りのことをやった。コリンナが失敗していたとは思わない。
フィーネはどうだったかは、わからないがこうなったのは少なくとも彼女のせいではない。
密に連絡を取り合って、彼女が人材であり、大切に扱って欲しいとも説明を尽くした。
しかし、その性質上、コリンナはローベルトに強くものをいうことができない。
言ってしまえばコリンナは愛情を売っているようなものなのだ。愛情を否定する行動がとれないので、彼が否定を嫌うといった上で、断定的な物言いをされると同意するしかない。
きちんと、コリンナに侯爵家からお金を払っていることもローベルトは知っていた。
しかしそれでも彼は、本気でコリンナがローベルトに気があって愛する未来の為に二人の為に、婚約破棄を申し出たらしかったのだ。
「ローベルト様は、支えられてもお金を払っているからとお礼を言わない方でした。しかしお金など抜きに自分は愛されていると思い込んでいました」
「……」
「結局、都合のいいことしか見えず都合のいい未来だけを予測して、わたくしの言葉を封じて面倒な教育や仕事から逃げたかっただけですわ。フィーネ様に改善すべき点などありませんもの」
コリンナは少し仕方なさそうにゆったりと語った。
そう言われると少しは心が軽くなる気がしたが、それでも自分はもっとうまくできた気がして焦燥感に駆られる。
それは大体常に、起こる現象で仕方のないことだ。
「ありがとうございます。けれど、思い悩むのは性分なのです、あなたの言葉もきちんと心にとめて皆の言葉も心にとめて、前に進みたいんです」
「真面目過ぎますわ」
「すみません」
フィーネが謝ると、使用人たちは少し朗らかな雰囲気に包まれて、「たしかにお嬢様は真面目過ぎる」と声が上がる。
話も一区切りついたところで、そろそろこの話題は終わりにしてもいいだろうと考えていると「ち、ちなみに俺の意見を言っても!?」と少し裏返った声が入ってきて思考は中断される。
視線を向けると、声を上げたのは決意の決まったような顔をしているアイロスという同じ年ごろの魔法使いだった。
彼はゼクレス侯爵家お抱えの騎士団の中でも珍しい魔法使いで、たまに貸し出されていただけだったので、しょっちゅう侯爵領に戻ってきていた。
なのでアイロスには聞く気がなかったが言いたそうなので、「どうぞ」と短く言うと。
アイロスは拳を握って答えた。
「お嬢様が好きだから! フィーネお嬢さまが好きだから俺ここにいます!」
ととても直球なことを言ったのだった。
その言葉にフィーネはキョトンとして、それから仕方のないことを言う人だと思って、説明してやるようなつもりになって返す。
「私は跡取りではありませんから、すり寄っても意味がありません。ですが人をつなぐ魅力があるものという点では、異性への好意、つまり愛情はたしかに有効と言えますね。現にローベルトはコリンナとの愛にだけは執着がありますから」
教師のような気分で丁寧に返すが、アイロスはぽかんとしていてあまり、聞いていなさそうだった。
「しかし、私はそれを男性に与える手段を持っていません。コリンナのように尽くすことも、優しく共感することもできないので私はその手段を自分が使えるとは思っていません。でも、ありがとうございます。参考になりました」
「…………さ、参考になった」
「はい」
「俺の告白が参考になった……」
「……ダメでしたか」
「だめでは、ない、ですが……」
そうしてアイロスはぽかんとしたまま、最後の報告会は終わったのだった。
一ヶ月ほどたつと、ゼクレス侯爵邸にローベルトがやってきた。彼は何やら荒れた様子でコリンナを返せとわめきたてていた。
門前払いも可能だったが、コリンナに万が一のことがあってはいけないので、フィーネが対応することにした。
父や母は渋ったけれどフィーネが一番事情をよく理解しているし、ローベルトとの認識になにか齟齬がある可能性もあるので、正す必要もある。
アイロスや兵士を連れて彼のいる応接室を訪れた。
ローベルトは兵士ともみ合ったせいか髪が乱れていて、息を荒くして興奮している。
そして開口一番言った。
「フィーネ! コリンナを返せ、ここにいるのはわかってるんだ!」
ローベルトはまるで、フィーネがコリンナを捕らえているかのような口ぶりだった。
「まったく、姑息な真似しやがって! いくら婚約破棄が悔しかったからといってこんなことは許されない」
