第9話 辺境伯の不器用なプロポーズ
王都からの嵐のような視察団が去り、オルデン砦には再び穏やかな夜が訪れていた。
「……ふぅ」
私は厨房の窓を開け、夜空を見上げた。
数日前までの猛吹雪が嘘のように、空には満天の星が瞬いている。
冷たく澄んだ空気が頬を撫で、火照った身体を心地よく冷ましてくれた。
今日の『大人様ランチ』対決は、私たちの完全勝利で幕を閉じた。
兵士たちは今夜も食堂で宴会を続けているけれど、私は少し静かな時間が欲しくて、一人で片付けをしていたのだ。
カチャ、カチャ。
洗い終わった皿を棚に戻す音だけが響く。
心臓の鼓動が、まだ少し早い。
それは勝利の興奮のせいだけではなかった。
昼間、ジークフリート様が言った言葉。
『誰が来ようと、お前は俺のものだ』
あの時の彼の熱い瞳と、抱きしめられた腕の強さが、肌に焼き付いて離れない。
あれは、領主として領民を守るための言葉?
それとも……。
「……ここにいたか」
不意に背後から声をかけられ、私はビクリと肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこにジークフリート様が立っていた。
いつもの威圧的な漆黒の甲冑姿ではない。
ゆったりとした濃紺のシャツに、スラックス姿。
鎧を脱いだ彼は、なんだか少し若く見えて、そして無防備で……ドキッとしてしまう。
「ジ、ジークフリート様。宴会には参加されないのですか?」
「ああ。部下たちが『閣下がいると酒が不味くなる(緊張する)』と言うのでな。追い出された」
彼は肩をすくめて苦笑する。
嘘だ。
きっと、部下たちが気兼ねなく楽しめるように、自ら席を外したのだ。
そういう気遣いのできる人だということは、もう知っている。
「それに……お前がいなかったからな」
彼は視線を泳がせ、ポリポリと頬をかいた。
「少し、いいか? 風に当たりたいんだが、一人だと手持ち無沙汰でな」
「はい、喜んで」
私はエプロンを外し、彼についてバルコニーへと向かった。
◇
バルコニーに出ると、眼下には白銀の雪原が広がっていた。
月明かりに照らされて、青白く幻想的に輝いている。
「綺麗……」
「そうか? 俺には、ただの寒くて何もない荒野にしか見えんが」
ジークフリート様は手すりに肘をつき、自嘲気味に笑った。
「俺はずっと、この景色を呪っていた。作物は育たず、魔物は湧き出し、常に死と隣り合わせの極寒の地。……ここは、王都から見捨てられた墓場だと思っていた」
彼の横顔に、深い陰りが見える。
幼い頃から辺境伯という重責を背負い、戦い続けてきた彼の孤独。
私には計り知れない重みだ。
「でも、今は違う」
彼は私の方を向いた。
「お前が来てから、この景色が変わった。厨房から漂ってくる甘い匂い、兵たちの笑い声、そして……温かい食事。それがあるだけで、この寒ささえも悪くないと思えるようになった」
「ジークフリート様……」
「寒いからこそ、スープの温かさが染みる。痩せた土地だからこそ、実った糧のありがたみがわかる。お前は俺に、当たり前の『幸せ』を教えてくれた」
彼の真摯な言葉に、胸が熱くなる。
何か、私も彼に返したい。
言葉ではなく、私らしい方法で。
「……少し、待っていていただけますか?」
「え?」
「すぐに戻ります。この景色にぴったりの飲み物をご用意しますから」
私は一度厨房へ駆け戻った。
◇
用意したのは、南の国から輸入された貴重な『ナイト・カカオ』の豆だ。
苦味が強く、そのままでは食べられないが、手を加えれば魔法のような飲み物になる。
小鍋に『バイコーン』の濃厚なミルクを入れ、火にかける。
そこに砕いたカカオと、スキルで作った『砂糖』をたっぷりと溶かし込む。
そして、隠し味。
スキル【調味料作成】で、二つのスパイスを生み出す。
甘くエキゾチックな香りの『シナモン』。
そして、身体を芯から温める『カルダモン』。
これらを鍋に投入し、ゆっくりとかき混ぜる。
ふわりと立ち昇る、甘くてスパイシーな香り。
チョコレートの濃厚な甘い匂いは、人を幸せな気分にさせる力がある。
「よし」
私は二つのマグカップに注ぎ、最後にマシュマロのような食感の『スライムゼリー(食用)』を浮かべた。
熱で少しずつ溶けていくのがポイントだ。
◇
バルコニーに戻ると、ジークフリート様は変わらぬ姿勢で月を見ていた。
「お待たせしました。『特製ホット・スパイス・チョコレート』です」
湯気を立てるマグカップを手渡す。
彼は両手でカップを包み込むように持ち、香りを吸い込んだ。
「……甘い匂いだ。だが、どこか薬草のような香りもするな」
「スパイスが入っていますから。冷えた身体には一番ですよ」
彼が一口、口をつける。
濃厚なカカオのコクと、ミルクのまろやかさ。
