第7話 王都からの不穏な手紙
平和な日々というのは、どうしてこうも唐突に崩れ去るのだろう。
『スノーウルフ』の討伐から数日が過ぎ、オルデン砦はかつてない活気に満ちていた。
兵士たちの顔色は良く、肌艶もいい。
廊下ですれ違うたびに、「エレナ様、今日の昼飯はなんだい?」「またあの唐揚げが食いたいな!」と明るい声がかかる。
ここに来た当初の、あのどんよりとした死の気配が嘘のようだ。
私も完全にこの生活に馴染んでいた。
早起きして厨房へ行き、パン生地をこね、スープの味見をする。
時折、視察に来た(という名目のつまみ食いに来た)ジークフリート様と目が合い、お互いに少し照れながら挨拶を交わす。
そんなささやかで、けれど何よりも愛おしい日常。
それがずっと続くと、信じて疑わなかったのに。
◇
「……王都からの使者、ですか?」
その知らせが届いたのは、私が昼食のデザート用の『ミルクリッチ・プリン』を冷やし固めている最中だった。
血相を変えた兵士が、厨房に飛び込んできたのだ。
「ああ。王家の紋章が入った馬車が到着した。至急、閣下の執務室へ来てほしいとのことだ」
王家の紋章。
その言葉を聞いた瞬間、心臓が冷たい手で鷲掴みにされたように縮み上がった。
指先から血の気が引いていく。
王都。
私を捨てた場所。
私を「無能」と嘲笑った人たちがいる場所。
「……わかりました。すぐに行きます」
私は震える手をエプロンで拭い、深呼吸をしてから厨房を出た。
大丈夫。
私はもう、あの頃の泣き虫な令嬢じゃない。
ここで自分の居場所を見つけたんだもの。
◇
執務室の重厚な扉をノックする。
「入れ」というジークフリート様の声は、いつになく硬く、怒りを孕んでいるように聞こえた。
部屋に入ると、そこにはすでに使者の姿はなかった。
代わりに、ジークフリート様が窓際に立ち、一枚の羊皮紙を睨みつけていた。
その背中は殺気立っていて、部屋の空気がピリピリと痛い。
「エレナか」
「はい……。あの、王都からの使者というのは……」
彼がゆっくりと振り返る。
その手には、くしゃくしゃに握りしめられた手紙があった。
「元婚約者殿からだ」
カイル第二王子。
名前を聞くだけで、あの屈辱的な夜の記憶がフラッシュバックする。
『役立たず』『料理人の真似事』『出て行け』。
耳の奥で、嘲笑の声が響く。
「……なんと、書いてあったのですか?」
「くだらん戯言だ」
ジークフリート様は吐き捨てるように言った。
「『辺境で野垂れ死んでいないか、確認してやる』だとさ。それに……」
彼は言い淀み、悔しそうに歯噛みした。
「『最近、辺境で奇妙な食事が流行っていると聞いた。もしや貴様の仕業か? 調味料作成などというゴミスキルでも、多少は金になるかもしれん。その場合は王家が管理してやるから、大人しく待っていろ』……だと」
「え……」
目の前が真っ暗になった。
管理する?
あんなに私を「無能」と罵って捨てたくせに?
今さら、私のスキルが役に立つとわかったら、手のひらを返して利用しようというの?
「さらに、新しい婚約者の『聖女』アリスも同行するそうだ。『汚らしい辺境を、聖なる光で浄化してあげる』という名目でな。……要するに、お前が惨めに暮らしているのを見て、優越感に浸りたいだけだろう」
吐き気がした。
彼らの身勝手な論理に、怒りよりも先に恐怖が湧き上がってくる。
もし連れ戻されたら?
またあの地下牢のような部屋に閉じ込められて、死ぬまで調味料を作らされるだけの道具にされたら?
「……ごめんなさい」
私の口から、弱々しい言葉が漏れた。
「私のせいです。私がここで目立ったことをしたから……噂になって、ご迷惑を……」
ここを出て行かなくちゃいけないのかもしれない。
私がここにいたら、オルデン砦のみんなまで巻き込んでしまう。
ジークフリート様にまで、王家に盾突くという汚名を着せてしまう。
「出て、行きます。これ以上、閣下にご迷惑は――」
バンッ!!