「許されないとは何故でしょうか」
「なぜだと!? 許されるわけがないだろ! いくら何でも雇い主でも、愛する恋人の元に戻らせずにコリンナの意思をないがしろにして! 身分が高かったらなんでもしていいと思ってるのか!」
唾を飛ばして拳を握り、ローベルトは怒鳴るようにフィーネに言った。
しかしフィーネは冷静に答える。
「そんなことは思っていません、一度落ち着いてください。ここで正気を失ってなんの成果も出せないことはあなたも本望ではないはずです」
「っ……」
「私は話し合いをする意思があります。約束もなしに訪問をしてきたのにここにいる、それが証拠です。話し合いましょう、ローベルト」
「…………っ、クソっ」
フィーネの冷静な声音に、感情的になってまくしたてるのは意味がないと察したらしい。
ローベルトは何とか堪えて、忌々し気にフィーネを見つめていた。
「……落ち着いていただけましたか」
「ああッ、落ち着いた、だから早くコリンナを返せ」
「……」
「あいつは私が何もなくてもそばにいたい、尽くしたいと言った女だ! 婚約破棄をして気持ちが変わることなんてあるわけがない!」
「……」
「私のことを心底愛しているんだ! 一生かけて尽くして幸せな家庭を作ると約束した! それを拒む権利は誰にもないはずだ!」
ローベルトはコリンナの言ったこと、コリンナが約束したことを引き合いに、彼女の気持ちを決めつけて信じ切っているらしい。
しかし、その言い分はとても傲慢なものであり、自分勝手なものだとフィーネは知っていた。
「返してくれ、俺の唯一の人なんだ、フィーネ!」
そして彼女を疑う素振りもなく、返してくれなどと口にする。
彼女が戻ってこないのはフィーネが捕らえているせいだとそれも決めつけて、自分の行いを顧みようとしない。
ローベルとは、先日会った時、そして以前から今までずっと変わっていないようだった。
そういうところも少しずつでも変えて、少しでも良い未来にしたい。そう思ってフィーネは手を尽くしていた。
コリンナだって手を尽くしていた。
それなのに彼はまったく変わらない。
ふとコリンナの言葉が脳裏にひらめいた。
彼が悪かっただけで、フィーネに悪いところなどなかった。その一番そばで見てきた彼女の言葉は正しい。
ローベルトは誰から見ても傲慢だった。フィーネから見てもおおむねそうだった。
それを改めようともせずに他人が悪いと責任を押し付けて、愛していると言っているコリンナのことすら尊重していない。
(……それはきっと、怒りをぶつけるに値する。……コリンナも……そして私も怒っていい)
ローベルトを見てそう思えた。
そうしてやっと、ローベルトに対する怒りがわいてきて、フィーネはことさら冷静な口調で彼に語り掛けた。
「唯一の人とは言いますが……ローベルト」
「……」
「替えの利かないたった一人の大切な人だと思っているのなら、どうしてあなたはコリンナを愛さなかったのですか」
フィーネは決めつけて責めるように問いかけた。
それはただのフィーネの主観ではなく、ただ事実から観測される誰が見ても一般的な感想だ。
「……なにを言っているんだ」
「あなた、コリンナのことを愛してはいなかったでしょう。そこまで言って、迎えに来るのに、愛してはいなかった、なぜできなかったんですか?」
「は?」
「言い方が悪いですか、ローベルト」
フィーネは融通の利かない教師みたいに一定の口調で話した。
「あなたの行動は愛しているとは言えないものばかりですが、どうしてそのようなことをしたうえで、彼女が返ってきたがっていると思えるのです」
「俺の、行動……だと?」
「はい」
「お前に、俺のなにがわかるって」
「わかりますよ。ローベルト」
逆上しようとする彼に、フィーネは深く頷いて返し、侍女を振り返った。
侍女は用意していた、報告書やコリンナがフィーネと協力するためにつけていた記録の綴りをだして手渡した。
「あなたが、なにをしたのか。どんなふうに彼女に愛してると、言わせて、どんなふうに約束をさせたのか、全部知っていますよ」
「…………それは?」
「コリンナのあなたに関する記録帳ですが」
「……なんで?」
「なぜって当然のことでしょう、コリンナは私たちに労働という稀有な価値を支払い、私たちは金銭を彼女に支払っている。どのような内容の労働をしたのか記録するのは当然のことです」
