第4話 兵士たちの士気爆上げ作戦
「うっ……くっさあ!」
その日の午後、私は厨房に運び込まれた物体を見て、鼻をつまんだ。
屈強な男たちが二人がかりで作業台にドスンと置いたのは、巨大な肉の塊だ。
脂身は分厚く、赤身はどす黒い。
そして何より、鼻が曲がりそうな獣臭さが漂っている。
「すまねぇな、エレナ様。今日仕留めた『ハイ・オーク』の肉なんだが……こいつはどうにもならねぇ」
料理長が困り顔で頭をかいた。
ハイ・オーク。
豚の魔物の一種で、繁殖力が強く、この辺境ではよく遭遇する厄介者だ。
肉の量は多いけれど、その独特の臭みと筋っぽさから、兵士たちからは「ゴムタイヤの次に不味い」と嫌われているらしい。
「いつもはどうやって食べているの?」
「ぶつ切りにして、香草と一緒に煮込むんだが、それでも臭みが抜けなくてな。みんな鼻をつまんで丸呑みしてるよ」
なるほど。
煮込むだけじゃ、この強烈な個性(臭み)には勝てないわね。
私は腕まくりをした。
「任せてください、料理長。この厄介者、私が『白米泥棒』に変えてみせますから!」
「はくまいどろぼう……?」
「とにかく、その肉を薄くスライスしてください! 私はタレを準備します!」
◇
オーク肉の攻略法。
それは「臭みを消す」のではなく、「臭みを旨味に変える」ことだ。
そのためには、あの最強の調味料セットが必要になる。
私は誰もいない倉庫の隅で、スキルを発動させた。
【スキル発動:調味料作成】
今回イメージするのは、東の国で使われている黒い液体『醤油』。
米を発酵させて作る、甘くて深いコクのある『味醂』。
そして、ピリッとした刺激が食欲をそそる『生姜チューブ』だ。
キラキラと光が集まり、小瓶が生成される。
蓋を開けると、醤油の香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
ああ、懐かしい。これよ、これ!
パン食文化のこの国には存在しない、故郷の味。
厨房に戻ると、料理長が肉を見事な薄切りにして待っていた。
さすがプロ、仕事が早い。
「じゃあ、始めますよ!」
私は大きなボウルに醤油、味醂、そして少しの砂糖を混ぜ合わせる。
そこに、たっぷりの生姜を投入した。
この生姜の成分が、肉の臭みを消し、さらに肉質を柔らかくしてくれるのだ。
タレの中に、薄切りにしたオーク肉を漬け込む。
手でしっかりと揉み込み、味が染み渡るように念じる。
「美味しくなぁれ、美味しくなぁれ……」
15分ほど放置した後、いよいよ焼きの工程だ。
熱した鉄板に油を引く。
ジュワァァァ……ッ!
肉を乗せた瞬間、爆発的な音が響いた。
同時に、醤油が焦げる香ばしい匂いと、生姜の爽やかな香りが、蒸気となって立ち昇る。
「な、なんだこの匂いは!?」
料理長が鼻をヒクヒクさせた。
先ほどまでの獣臭さはどこへやら。
今、厨房を満たしているのは、人間の本能を直接揺さぶるような、甘辛くて香ばしい匂いだ。
「これが『生姜焼き』です! 料理長、付け合わせの千切りキャベツをお願いします!」
「お、おう! 任せろ!」
ジュウジュウと肉が焼ける音。
タレが煮詰まり、肉に照りが出る。
端っこが少し焦げて、カリッとするくらいが一番美味しいのだ。
そして、この料理には欠かせない相棒がいる。
私は隣のコンロで炊き上がっていた鍋の蓋を開けた。
パァァァ……ッ。
真っ白な湯気と共に現れたのは、銀色に輝く『ホワイトグレイン』。
この世界では「馬の餌」として扱われている穀物だが、正体はどう見てもジャポニカ米だ。
精米して、適切な水加減で炊けば、こんなにもふっくらとした宝石になるのに!
「よし、完成!」
◇
食堂は、異様な雰囲気に包まれていた。
「おい、なんだこの匂い」
「厨房の方からだ。腹が減ってたまらねぇ」
「今日の飯はオーク肉だって聞いたぞ? なんでんこんなにいい匂いがするんだ?」
訓練を終えた兵士たちが、鼻を空に向けてクンクンと嗅ぎながら集まってくる。
その目は、空腹の狼のように血走っていた。
私がカウンターに立つと、先頭の兵士が身を乗り出した。
「エ、エレナ様! 今日の飯はなんなんですか!?」
「今日は『ハイ・オークのスタミナ生姜焼き定食』です。どうぞ!」
ドンッ。
お盆の上には、山盛りのキャベツと、その上に鎮座する飴色の肉。
そして、湯気を立てる山盛りの白米。
「こ、これがオーク肉……?」
兵士はゴクリと唾を飲み込み、震える手でフォークを突き刺した。
タレが絡んだ肉を口へ運ぶ。
ガブッ。
咀嚼した瞬間、彼の目がカッと見開かれた。
「うっ、うめぇぇぇぇッ!!」
絶叫が響き渡った。
「臭みが全然ねぇ! むしろ、噛めば噛むほど肉の旨味が溢れてくる! なんだこの甘辛いタレは!? ニンニクとは違う、爽やかな辛味が鼻を抜けていく!」
彼は興奮したまま、無意識に横にある白米を口にかき込んだ。
「!? なんだこの穀物は! いつも馬にやってるやつだよな!? なんでこんなに甘くてモチモチして……ああっ、この濃い味の肉と合う! 合いすぎる!!」
肉、米、肉、米、キャベツ、肉、米!