そして喉を通る時に感じる、スパイスのピリッとした刺激と熱。
「……美味い」
彼はほうっと白い息を吐いた。
「甘いのに、くどくない。身体の奥がポカポカしてくる」
「ふふ、でしょう?」
並んで手すりに寄りかかり、二人でホットチョコレートを飲む。
甘い香りに包まれた沈黙。
それは、言葉がなくても通じ合えるような、心地よい時間だった。
飲み終えた頃、ジークフリート様が空になったカップを置き、居住まいを正した。
「エレナ」
「はい」
彼の雰囲気が変わった。
戦場に立つ時のような、張り詰めた空気。
けれど、その瞳は優しく揺れている。
「単刀直入に言う。俺は、言葉を飾るのが苦手だ」
彼は一歩、私に近づいた。
「最初は、ただの胃袋の話だった。お前の作る飯が美味かった。それだけだ」
「……はい」
「だが、今は違う。お前が厨房で鼻歌を歌っている姿を見ると、胸が安らぐ。お前が『おかえりなさい』と言ってくれると、どんなに疲れていても力が湧いてくる」
彼の手が伸びてきて、私の頬をそっと包んだ。
大きくて、温かくて、少しざらついた剣士の手。
「飯が美味いからじゃない。……お前だからだ」
ドクン。
心臓が大きく跳ねた。
「お前がいない未来など、もう考えられん。俺の人生という皿には、お前というメインディッシュが必要なんだ」
「……ぷっ」
あまりにも彼らしい、そして少しズレた料理の例えに、私は思わず吹き出してしまった。
緊張していた空気が緩む。
「わ、笑うな! 俺なりに必死に考えた口説き文句なんだぞ!」
「ふふ、ごめんなさい。……でも、とっても嬉しいです」
ジークフリート様は赤くなって咳払いをすると、懐から小さな箱を取り出した。
パカッ、と蓋が開かれる。
中に入っていたのは、指輪だった。
宝石店で売っているようなダイヤモンドではない。
それは、深い紅色の魔石『ファイア・ルビー』。
まるで、キツネ色に燃える焚き火のような、あるいは美味しく焼けたお肉の断面のような(失礼)、温かい色。
「この石には、『熱を守る』加護がある。これを着けていれば、どんなに寒い冬でも、お前が凍えることはない」
彼は指輪を摘み上げ、私の左手を取った。
そして、その場に片膝をつく。
騎士の最上級の礼。
「エレナ・フォレスティ嬢。……俺と、結婚してくれ」
真っ直ぐな瞳。
そこには、私への全幅の信頼と、深い愛情が宿っていた。
王都の王子のように、家柄や能力だけを見ているんじゃない。
「私」という人間を、丸ごと受け入れてくれている目。
視界が滲んだ。
王都を追放されたあの日、絶望の中で馬車に揺られていた私。
まさかこんな最果ての地で、こんなに温かい幸せを見つけるなんて。
私は涙を拭い、笑顔で頷いた。
「……はい。謹んで、お受けいたします」
彼は安堵したように息を吐き、震える手で私の薬指に指輪を嵌めた。
サイズはぴったりだ。
指輪から、じんわりとした温もりが伝わってくる。
彼が立ち上がり、私を強く抱きしめた。
ホットチョコレートの甘い香りと、彼の匂いが混ざり合う。
「幸せにする。……もう二度と、空腹になどさせん」
「ふふ、それは私の台詞ですよ、旦那様」
私は彼の胸に顔を埋め、悪戯っぽく言った。
「覚悟してくださいね。これからは朝も昼も夜も、貴方の胃袋が悲鳴を上げるくらい、美味しいもので満たしてあげますから」
「……それは、望むところだ」
彼は私の顎をくい、と持ち上げた。
月明かりの下、二つの影が重なる。
唇に触れた感触は、先ほどのチョコレートよりもずっと甘く、そしてとろけるほど熱かった。
◇
「――で? そのまま朝までバルコニーにいたんですか?」
翌朝。
厨房に入った私を待ち受けていたのは、ニヤニヤと笑う料理長たちだった。
「な、何を言ってるの! さあ、朝食の準備よ!」
私が顔を真っ赤にして誤魔化そうとすると、左手の薬指に嵌められた赤い指輪がキラリと光った。
「おっ! その指輪!」
「ついにあの大将も男を見せたか!」
「お祝いだ! 今日は赤飯……じゃなくて、なんだっけ、あの『ケチャップライス』でお祝いだ!」
厨房中が歓声に包まれる。
私は恥ずかしさで爆発しそうになりながらも、包丁を握った。
幸せだ。
愛する旦那様がいて、気のおけない仲間がいて、そして目の前には新鮮な食材がある。
これ以上の幸せなんて、どこにもない。
「よし! 今日の朝食は、お祝いスペシャルよ! みんな、張り切って!」
「「「おう!!」」」
私の新しい人生は、まだ始まったばかり。
辺境伯夫人として、そして最強の料理人として。
これからもオルデン砦の食卓を、そして愛する人の胃袋を、美味しく守り抜いてみせる。
物語は、美味しい匂いと共に、ハッピーエンドへと向かっていく――。