「ど、どうせ、初期の頃にかかれたものだろ」
「いいえ、初期から業務終了まできっちりすべてどんな出来事があって、なにを言われたか書いてあります。そしてそのうえで聞いているんです」
フィーネは本を開いて見せて、ゆっくりとページをめくった。
コリンナはマメな方で、事細かにローベルトとのことが書かれている。
どんなふうにローベルトを愛したか、ローベルトがどんなふうに接したか。
そして読むとだいたい気分を害する読みたくない記録だ。
「どうして、コリンナを愛してなんかいないのに、返せなどと言いに来たのですか」
ローベルトはそんなものがフィーネの元にあるとはまったくの想定外だったらしく、目を見開いて固まった。
「二人きりになるとコリンナの容姿を、男に媚びるために生れた顔、下品な魅力しかないとの罵ったり」
「……」
「かと思えば、自慢のために連れまわしたり、自分はお礼も気遣いもないのに夜じゅう優しい言葉を言い続けてほしいと要望したり」
「…………」
「美しすぎることに謝罪をさせたり、一生一緒にいると何度も書き取りさせたり」
フィーネはこれまで読んだ中で印象的だった出来事をことさらゆっくりと口に出していった。
ローベルトに思い出させるように、そしてその出来事は忘れ去られることはないと示すように。
「……そんなことばかりしていたのに、どうして愛しているなんて言うんですか。ローベルト」
まだまだ言いたいことはあったけれど呑み込んでフィーネは問いかける。
「あなたは一人の人間としてコリンナを扱ってはいなかった。ただの道具として自分を満足させるためにひたすら酷使しただけなのに」
「…………」
「なにが愛しているんですか、それを愛だなんていいませんよ。ただの便利な道具への執着です。意志のない道具として扱っておきながら、なぜ自分の元へ意志を持って戻ってくるはずだと?」
ローベルトはフィーネから目を離さずに、口を引き結んだまま小さく肩を上げて驚いたまま固まっていた。
それはなんだか時が止まっているみたいで、滑稽だった。
「愛していると言わせて約束させていただけじゃないですか、あなたがそういうふうに扱って、そうするようにさせていただけで、コリンナはあなたを愛してなどいません」
「……」
「あなたは人形遊びをしていたんですよ。手足を動かして『愛してるローベルト』と言わせていた。その人形が本当にローベルトを愛して誰の元へいっても自分の元へと戻ってきたいと望むと信じていたんですか?」
ローベルトは、ゆっくりと唇を震わせながら口を開いたが、まだフィーネの言葉は止まらなかった。
「コリンナを道具として扱ったのはあなたです。道具扱いされている人間が、使用者の元へとなんのみかえりも無しに戻りたいとは思わないはずです」
彼の吐く吐息が震えている。
「言ったはずです全部を返してもらうと。コリンナはもとよりゼクレス侯爵家の人材です。あなたは了承しました。コリンナも了承しました。なにか問題があるんですか」
「っ……っでも、俺は愛して……」
ローベルトは震える声でそう吐き出した。
しかし、フィーネはページをパラリとめくって、わざと言わなかった一番彼が触れられたくないだろうコリンナへの要求を口にした。
「ああ、道具扱いではなく、あれは愛だったというのですね。なるほど、その可能性もあります。それは子供が母親に向ける無償の愛情を要求するような愛ですね」
「…………」
「それを象徴するのが、この二年前ほどにコリンナへとあなたが要求した頭を撫でて赤ちゃん扱いしてほしいという言動から読み取れます」
ローベルトは大きく息を吸い込んでそれからカッと火がついたように顔を赤くした。
羞恥するだけの良識はあるらしい。
彼の呼吸は酷く浅かった。
「ですが、当然のようにコリンナはあなたの母ではありませんので、あなたのような大きな子供を養育したいとは望んでいません。一般的に考えても、あなたをコリンナが愛する道理はありません」
「っ、~、ご、くそ、このっ」
「それで、話は分かっていただけましたか? コリンナは役目をまっとうしただけですし、私は彼女の行動を阻んでいません。あなたがただ何処からどう見ても愛されている訳のない男というだけです」
「っふ、ふざっ、~、っ」
ローベルトは正気を失ったようだった。
