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追放令嬢の【調味料】革命 ~マヨネーズを与えたら、魔王級の辺境伯が骨抜きになりました~  作者: 月雅


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第5話 深夜の秘密の夜食

コトコト、コトコト。


静寂に包まれた深夜の厨房に、鍋の中で湯が踊る音が優しく響く。

窓の外は相変わらずの吹雪だけれど、ここは暖かい。

私は鍋から立ち昇る湯気を顔に受けながら、ほうっと息をついた。


「うん、いい香り」


鍋の中で黄金色に輝いているのは、私が夜な夜な研究して作り上げた『出汁』だ。

北の海で採れた『昆布』のような海藻と、干した魚を削ったものを合わせて煮出した、旨味の結晶。

この世界には「出汁」という概念がない。

だから、この繊細で奥深い香りは、私だけが知る秘密の愉しみだった。


今日の夕食の『生姜焼き』騒動は凄かった。

興奮した兵士たちが、夜遅くまで食堂で盛り上がっていたらしい。

その後片付けも終わり、料理人たちも寝静まったこの時間。

私は明日の朝食の仕込みのために、こうして一人、厨房に残っていたのだ。


「さて、味見を……」


小皿に少しすくって口に含む。

ふわりと広がる海の香り。

尖った塩気はなく、ただただ優しい旨味が舌の上を滑っていく。

完璧だ。これなら明日のお味噌汁も美味しくなるはず。


その時だった。

厨房の重い扉が、ギイィ……と音を立てて開いたのは。


「……誰か、いるのか?」


低く、けれどひどく疲労を滲ませた声。

私は驚いて振り返った。


「ジークフリート様?」


そこに立っていたのは、辺境伯その人だった。

けれど、いつもの威厳ある姿とは少し違う。

軍服の襟元はくつろげられ、漆黒の髪は乱れている。

そして何より、あの鋭い金の瞳の下には、濃い隈が浮かんでいた。


「起きていたのか、エレナ」

「はい、明日の仕込みをしていて……。閣下こそ、こんな夜更けにどうされたのですか?」

「……執務が、長引いてな」


彼は重たい足取りで部屋に入ってくると、近くの椅子にどさりと腰を下ろした。


「夕食を摂り損ねた。腹が減って眠れんので、何か残っていないかと思ってな」

「夕食を? あの生姜焼きを食べていないのですか?」

「ああ。トラブルの報告書と格闘している間に、冷めきって脂が固まってしまった。……さすがに食う気になれなくてな」


ジークフリート様は大きく溜息をつき、手で顔を覆った。

「北の魔王」と呼ばれる彼が、こんなに無防備な姿を見せるなんて。

それだけ、背負っているものが重いのだろう。


ぐぅぅぅ……。


静かな厨房に、可愛らしい音が響いた。

ジークフリート様のお腹の音だ。

彼は顔を覆ったまま、耳まで赤くしている。


「……忘れてくれ」

「ふふ、忘れました。でも、見て見ぬふりはできません」


私は作業台に向き直った。

脂っこい肉料理は、今の疲れた胃には重すぎる。

深夜の疲れた身体に染み渡る、優しくて、温かくて、それでいて満足感のあるもの。


「少し待っていてください。すぐに『特製夜食』を作りますから」


   ◇


作るメニューは決まっている。

私は冷蔵庫代わりの冷暗所から、一匹の魚を取り出した。

『リバーサーモン』。

近くの川で獲れる、鮭によく似た魚だ。

これの切り身に、パラリと塩を振る。


熱した網の上に乗せると、ジュッという音と共に、皮が焼ける香ばしい匂いが漂い始めた。

身はふっくらと、皮はパリパリに。

脂が炭に落ちて煙が上がり、食欲をそそる。


「……いい匂いだ」


背後から、ゴクリと喉を鳴らす音が聞こえる。

焼き上がった魚の身をほぐし、骨を丁寧に取り除く。


次に用意するのは、炊きたての『ホワイトグレイン』――白米だ。

お椀によそい、その上にほぐした鮭の身をたっぷりと乗せる。

さらに、彩りと風味のアクセントとして、刻んだ『ミツバ』のような香草と、海苔の代わりに炙った海藻を散らす。


そして、仕上げの魔法。

