第6話 魔物討伐と勝利の宴
ウゥゥゥゥゥ――ッ!!
空気を震わせる不吉な音が、早朝のオルデン砦に響き渡った。
敵襲を知らせるサイレンだ。
私は飛び起きて、窓の外を見た。
吹雪の向こう、白い雪原が黒く染まり始めている。
魔物の群れだ。
この季節になると、餌を求めて山から下りてくる『スノーウルフ』の大群。
「エレナ!」
部屋の扉が乱暴に開かれた。
完全武装したジークフリート様だ。
漆黒の甲冑に身を包み、腰には長剣、背中にはあの大剣を背負っている。
その姿は、まさに『北の魔王』の名にふさわしい迫力だったけれど、兜の下の瞳だけは、私を気遣うように揺れていた。
「魔物の群れが出た。数は多いが、いつものことだ。心配はいらん」
「ジークフリート様……」
「お前は部屋から出るな。ここは安全だが、万が一ということもある」
彼は私の肩を強く掴み、言い聞かせるように言った。
「必ず戻る。……昨日の夜食の礼も、まだ十分にしていなかったからな」
不器用に口角を上げて笑うと、彼はマントを翻して部屋を出て行った。
遠ざかる鉄靴の音。
その背中を見送った私は、震える手をギュッと握りしめた。
部屋でじっとしている?
そんなこと、できるわけがない。
彼らは命懸けで戦っている。
私を守るために、この国を守るために。
「私にも、できることがあるはずよ」
私はエプロンの紐をきつく結び直した。
剣は振れない。魔法も撃てない。
でも、戦い疲れて帰ってくる彼らを、最高の状態で迎えることはできる。
彼らの冷えた身体と心を、熱々の料理で満たすこと。
それが、私の戦いだ。
「待ってて、ジークフリート様。貴方が帰ってくる頃には、最高の『勝利の宴』を準備しておくから!」
◇
厨房に駆け込むと、そこはすでに戦場だった。
けれど、以前のような悲壮感はない。
料理人たちは私の姿を見ると、一斉に敬礼した。
「エレナ様! 俺たちは何をすればいいですか!」
「武器(包丁)を取って! 今日は『勝利の宴』よ! 全員を腹一杯にするわ!」
私が指示を飛ばすと、野太い歓声が上がった。
今回のメイン食材は、倉庫に山ほどある『ロックバード』だ。
岩山に生息する巨大な鳥の魔物で、肉質は弾力があり、脂も乗っている。
普段はただ焼くだけでパサパサになりがちだが、私の手にかかれば極上の御馳走に変わる。
「肉を一口大にカット! 皮はつけたままね!」
私はその間に、巨大なボウルで『漬けダレ』を作る。
スキル【調味料作成】をフル稼働だ。
ドボドボと注ぐのは、濃口の『醤油』と『料理酒』。
そして、ここからが重要だ。
私は『ガーリック』と『ジンジャー』を、これでもかというほど大量にすりおろして投入した。
ツンと鼻を刺激する強烈な香気。
これだ。
戦う男たちに必要なのは、繊細な味じゃない。
脳髄にガツンと響く、パンチの効いた味だ!
「肉をタレに揉み込んで! 30分置いたら、白い粉(片栗粉)をまぶして揚げるわよ!」
この世界にも「揚げる」という調理法はあるが、油が貴重なため、あまり一般的ではない。
だが、今日は特別だ。
備蓄してあるラードを大鍋に溶かし、高温に熱する。
準備は整った。
漬け込んだ肉に粉をまぶし、油の海へと投入する。
ジュワァァァァァッ!!
パチパチパチッ!
激しい音と共に、白い泡が肉を包み込む。
瞬く間に広がる、香ばしい匂い。
醤油が焦げる匂い、ニンニクの食欲をそそる香り、そして鶏の脂が溶け出す甘い匂い。
「こ、これは……凶器だ」
「匂いだけで飯が食える……」
料理人たちがゴクリと喉を鳴らす。
揚がった肉を網に上げると、衣は黄金色(キツネ色)に輝き、表面はカリカリ、中はパンパンに膨らんでいる。
「つまみ食い厳禁よ! さあ、どんどん揚げて!」
ジュワッ、ジュワッ、ジュワッ!
厨房から響く揚げる音は、まるで勝利を祈願するドラムの連打のように、砦中に響き渡っていった。
◇
一方、戦場。
「総員、構えろ! スノーウルフの群れが来るぞ!」
ジークフリートは愛刀を抜き放ち、最前線に立っていた。
視界を埋め尽くす白い魔獣たち。
兵士たちの顔に緊張が走る。
寒さと恐怖で、士気が下がりかけていた、その時だった。
フワッ……。
風向きが変わった。
砦の方角から、強烈に食欲をそそる匂いが流れてきたのだ。
「……ん?」
「なんだこの匂いは」
「醤油……? いや、この暴力的なまでのニンニクの香りは……」
兵士たちの鼻がヒクヒクと動く。
昨今の「エレナ改革」により、すっかりグルメ舌になっていた彼らは、即座に理解した。
厨房で、女神が何かとんでもないものを作っていると。
「おい、聞こえるか……あの音」
「パチパチ言ってる……揚げ物か!?」
「肉だ! 確実に肉だ!」
グゥゥゥゥゥ!
