第1話 追放令嬢と絶望のディナー
ガタガタ、ガタガタ。
激しい振動が、お尻から脳天まで突き抜ける。
クッションの薄い椅子に座り続けて、もう何時間が経っただろうか。
身体のあちこちが悲鳴を上げているけれど、それ以上に辛いのはこの寒さだ。
窓の外を覗くと、視界のすべてが白一色に染まっていた。
猛吹雪だ。
王都では春の陽気が漂い始めていたというのに、ここでは冬将軍がまだ我が物顔で居座っている。
「……お腹、すいたなぁ」
口から漏れた言葉は、白い湯気となってすぐに消えた。
私の名前はエレナ・フォレスティ。
つい一ヶ月前までは、フォレスティ公爵家の令嬢として、何不自由ない生活を送っていた。
それが今では、着の身着のまま、世界の果てへと送られる罪人同然の身だ。
脳裏に蘇るのは、王宮の舞踏会での出来事。
きらびやかなシャンデリアの下、婚約者であった第二王子カイル様が、私を指差して叫んだあの声。
『エレナ・フォレスティ! 貴様のような、料理人の真似事しか能のない女は、我が国の王太子妃にふさわしくない!』
周囲の貴族たちがざわめく中、カイル様は私の隣にいた聖女様……アリスの肩を抱き寄せた。
アリスは強力な『聖なる光』の魔法が使える、稀代の魔法使いだ。
対して私は、攻撃魔法も治癒魔法も使えない。
使えるのは、この世界では「ハズレスキル」と嘲笑われる『調味料作成』だけ。
『魔王軍の脅威が増す昨今、次期王妃に必要なのは強き力だ。貴様のような役立たずは、辺境の砦へ行き、兵士たちの雑用でもして罪を償うがいい!』
罪って何よ。
スキルが戦闘向きじゃないことが罪なの?
そもそも、私がいつ料理人の真似事をしたというの。
ただ、趣味でこっそりと厨房に入り浸っていただけなのに。
「はぁ……」
ため息をついた瞬間、馬車が大きく跳ねて停止した。
御者台からドンドンドン、と乱暴に壁を叩く音がする。
「おい、着いたぞ! さっさと降りろ!」
御者の男は、私を荷物か何かだと思っているらしい。
重い扉を押し開け、極寒の外へと足を踏み出す。
頬を刺すような冷たい風。
思わず身を震わせながら顔を上げると、そこには巨大な黒い壁がそびえ立っていた。
オルデン砦。
魔物の領域と、人間の国とを隔てる最前線の要塞。
そして、今日から私の牢獄となる場所だ。
「……お前が、王都から送られてきた女か」
吹雪の向こうから、地響きのような低い声が響いた。
雪を踏みしめ、一人の男が歩み寄ってくる。
大きい。
それが第一印象だった。
漆黒の甲冑に身を包み、背中には身の丈ほどもある大剣を背負っている。
濡れたような黒髪は短く刈り込まれ、前髪の隙間から覗くのは、獲物を狙う猛禽類のような鋭い金の瞳。
左頬には、頬骨から顎にかけて古傷が走っていた。
ジークフリート・フォン・オルデン辺境伯。
その冷酷無比な戦いぶりから「北の魔王」と恐れられる、この砦の主だ。
私は慌てて背筋を伸ばし、カーテシーの礼をとった。
「は、初めまして。エレナ・フォレスティと申します。この度は──」
「挨拶はいい」
私の言葉を遮り、ジークフリート様は冷ややかな視線を投げかけてきた。
その瞳には、私への興味など欠片もない。あるのは、ただの邪魔者を排除しようとするような冷徹な光だけだ。
「王都の連中が何を考えているのかは知らんが、ここは遊び場ではない。魔物と殺し合う最前線だ」
彼は一歩、私に近づいた。
圧倒的な威圧感に、思わず後ずさりそうになる。
「お前のような、温室育ちの令嬢に何ができる? 剣が振れるのか? 魔法でワイバーンを落とせるのか?」
「い、いいえ。それは……」
「ならば、邪魔だけはするな。自分の身は自分で守れ。ここでは、役立たずから先に死んでいく」
それだけ言い捨てると、彼は私に背を向け、大股で砦の中へと入っていってしまった。
「……かんっじ悪い!」
彼が見えなくなったのを確認してから、私は小さく悪態をついた。
なによ、あの言い方。
確かに私は戦えないけれど、別に遊びに来たわけじゃないわ。
生きるために来たのよ。
案内されたのは、砦の北側にある石造りの小部屋だった。
家具は硬いベッドと、ガタつく机が一つだけ。
暖炉はあるけれど、薪が湿っているのか火の付きが悪く、部屋の中は外と変わらないくらい寒い。
「これが追放令嬢の末路ってわけね……」
荷物を床に置き、ベッドに腰を下ろす。
マットレスは薄く、藁が飛び出している。
王都のふかふかベッドが恋しいけれど、贅沢は言っていられない。
ぐぅぅぅ……。
盛大にお腹の虫が鳴いた。
そういえば、朝から何も食べていない。
緊張と寒さで忘れていたけれど、私の胃袋は限界を訴えていた。
コンコン、と扉がノックされたのは、ちょうどその時だった。
「入れ」
返事をすると、無愛想な兵士が顔を出した。
「夕食の時間だ。食堂へ来い」
食事!
