第2話 魔法の黄色いソースの衝撃
「……お腹が、空いた」
翌朝、私は自分の腹の音で目を覚ました。
窓の外は相変わらずの吹雪。
部屋の中も冷蔵庫のように冷え切っている。
ベッドの脇のサイドテーブルには、昨夜こっそり持ち帰った「石のような黒パン」が鎮座していた。
試しにかじってみたけれど、やっぱり石だった。
これを美味しく食べるには、相当な工夫が必要だ。
「よし、行こう」
私は顔をパンパンと叩いて気合を入れる。
待っていても、配給されるのは昨夜と同じ「泥水ごった煮スープ」と「タイヤ風味の干し肉」だ。
死を待つくらいなら、戦うしかない。
私はショールをきつく巻き直し、部屋を飛び出した。
目指すは、この砦の心臓部――厨房だ。
◇
厨房は、戦場のような騒ぎだった。
「おい、水が足りねぇぞ! 雪を溶かせ!」
「芋の皮むきが間に合わねぇ! 皮ごと放り込め!」
「肉が腐りかけてる? 火を通せばなんとかなる!」
怒号と熱気が渦巻いている。
そして漂ってくるのは、あの独特な雑巾のような生臭い匂い。
どうやら今日の朝食も、例のスープらしい。
私が恐る恐る中へ入っていくと、巨大な寸胴鍋をかき混ぜていた熊のような男が振り返った。
丸太のような腕に、無精髭。
昨夜、私に食事を渡してくれた料理長だ。
「ああん? なんだお嬢ちゃん。腹が減ったなら食堂で待ってな。まだ配給時間じゃねぇぞ」
彼は私を邪魔な虫でも見るように手を振った。
私は一歩前に出る。
ここで引くわけにはいかない。
「あの、お願いがあります!」
「あ?」
「私に、この厨房を使わせてください!」
一瞬、厨房の動きが止まった。
料理長は目を丸くし、それから腹を抱えて笑い出した。
「ガハハハ! 聞いたかお前ら! 公爵家のお嬢様が、おままごとをしに来たらしいぞ!」
周囲の料理人たちもニヤニヤと嘲笑う。
「悪いがな、ここは遊び場じゃねぇんだ。お前の細腕で何ができる? 包丁を持ったこともねぇんだろ?」
「持ったことはあります! それに、私は……その、今の食事があまりにも不味いことに耐えられないんです!」
シン、と場が静まり返った。
料理長の笑顔が消え、額に青筋が浮かぶ。
彼はドスドスと私に歩み寄り、目の前で仁王立ちした。
「……不味いだと? 俺たちはな、限られた食材と時間で、数百人の兵士の腹を満たすために必死なんだ。贅沢言ってんじゃねぇぞ」
「贅沢じゃありません! 食材が泣いています! ちょっとの手間で、もっと美味しくなるのに!」
「口だけは達者だな」
料理長は鼻を鳴らし、近くの木箱を蹴飛ばした。
中からゴロゴロと転がり出てきたのは、土まみれの根菜と、干からびた肉片。
「ならやってみろ。この『余り物』を使ってな。もし俺たちが食えるもんを作れたら、厨房の一角を貸してやる。だが、食えたもんじゃなかったら……二度とここへ顔を出すな」
「……わかりました。その勝負、受けます」
私は木箱を拾い上げた。
ゴングは鳴った。
◇
作業台の上に食材を並べる。
まずは鑑定だ。
『サンドポテト』
砂漠地帯でも育つ芋。皮が厚く、独特の土臭さがあるが、デンプン質は豊富。
『ロックボアの干し肉』
岩のように硬い猪の肉。塩漬けにして乾燥させてあるため、保存性は高いが、そのままでは噛みきれない。
『コカトリスの卵』
これはたまたま隅に転がっていたもの。鶏卵の三倍ほどの大きさがあり、黄身が濃厚。
「ふふ、これだけあれば十分よ」
私が作るのは、庶民の味方であり、最強のサラダ。
そう、『ポテトサラダ』だ。
ただし、ただのポテトサラダではない。
この世界の誰も知らない、魅惑のソースを使った一品だ。
まずは下準備。
サンドポテトは皮を分厚く剥き、小さく切って鍋へ。
塩を少し入れて、柔らかくなるまで茹でる。
その間に、ロックボアの干し肉をナイフで細かく削ぐ。
硬いけれど、薄く削ればベーコンビッツの代わりになるはずだ。
そして、ここからが本番。
私は深めのボウルに、コカトリスの卵を割り入れた。
黄身だけを取り出し、ボウルに入れる。
鮮やかなオレンジ色が美しい。
周囲の料理人たちが、遠巻きにヒソヒソと話している。
「おい、卵を生で使う気か?」
「腹壊すぞ……」
ふん、見てなさい。
私は大きく息を吸い込み、スキルを発動させた。
【スキル発動:調味料作成】
私の掌が淡く光る。
イメージするのは、酸味の効いた『穀物酢』と、癖のない『サラダ油』。
そして、味を引き締める『塩』と『胡椒』。
「出ておいで!」
光の粒子が集まり、作業台の上の小瓶にそれぞれの調味料が実体化した。
このスキル、レベルが低い今は一日数回しか使えないけれど、質だけは最高級だ。
私はボウルに入れた卵黄に、作成した酢と塩を少し加えた。
そして、泡立て器(ないので、木の枝を束ねたもので代用)で素早くかき混ぜる。
カカカカカッ!
「な、なんだあの手つきは……!?」
料理長が驚きの声を上げるのを無視して、私は混ぜ続ける。
卵黄が白っぽくなってきたら、ここが正念場。
サラダ油を、糸のように細く垂らしながら、さらに激しく混ぜる!