そして意味をなさない言葉を発して頭を抱えて髪を描き乱し、「あああああああ」と壊れた機械人形みたいに叫んだ。
「もういいっ! もういいっ! もういい! もうわかったっ!!」
腿を拳で何度もたたきつけて、威嚇するように大きな声を出す。
「お前らみんなで!! 俺を弄んでいたってことなんだろッッ!!」
ローベルトはそう決めつけて、指の隙間からフィーネを睨みつけた。
「違います。あなたが自分勝手に振る舞った結果招いた事態です、あなたの勝手さについて話をしましょうか?」
問いかけると、ローベルトは「ふざけんなァ!!」と叫んで、目の前に置いてあったローテーブルの下に手を入れた。
そしてそのままちゃぶ台を返して滅茶苦茶にしようと試みた。
半回転したローテーブルはキレイに宙を舞ってフィーネの元へと向かってくる。
「……」
しかしフィーネはただ背筋をただしたまま、鬼のような形相のローベルトを見つめるだけで微動だにしなかった。
動く必要がそもそもなかった。
ドゴンと音がして、テーブルは跳ね返される。
魔法の光がきらりと飛び散ってアイロスの魔法だとわかる。彼は風の魔法を持っているのでこのぐらいのものはお手の物だ。
まるで透明な壁に当たったかのようにはねかえったテーブルは勢いを失って元の場所へと戻ったが、テーブルの上に乗っていた茶器や花瓶は散らかっていて、ローベルトはそれでもこちらを睨んでいた。
無言のまま背後からアイロスがやって来て、兵士たちもすぐにローベルトを拘束する。
「触るな!」と怒鳴りつけるローベルトだったがすぐに両腕を押さえられてうめき声を漏らす。
「最終的には逆切れして、滅茶苦茶にしてしまえばこれ以上、嫌な目に合わなくていいと思ったのですか?」
フィーネは先ほどとまったく変わらない調子で問いかけた。
「離せ! 離せっ!」
「そんなに甘くはないんですよ。ローベルト、何もかも楽しいことだけをして逃げ出せば何とかなる訳ではありません」
「クソクソクソッ」
「そしてそんなあなたを誰も愛しません。私もあなたを今や嫌悪しています。どこまでも醜悪で自分勝手なあなたと、縁が切れてよかった」
「ふざんけんなよ!!」
「婚約破棄は私の人生に対して、あなたが与えうる最大の利益です。ありがとうございました」
フィーネは最後まで変わらない調子で言葉を紡いでいたが、言っていてやっと心の中がスカッとした。
表情こそ変わらず、不器用ではあったが怒りをやっと伝えられて、すっかりローベルトのことなど忘れて前に進めるそんな気持ちだった。
婚約破棄になってよかった。
ローベルトは最後までどうしようもない人で、この人と関わり続けることこそ人生の無駄遣いだ。
そう思えたのだった。
ローベルトのことを捕らえて、オトマイヤー伯爵家にこの件を重く受け止めていると話をすると、あっさりと謝罪された。
そしてオトマイヤー伯爵家は王族に訴えてくれて構わないとローベルトを突き放した。
通常貴族は、家の名誉のためと、そして魔力的な資源のために、どうしようもないことをした親族でもかばう傾向がある。
そして何とか大事にしないために金銭を積んだり話し合いをする。
しかし、それすらする価値がない、もしくはしたくない、そう思われたローベルトは誰の助けもなしに罪に問われて牢獄に入った。
これからは国の資源として魔力を吸い取られて最低限生かされる生活を送ることになる。
コリンナを安心させるためにその事実を伝えると、彼女は「お疲れ様ですわ」とそこまでしたフィーネのことをねぎらった。
フィーネとしては接触禁止などの契約をするつもりでいたので、まさかここまで完璧な縁切りができるとは思っていなかったというのが本音だった。
しかし、ローベルトはうまいこと自滅してフィーネたちは平穏を手に入れた。
そうして休日、フィーネはいつもの通り、育児に関する本を復習してから、庭園へと向かった。
ガゼボには三人ほどの使用人がいて、その中に小さな弟の姿がある。
彼はクリストハルトと言ってまだ五歳ほどの小さな生命体であり、このゼクレス侯爵家の未来を担う大切な弟だ。
「!」
クリストハルトは遠くからフィーネに気が付いたが、すぐに専属の侍女のそばに隠れる。
それから顔を出して、フィーネがガゼボに到着すると小さな舌足らずの声で「おねぇさま」と呼びかけた。
「はい」
「おねぇさま……ちょうちょ」
そうして自分の首から下げている虫かごを姉にそっと見せた。