無限のループが完成していた。
「俺にもくれ!」
「こっちもだ!」
食堂は一瞬にして戦場と化した。
次々と配膳される生姜焼き定食。
一口食べた兵士たちは、全員例外なく骨抜きにされていく。
「信じられん、これがあの不味いオーク肉かよ……」
「力が湧いてくるぞ!」
「おかわり! 米をくれ、米を!」
厨房の中では、私と料理人たちが必死に肉を焼き続けていた。
焼いても焼いても追いつかない。
嬉しい悲鳴だ。
その喧騒の中、またしても「彼」が現れた。
◇
「……暴動かと思ったぞ」
呆れたような、しかしどこか期待を含んだ低い声。
ジークフリート様だ。
入り口付近で、山盛りの丼を抱えて泣きながら食べている部下を見て、彼は驚きの表情を浮かべていた。
私はフライパンを振りながら、彼に声をかけた。
「閣下! ちょうど焼き上がりましたよ! 特製生姜焼きです!」
私は一番美味しそうに焼けた部分を選び、大盛りのご飯の上に乗せて差し出した。
いわゆる『生姜焼き丼』スタイルだ。
ジークフリート様はカウンターに歩み寄り、丼を受け取る。
立ち昇る湯気に、彼の喉仏が動くのが見えた。
「ハイ・オークの肉だと聞いたが……」
彼は肉を一枚、箸(私が即席で作った木の棒)で持ち上げた。
タレが光を反射して輝いている。
それをパクリ。
瞬間、彼の肩がビクッと跳ねた。
「……ッ!」
鋭い瞳が、驚愕に見開かれる。
口いっぱいに広がる醤油の焦げた香ばしさと、生姜の刺激。
そして、オーク肉特有の弾力ある脂身が、甘辛いタレと混ざり合って溶けていく。
彼は無言のまま、すぐにご飯をかき込んだ。
タレの染みたご飯。
それは、貴族の彼にとっても未知の体験だったはずだ。
「……卑怯だ」
彼はポツリと漏らした。
「こんな……こんなに味が濃くて、脂っこいのに。この白い穀物と合わせると、いくらでも腹に入ってしまう」
箸が止まらない。
彼は猛烈な勢いで丼を空にしていく。
その食べっぷりは、勇猛な騎士そのものだ。
「エレナ」
「はい!」
「これは危険だ。兵たちが食べることに夢中になりすぎて、次の訓練に支障が出るかもしれん」
彼は空になった丼を置き、真剣な顔で私を見た。
口の端に、タレと米粒がついていることには気づいていないらしい。
可愛い。
「ですが、見てください」
私は食堂を指差した。
満腹になった兵士たちが、幸せそうな顔で腹をさすっている。
その顔には、昨日のような陰鬱な影はない。
みんな、目に力が宿っている。
「美味しい食事は、心と体に活力を与えます。これで、明日からの訓練もきっと頑張れますよ」
ジークフリート様は兵士たちの笑顔を見渡し、ふっと小さく息を吐いた。
その表情は、とても柔らかかった。
「……そうだな。お前の言う通りだ」
彼は私に向き直り、口元の米粒を拭いながら言った。
「礼を言う。この砦に来て十年……兵たちがこんなに笑っているのを見たのは初めてだ」
彼の金色の瞳が、真っ直ぐに私を捉える。
そこには、確かな信頼の色があった。
「エレナ、お前の『調味料』という魔法は、どんな高等魔術よりも我々を救ってくれるかもしれん」
「閣下……」
「だから、その……また作ってくれ。俺のため……いや、兵のために」
言い訳のように付け足して、彼はそっぽを向いた。
でも、私は知っている。
彼が一番、この生姜焼きを気に入っていたことを。
「はい! もちろんです!」
こうして、嫌われ者だったオーク肉は、砦一番の人気メニューへと昇格した。
そして、私とジークフリート様の間にも、また一つ美味しい絆が生まれたのだった。
――だが、私はまだ知らなかった。
この後、さらに深い夜の時間に、もっと「危険な」グルメが彼を待ち受けていることを。
そしてそれが、彼の理性を完全に崩壊させることになるなんて。




