第3話 氷の辺境伯、陥落する
「……味見、してみませんか?」
私の差し出した小皿を前に、厨房の空気は凍りついていた。
誰もが息を呑み、ジークフリート様の反応を待っている。
「北の魔王」と恐れられる辺境伯。
彼は私の手の中にある小皿を、まるで敵国の秘密兵器でも見るような目で凝視していた。
「……なんだ、この黄色い泥のようなものは」
低い声。
そこには明らかな警戒色が含まれている。
無理もない。
この世界にマヨネーズは存在しないし、芋を潰してドロドロのソースで和えたこの料理は、貴族の彼からすれば残飯に見えても仕方がない。
けれど、私は引かなかった。
ここで引いたら、私は一生あの「石のパン」と「泥水スープ」を食べ続けることになる。
それだけは嫌だ。絶対に嫌だ。
私は背筋を伸ばし、彼の鋭い金の瞳を真っ直ぐに見返した。
「泥ではありません。これは『ポテトサラダ』です。余っていたサンドポテトとロックボアの干し肉を、特製のソースで和えました」
「特製のソースだと?」
「はい。滋養強壮に良いコカトリスの卵と、疲労回復に効くお酢を使っています。疲れが溜まっている閣下にこそ、食べていただきたいのです」
「疲労回復」という言葉に、彼の眉がピクリと動いた。
彼は数秒間、私と小皿を交互に見比べると、やがて短く溜息をついた。
そして、私の手から荒々しく小皿をひったくった。
「……毒見は済んでいるのだろうな」
「もちろんです。先ほど料理長たちが、皿まで舐め回す勢いで完食しましたから」
私が視線を向けると、料理長が直立不動でコクコクと頷いた。
ジークフリート様は鼻を鳴らし、小皿に添えられたスプーンを手に取る。
彼は躊躇うことなく、山盛りのポテトサラダをすくい上げた。
そして、大きな口へと放り込む。
パクッ。
厨房にいる全員の視線が、彼の咀嚼する口元に釘付けになる。
私は祈るような気持ちで、固く手を組んだ。
お願い、届いて。
その舌に、その胃袋に。
ジークフリート様は、無表情のままモグモグと口を動かしている。
長い。
永遠にも感じる数秒間。
やがて、ゴクリと喉が動いた。
飲み込んだ。
感想は? 怒るの? それとも……?
次の瞬間だった。
カツッ、カツッ、カツッ!
金属音が高いリズムを刻んだ。
ジークフリート様の手が、目にも止まらぬ速さで動いていた。
一口目を飲み込んだ直後、二口目、三口目と、凄まじい勢いでポテトサラダを口に運んでいるのだ。
「え……?」
私は目を疑った。
あの冷静沈着な、食事をただの燃料補給としか思っていなかった辺境伯様が、まるで空腹の子供のように料理を貪っている。
彼の表情は相変わらず険しいままだ。
けれど、その瞳孔はカッと見開かれ、頬は微かに紅潮しているように見える。
止まらない。
スプーンが往復するたびに、小皿の上の黄色い山が消えていく。
サンドポテトのホクホク感、ロックボアの旨味、そして何より、全体を包み込むマヨネーズのコクと酸味。
それらが彼の口の中で爆発し、長年の味気ない食生活で干からびていた味覚を、強烈に刺激しているのだ。
あっという間に、小皿は空っぽになった。
「……」
ジークフリート様は名残惜しそうに空の皿を見つめると、ふと顔を上げ、近くにあった木箱に視線を走らせた。
そこには、朝食用の「石のような黒パン」が積まれている。
彼は無造作に黒パンを一つ掴み取ると、なんとそれを、私の作業用ボウルに残っていたマヨネーズソースに直接突っ込んだ。
「あっ、閣下!?」
料理長が悲鳴を上げる。
行儀が悪いとか、そんな次元ではない。