乳化。
水と油という、本来交じり合わないものを、卵黄の力で結びつける魔法。
シャカシャカシャカシャカ……。
液体だった油と卵が、徐々に重くなり、もったりとしたクリーム状へと変化していく。
黄金色の、プルプルとした塊。
酸味とコクの塊。
そう、これこそが『マヨネーズ』!
指ですくって味見をする。
……んんっ!
コカトリスの卵が濃厚だから、前世のものより数倍美味しい!
まろやかな口当たりの後に、酢の酸味がキュッと全体を引き締める。
これは、野菜を無限に食べられる悪魔のソースだ。
「よし、仕上げ!」
茹で上がったサンドポテトのお湯を切り、熱いうちにマッシュする。
そこへ削った干し肉を投入。
肉の塩気が芋に移り、熱で脂が少し溶け出す。
そして、主役の登場。
特製マヨネーズを、惜しげもなくたっぷりと投入!
最後に、黒胡椒をガリガリと挽いて振りかける。
全体をざっくりと混ぜ合わせれば、完成だ。
湯気と共に立ち昇るのは、甘酸っぱく、そして脳髄を刺激する濃厚な香り。
「できました。『ロックボアとサンドポテトの黄金サラダ』です!」
◇
ドンッ、と料理長の前にボウルを置く。
彼は眉間に深い皺を寄せ、その黄色っぽいペーストを睨みつけた。
「……なんだこれは。芋を潰して、変なドロドロを混ぜただけじゃねぇか」
「見た目はともかく、味は保証します。さあ、食べてみてください」
「毒見が必要なんじゃねぇか?」
悪態をつきながらも、料理長はスプーンを突っ込んだ。
粘りのある感触に、彼は少し顔をしかめる。
そして、恐る恐る口へと運んだ。
パクッ。
厨房中の視線が彼に集まる。
料理長は、もぐもぐと口を動かし――そして、動きを止めた。
カラン。
彼の手からスプーンが滑り落ちる音が響いた。
「りょ、料理長!?」
部下が慌てて駆け寄る。
料理長は震える手で口元を押さえ、虚空を見つめていた。
そして、掠れた声で呟いた。
「……なんだ、これは」
次の瞬間、彼は猛獣のような勢いでボウルに再びスプーンを突き立てた。
一口、二口、三口。
止まらない。
呼吸をするのも忘れたように、彼はポテトサラダを貪り食う。
「美味い……! なんだこの味は!?」
料理長が叫んだ。
「芋のパサつきが全くねぇ! この黄色いソースが絡みついて、とろけるように滑らかだ! 干し肉の塩気と脂、そしてこのソースの酸味……。くそっ、止まらねぇ! 酒だ! 誰かエールを持ってこい!」
「お、俺にも食わせてください!」
「俺も!」
他の料理人たちが我慢できずに群がってくる。
私は人数分のスプーンを渡した。
「うおおおっ!?」
「濃厚なのにサッパリしてる!」
「この黒い粉(胡椒)の刺激がたまらねぇ!」
「干し肉ってこんなに美味かったのか!?」
あっという間に、ボウルの中身は空になった。
むさい男たちが、うっとりとした顔でスプーンを舐めている異様な光景。
私は小さくガッツポーズをした。
勝った。
「ぜぇ、ぜぇ……」
料理長が荒い息を吐きながら、私の方を向いた。
その目は、もう私を邪魔者とは見ていなかった。
まるで、未知の秘宝を見るような畏敬の眼差しだ。
「嬢ちゃん……いや、エレナ様。あんた、魔法使いか?」
「いいえ、ただの『調味料作成』スキル持ちです」
「調味料……。これがあのハズレスキルだってのか? ふざけんな、国宝級じゃねぇか」
彼は私の手を取り、ガシガシと握手をしてきた。
「俺の負けだ。厨房の隅でもどこでも好きに使ってくれ。……その代わり、この黄色いソースの作り方、俺たちにも教えてくれるか?」
「もちろんです!」
こうして、私は砦の台所へのパスポートを手に入れた。
さあ、これからもっと美味しいものを作るわよ!
そう意気込んだ、その時だった。
「――何事だ」
厨房の温度が、一気に氷点下まで下がった気がした。
入り口に、巨大な黒い影が立っている。
漆黒の軍服。鋭い金の瞳。
ジークフリート・フォン・オルデン辺境伯だ。
騒ぎを聞きつけたのか、その表情は極めて不機嫌そうで、殺気すら漂っている。
「朝からやかましい。厨房は遊び場ではないと言ったはずだ」
低い声が響き渡る。
料理人たちが震え上がり、サーッと道を開けた。
私の前には、遮るものは何もない。
ジークフリート様は、ツカツカと私に歩み寄ってくる。
怖い。
反射的に逃げ出したくなるけれど、足がすくんで動かない。
彼は私の目の前で立ち止まり、空になったボウルと、私の口元についたマヨネーズを交互に見た。
そして、私を睨みつける。
「貴様、ここで何をしていた」
終わった。
絶対に怒られる。
追放どころか、斬り捨てられるかもしれない。
私は必死に言葉を探した。
命乞いをする?
謝る?
いいえ、違う。
私は料理人(自称)だ。
作った料理を、一番食べてほしい人に食べさせないでどうするの!
私は震える手で、とっさに隠しておいた小皿を差し出した。
そこには、一口分だけ残しておいたポテトサラダが乗っている。
「あ、あのっ!」
私の声が裏返る。
ジークフリート様の眉がピクリと動いた。
「……味見、してみませんか?」
これが、私の運命を分ける一口になるとは、この時の私はまだ知らなかった。