数百人の腹の音が、スノーウルフの咆哮をかき消した。
ジークフリートは、背後の兵士たちの雰囲気がガラリと変わったのを感じた。
恐怖が消え、代わりにギラギラとした原始的な欲望が宿っている。
「……ふっ」
彼は口元を歪めた。
あの姫様は、戦場の遥か後方から、俺たちを指揮しているらしい。
「聞いたか、野郎共! 今日の昼飯は、エレナ嬢の特製肉料理だ!」
ジークフリートが大剣を振り上げた。
「冷めた飯を食いたくなければ、さっさと片付けるぞ!!」
「「「うおおおおおおおおっ!! 飯だぁぁぁぁっ!!」」」
兵士たちがバーサーカーと化した。
もはや狩られるのは魔物の方だった。
彼らは「唐揚げ」という見えざる餌に釣られ、鬼神の如き強さで敵を蹴散らしていった。
◇
「凱旋だー!!」
予定よりも大幅に早く、部隊が帰還した。
怪我人は奇跡的にゼロ。
彼らは兜を脱ぎ捨てるのももどかしく、食堂へと雪崩れ込んできた。
そこに待ち受けていたのは、山のように積まれた黄金色の肉塊。
『ロックバードの特製唐揚げ』だ。
「並んで並んで! 一人五個までよ!」
私が声を張り上げても、彼らの耳には届いていないかもしれない。
兵士たちは皿に盛られた唐揚げを掴み、大口を開けてかぶりついた。
カリッ!!
食堂中に、小気味よい音が響き渡る。
そして次の瞬間、
「熱っ! うまっ!!」
サクサクの衣を突破すると、中から熱々の肉汁が鉄砲水のように飛び出してくる。
しっかり味の染みた肉は、噛むほどに旨味が溢れ出し、ニンニクのパンチが疲れた身体を直撃する。
「なんだこの衣は!? カリカリなのに、中はプリンみたいに柔らかいぞ!」
「ビールだ! 誰かエールを持ってこい!」
「白飯もだ! この味は米泥棒だぞ!」
狂喜乱舞。
まさに宴だ。
私は厨房の入り口で、次々と揚げたてを追加しながら、その光景を眺めていた。
みんな、無事でよかった。
本当によかった。
「……良い匂いだ」
背後から、低い声がした。
振り返ると、返り血で少し汚れたマントを羽織ったジークフリート様が立っていた。
兜を脇に抱え、乱れた髪から汗が滴っている。
「ジークフリート様!」
「ただいま、エレナ。……約束通り、戻ったぞ」
「お帰りなさいませ! お怪我は……」
「ない。お前が流したあの匂いのおかげで、兵たちが獣より獰猛になっていたからな」
彼は苦笑しながら、私の手元にある揚げたての唐揚げを見た。
「これが、今日の主役か」
「はい。貴方のために揚げた、一番熱々のやつです」
私は大きな一つをフォークに刺し、彼に差し出した。
彼は手袋を外そうとしたけれど、血で汚れていることに気づき、躊躇った。
「……手が汚れている」
「構いません。私が食べさせますから」
え?
言った直後に、私は自分の発言に固まった。
「あーん」をするってこと?
公衆の面前で?
いや、でも手は汚れているし、彼は空腹だし、これは緊急措置で……!
ジークフリート様も少し目を見開いたが、すぐに観念したように、私の前に顔を近づけた。
そして、少しだけ頬を赤らめながら口を開ける。
「……頼む」
私は震える手で、フォークを彼の口へと運んだ。
パクッ。
カリリ、という音。
彼は目を閉じ、ゆっくりと咀嚼する。
「…………ッ」
喉が動く。
飲み込んだ後、彼は深く息を吐き出し、私を見て破顔した。
今まで見た中で、一番無防備で、男らしい笑顔だった。
「美味い。……生き返る味だ」
その言葉と笑顔の破壊力に、私は腰が抜けそうになった。
心臓がうるさい。
このままじゃ、揚げ油より先に私が沸騰してしまう。
「ヒューヒュー!」
「閣下、ご馳走様です!」
「お熱いねぇ!」
いつの間にか、周囲の兵士たちがニヤニヤしながら私たちを見ていた。
口の周りを油でテカテカにした男たちに冷やかされ、私たちは顔を見合わせて――そして、二人して吹き出した。
「お前には敵わんな、エレナ」
「ふふ、胃袋を掴むって宣言しましたから」
笑い合う私たちの間には、もう主従の壁も、貴族のしがらみもなかった。
あるのは、美味しい料理と、それを分かち合う確かな温もりだけ。
この幸せな時間が、ずっと続けばいい。
そう思っていた。
王都からの「あの手紙」が届くまでは。