「……姉は蝶ではありません、お姉さま蝶を捕まえましたというのが正しいです」
「?」
「これはアゲハ蝶ですね、広く分布している一般的な……」
フィーネは優しい声音を意識してクリストハルトに言ったのだが、彼は首をかしげてまったくピンと来ていない、それにハッとして少し考えてから「かわいい、蝶ですね」と短く言った。
「うん。すごいでしょ」
「すごいですね」
「パタパタしてる」
「パタパタしていますね」
褒めるとクリストハルトはニコッと輝くような笑みを見せる。
その様子に、中身のない会話だがこれが大事だと思いながら穏やかな表情で彼との交流を楽しんだ。
中身のない会話をしながら、庭園を散歩しようと外に出ると、丁度アイロスがやってきた。
庭園になにか用事だったのかと思ったが、クリストハルトはアイロスを見つけると「アイロス!」と大きな声をあげて走っていった。
侍女たちが「危ないですわ」「クリストハルト様」と声をかけるのも気にせずに駆けて行って言って、アイロスの足元に勢いよくしがみついた。
アイロスも、抱きしめられて身をかがめぎゅっとクリストハルトを抱きしめた。
「元気してました?」
「元気、元気! アレやって、アレ!!」
「いいよ~! そりゃあ!」
そうしてアイロスはクリストハルトを抱き上げて天高く掲げてぐるぐると回った。
侍女たちは、もう困ったわと、朗らかに笑っていた。
「アイロス」
フィーネもそばによるとアイロスは、クリストハルトを抱いたまま、フィーネに視線を向ける。
それから「最近、たまに魔法教えてるんで」と短くクリストハルトと仲がいい理由を説明した。
それに納得しそうになったが、アイロスは大して暇というわけでもないはずだと思い至り問いかけた。
「なぜ? 父があなたに打診をしたのですか」
「いいや、俺からです」
「ねぇ、もう一回! もう一回!」
「いいぞ~、そりゃ~」
アイロスはぐるぐると回って、クリストハルトはきゃきゃきゃと笑っている。
「……腑に落ちないって顔っすね」
「それはもちろん、魔法のレッスンは家庭教師を雇うと思っていたから」
「別に、俺も教えられるじゃないですか、俺、子供も好きだし」
「……」
「……それに、フィーネ様がクリストハルト様と仲良くしたがってるの知ってましたし、俺なら少しはサポートもできるかなって思っただけです」
アイロスはフィーネが疑っていると、観念して本当のことを話した。
たしかにフィーネはアイロスにクリストハルトと距離を縮めたいと話をしたことがあった。
しかしまさか、そんなことにまでアイロスが手を貸してくれるとは思っていなかったし想像もしていなかった。
だからどんなお礼を言ったらいいのかわからないし、アイロスになんといったらいいのかもわからない。
クリストハルトは、突然二人が見つめ合って、困った様子だったので、二人を交互に見ていた。
「どうして、って言われそうなんで言いますけど。……あの、俺、前に言った通り、あなたが好きってだけで、それ以上でも以下でもないんで」
「……でも私は、あなたにコリンナのように尽くせませんし、愛嬌もありません」
「そうじゃなくて」
否定されて更によくわからず、フィーネが首をかしげるとクリストハルトも首をかしげてまねっこしてくすくす笑った。
「なにかしてほしいから好きって言ったんじゃないだって。俺は、ただあなたがそうやって頑張ってるところが応援したくなるから好きなだけです。それで応援したいから行動に移す。だから無理して人を繋ぎ止める方法とか考えなくてもいいと思う」
「……」
「あなたは頑張ってるし、そうしてたら自然とそれがいいと思う人間があなたのそばに残るんじゃないですか、現にそう言う人間がいる……って伝えたつもりだったんです。あの告白」
「……わ、わからなかったです」
「だと思います。だから行動で、俺は不器用でもクリストハルト様と向き合おうとしたり、頑張るあなたが好きなんで」
そう言われて、なにかとても大切なものを肯定された気がした。
その正体が何かわからなかったが、嬉しくて、やっぱり黙ってしまった。
するとつられてクリストハルトも、「僕も……おねぇさま、ちょっと好き」と言ってくすくす笑ったのだった。
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