彼は硬いパンにたっぷりとソースを絡ませ、そのままガブリとかじりついたのだ。
ガリッ、という音が響く。
けれど、彼は構わずに噛み砕く。
「……ほう」
初めて、彼が声を発した。
「硬くて味のないパンが、このソースをつけるだけで……化けるか」
油分を含んだマヨネーズが、パサパサのパンに染み込み、しっとりと食べやすくしている。
酸味が唾液の分泌を促し、喉通りを良くしているのだ。
彼は黒パンをまたたく間に平らげてしまった。
ついに完食。
彼はボウルとスプーンをテーブルに置くと、懐からハンカチを取り出し、口元を拭った。
そして、私の方へと向き直る。
その顔つきは、入ってきた時の殺気立ったものとは違い、どこか憑き物が落ちたように穏やかだった。
「……エレナ、と言ったか」
「は、はい!」
「この料理、何と言った?」
「ポテトサラダ、です。この黄色いソースは『マヨネーズ』と名付けました」
「マヨネーズ……」
彼はその名を反芻するように呟くと、腕を組み、私を見下ろした。
「悪くない」
たった一言。
でも、その言葉の重みは、どんな称賛よりも雄弁だった。
周囲の兵士たちが「あの閣下が褒めたぞ!」「奇跡だ!」とざわめき始める。
ジークフリート様は咳払いを一つして、厨房全体に響く声で告げた。
「料理長、聞け。今後、この女……エレナに、厨房の使用を許可する」
「はっ! 承知いたしました!」
「それから、エレナ」
「はい」
彼は少しだけ視線を逸らし、バツが悪そうに頬をポリポリとかいた。
「……その、なんだ。今日の夕食にも、これを出せ。兵たちにも食わせてやりたい」
ズキュン。
私の胸の奥で、何かが跳ねた。
「自分がもっと食べたい」ではなく、「兵たちに食わせたい」。
この人は、やっぱり噂通りの冷血漢なんかじゃない。
部下思いの、不器用で優しい指揮官なんだ。
「はいっ! お任せください!」
私が満面の笑みで答えると、彼は眩しいものでも見るように目を細め、フイと背を向けた。
「……勝手にしろ」
早足で去っていくその耳が、真っ赤に染まっているのを、私は見逃さなかった。
◇
その日の朝食は、オルデン砦の歴史に残るものとなった。
いつもの泥水スープと黒パンの横に添えられた、鮮やかな黄色のポテトサラダ。
食堂のあちこちから、歓喜の悲鳴が上がった。
「うめぇぇぇ! なんだこれ!」
「芋が溶ける! 肉が美味い!」
「パンにつけると最高だぞ!」
涙を流して食べる者。
皿を舐める者。
お互いの肩を叩き合って喜ぶ者。
陰鬱だった食堂が、まるで酒場のような活気に包まれている。
私は厨房の入り口からその光景を眺め、胸がいっぱいになっていた。
料理は、ただ栄養を摂るためのものじゃない。
心を豊かにし、明日への活力を生むものだ。
「エレナ様、本当にありがとう! あんたは俺たちの救世主だ!」
「女神様だ!」
兵士たちが口々に感謝を叫び、私に手を振ってくる。
王都では「役立たず」と蔑まれた私が、ここでは「女神」と呼ばれている。
その事実が、凍えていた私の心を温かく溶かしてくれた。
「ふふ、お礼を言うのはまだ早いわよ」
私はポケットの中で、次の切り札を握りしめた。
マヨネーズは序章に過ぎない。
この砦には、まだまだ活用されていない食材がたくさんある。
臭くて捨てられている肉や、雑草扱いされている香草。
それらすべてを、私のスキルと知識で、極上のグルメに変えてみせる。
「次は、あの臭い『オーク肉』ね……。覚悟してなさい、ジークフリート様。貴方の胃袋、もっとガッチリ掴んで離さないんだから!」
私の辺境ごはん改革は、まだ始まったばかりだ。