スキル【調味料作成】で作り出した、緑色の練り薬味『わさび』をちょこんと添える。


「ここからです」


私は先ほどまで煮出していた、熱々の『出汁』をひしゃくですくった。

黄金色のスープを、白米と鮭の上から静かに回しかける。


サァァァ……。


出汁の熱で、鮭の脂がじんわりと溶け出し、水面に油膜を作る。

香草の香りが立ち昇り、出汁の香りと混ざり合う。

米粒がスープを吸って、ふっくらと踊る。


「お待たせしました。『炙りサーモンの出汁茶漬け』です」


   ◇


ジークフリート様の前に、湯気を立てるお椀を置く。

彼は不思議そうに中を覗き込んだ。


「スープに……飯が入っているのか? リゾットとは違うようだが」

「これは、混ぜずにこのままサラサラとかき込むんです。さあ、熱いうちにどうぞ」


彼は匙を手に取り、まずはスープを一口すする。


ズズッ。


その瞬間、彼の肩から力が抜けたのが見えた。

強張っていた表情筋が緩み、張り詰めていた糸が解けるように、深く息を吐き出す。


「……ああ」


言葉にならない声が漏れる。


「なんだ、これは。味が……身体の奥まで染み込んでくるようだ」

「それが『出汁』の力です。心を落ち着かせる味なんですよ」

「出汁……」


彼は次に、スープを含んだご飯と、鮭の身を一緒にすくい上げた。

口に入れる。


パリッとした皮の香ばしさ。

ふっくらとした鮭の身の塩気。

それらを、優しい出汁を吸ったご飯が包み込む。

そして最後に、わさびのツンとした清涼感が鼻を抜け、後味をさっぱりとさせる。


カツッ、カツッ。


匙の音が止まらない。

彼は無言のまま、ひたすらにお椀と向き合っていた。

がつがつと食べるのではない。

一口ずつ、噛み締めるように、慈しむように。

まるで、冷え切った身体に熱を灯していく儀式のようだった。


「……美味い」


彼はポツリと呟いた。


「派手な味じゃない。でも、今まで食べたどんな料理よりも……安心する味だ」


安心する。

その言葉が、私の胸にじんと響いた。

常に死と隣り合わせのこの場所で、彼が一番求めていたのは、栄養やカロリーではなく、「安心」だったのかもしれない。


あっという間にお椀は空になった。

「おかわりは?」と聞こうとすると、彼がふと、私の手首を掴んだ。


「えっ……」


熱い掌。

剣ダコだらけの、大きくゴツゴツした手。

彼は私を引き寄せ、至近距離で私の目を見つめた。

金の瞳が、揺れている。


「エレナ」


名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねた。


「俺は、この砦に来てからずっと、気を張って生きてきた。眠っている時でさえ、剣を枕元に置いてな」

「……はい」

「だが、今……お前の料理を食べている時だけは、剣のことを忘れられた」


彼は私の手を、自分の頬に押し当てた。

彼の頬は少し熱っぽくて、髭のジョリッとした感触が指先に伝わる。


「お前が来てくれて、本当によかった」

「じ、ジークフリート様……」

「俺には、お前が必要だ。……胃袋だけの話じゃなく、な」


最後の言葉は、囁くように小さかった。

厨房の暖かな空気の中で、私の顔が一気に沸騰する。

これって、どういう意味?

ただの料理人として? それとも……?


彼はハッとしたように我に返ると、慌てて私の手を離した。

咳払いを一つして、視線を逸らす。


「す、すまん。寝不足で少し気が緩んでいたようだ」

「い、いいえ! お役に立てて嬉しいです!」


気まずい沈黙。

でも、それは嫌な沈黙ではなかった。

お互いの鼓動が聞こえてきそうなほど、甘くてむず痒い空気。


「……もう一杯、もらえるか」

「はい! 今度はわさび多めにしますか?」

「頼む」


空になったお椀を受け取る時、私たちの指先が触れ合った。

ほんの一瞬。

でも、その熱は、出汁の温かさよりもずっと長く、私の指先に残っていた。


深夜の厨房。

外は吹雪。

でも、二人きりのこの場所は、世界で一番温かい食卓だった。


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