激しい音がして、私はびくりと肩を震わせた。
ジークフリート様が、机を拳で叩いた音だった。
「ふざけるな」
低い、地を這うような声。
彼は大股で私に歩み寄り、私の両肩をガシリと掴んだ。
「迷惑? 誰がそんなことを言った。俺か? 兵士たちか?」
「で、でも……相手は王族です。私を庇ったら、閣下の立場まで……」
「知ったことか!」
彼の怒声が部屋に響く。
けれど、その金色の瞳は、私を責めているのではなかった。
燃えるような、強烈な熱を帯びていた。
「王家がなんだ。王子がなんだ。彼らは、お前の本当の価値を何一つ見ようとしなかった節穴共だ」
掴まれた肩に、痛いほどの力がこもる。
「だが、俺は違う。俺は知っている。お前がどれほど努力して、どれほど美味いものを作って……どれほど、俺たちの心を救ってくれたか」
「ジークフリート、様……」
「お前のマヨネーズが、黒パンを御馳走に変えた。お前の生姜焼きが、兵士たちに笑顔を取り戻した。お前の夜食が、俺の孤独を癒やしたんだ!」
彼は一気にまくし立てると、ハッとして少し顔を背け、声を潜めた。
「……お前がいなくなったら、俺はもう、飯を美味いと感じられなくなる。……そんなのは、御免だ」
その不器用な告白に、私の目から涙が溢れ出した。
「役立たず」と捨てられた私を、こんなにも必要としてくれる人がいる。
「無能」ではなく、「私」を見てくれる人がいる。
「渡さん」
彼は私を強く抱き寄せた。
硬い胸板に顔が埋まる。
彼の心臓の音が、ドクンドクンと早く打っているのが聞こえた。
「誰が来ようと、お前は俺のものだ。……いや、このオルデン砦の誇りだ。指一本、触れさせはしない」
「……っ、はい……!」
私は彼の軍服の裾を握りしめ、声を上げて泣いた。
恐怖の涙じゃない。
嬉しくて、安心した涙だ。
彼は大きな手で、私の頭を不器用に撫でてくれた。
その掌の温かさが、凍りついていた私の心を溶かしていく。
ひとしきり泣いた後、私は顔を上げた。
もう、迷いはない。
「ジークフリート様。……私、戦います」
「ああ」
「彼らが来るというなら、受けて立ちましょう。そして思い知らせてやるんです。彼らが捨てたものが、どれほどの価値を持っていたのかを」
「その意気だ」
ジークフリート様はニヤリと笑った。
それは『北の魔王』の顔ではなく、悪戯を企む少年のようだった。
「ちょうどいい。視察団が到着するのは三日後だ。彼らの度肝を抜くような『歓迎』をしてやろうじゃないか」
「はい! とびっきりの料理で、彼らのプライドをへし折って差し上げます!」
◇
決意を固めた私たちは、作戦会議(という名のティータイム)に移った。
私は厨房から、冷やしておいた『ミルクリッチ・プリン』を持ってきた。
「これは……またプルプルとした物体だな」
「プリンです。『バイコーン』の濃厚なミルクと、コカトリスの卵をたっぷり使いました」
小皿の上で揺れる黄金色の山。
その頂上には、焦がし砂糖の黒いソース『カラメル』がかかっている。
「頭を使って疲れた時は、甘いものが一番です」
「……いただく」
ジークフリート様はスプーンですくい、口に運ぶ。
つるんとした食感。
濃厚なカスタードの甘さと、ほろ苦いカラメルが口の中で混ざり合う。
「……んッ」
彼の目がとろんと細められた。
眉間のシワが完全に消え去る。
「甘い……だが、しつこくない。この黒いソースの苦味が、絶妙な大人味にしているな」
「ええ。甘いだけじゃない、苦味を知っているからこそ、より美味しく感じるんです。……人生と同じですね」
私がそう言うと、彼はクスリと笑った。
「違いない。……お前と出会う前の苦い日々があったからこそ、今、このプリンが死ぬほど美味く感じるのかもしれん」
彼はあっという間にプリンを平らげると、真剣な眼差しで私を見た。
「エレナ。視察団に出すメニューだが……何か案はあるか?」
「はい。彼らはきっと、辺境の食事を馬鹿にしに来るはずです。『貧乏くさい』『野蛮だ』と」
「ああ、目に浮かぶようだ」
「ですから、あえて『見たこともないような豪華な料理』を出しましょう。王都の料理人が逆立ちしても作れないような、未知の御馳走を」
私の頭の中には、すでにレシピが浮かんでいた。
子供から大人まで、誰もが夢中になるあのプレート。
色とりどりの夢が詰まった、最強の洋食セット。
「『大人様ランチ』作戦です!」
「オトナサマランチ……?」
「ハンバーグ、エビフライ、オムライス……私の全力を詰め込んだ一皿です。聖女様の『聖なる光』なんて霞んでしまうくらいの、飯テロの光で焼き尽くしてあげますわ!」
私が拳を握りしめると、ジークフリート様も力強く頷いた。
「よし。必要な食材があれば言え。ドラゴンだろうがクラーケンだろうが、俺が狩ってくる」
「ふふ、そこまでは大丈夫です。でも、最高級の食材をお願いしますね」
窓の外を見ると、吹雪は止んでいた。
雲の切れ間から、太陽の光が差し込んでいる。
待っていなさい、カイル王子、アリス。
貴方たちが捨てた「役立たず」が、辺境でどんな進化を遂げたか。
その舌と胃袋に、たっぷりと教えてあげるから。
いよいよ、決戦の時が迫っていた。