その単語を聞いた瞬間、私の心に光が差した。
辺境伯領といえば、厳しい自然環境で育ったジビエや、独自の食文化があるはず。
不愛想な辺境伯のことだから、食事には期待できないかもしれないけれど、温かいスープくらいはあるだろう。
私は期待に胸を膨らませ、兵士の後について食堂へと向かった。
◇
食堂は、数百人の兵士たちでごった返していた。
汗と鉄と、男たちの熱気が充満している。
私が足を踏み入れると、一瞬だけ喧騒が止み、無数の視線が突き刺さった。
「おい見ろよ、あれが噂の公爵令嬢か?」
「へえ、美味そうな身体してんじゃねえか」
「どうせ三日で泣いて逃げ出すさ」
下卑た囁き声が聞こえてくる。
私は聞こえないふりをして、配膳の列に並んだ。
厨房のカウンターには、大鍋を持った料理人が立っている。
私の番が来ると、彼は面倒くさそうに木製のボウルに何かを注ぎ、皿に何かを乗せて突き出した。
「ほらよ。残すなよ、お嬢ちゃん」
「あ、ありがとうございます……」
トレーを受け取り、空いている席を探す。
部屋の隅に座り、私は改めて目の前の「夕食」を凝視した。
まず、スープ。
灰色がかった茶色の液体の中に、泥まみれの根っこのようなものが浮いている。
具はそれだけ。
湯気からは、食欲をそそる香りではなく、古びた雑巾のような匂いが漂っている。
次に、メインディッシュらしき肉。
黒くて、薄くて、硬そう。
まるで古タイヤの切れ端だ。
これは一体、なんの肉なのだろう。
そして、主食のパン。
黒パンだとは思うけれど、どう見ても石だ。
試しに爪でコンコンと叩いてみると、カンカンと高い音が返ってきた。
武器かな?
「……これを、食べるの?」
周囲を見渡すと、兵士たちは無言でこの物体を口に運んでいる。
誰も笑顔ではない。
ただ、生きるための燃料補給作業を行っているような光景だった。
ふと、部屋の中央にある上座に目を向けると、そこにはジークフリート様がいた。
彼もまた、同じものを食べている。
眉ひとつ動かさず、黙々と。
彼が食べているなら、毒ではないはず。
私は意を決して、スプーンを手に取った。
「いただきます……」
まずはスープから。
恐る恐る液体をすくい、口へと運ぶ。
――ズズッ。
「……っ!!」
衝撃が走った。
まずい。
圧倒的に、暴力的なくらい、まずい!
塩辛いお湯に、土を溶かしたような味。
出汁の旨味なんてものは皆無で、ただただ塩分とエグみが舌を攻撃してくる。
浮いている根っこは『マッドルート』だろうか。
繊維が口の中に残り、飲み込むのが苦痛だ。
涙目になりながら、なんとか飲み込む。
次は肉だ。
これは『ワイルドボア』の干し肉だろうか。
ナイフとフォークを使おうとしたけれど、全く切れる気配がないので、手で掴んでかじりつくことにした。
――ガリッ。
「……うぐっ」
硬い。
岩塩の塊を噛んだのかと思った。
顎が外れるかと思うほどの弾力と硬度。
必死に噛み締めると、口の中に広がるのは、強烈な獣臭さと血生臭さ。
下処理も、臭み消しもされていない、ただ乾燥させただけの肉塊だ。
「な、なんなのこれ……」
私は絶望した。
これが食事?
こんなものを、毎日食べているの?
周りの兵士たちの顔色が悪いのにも納得だ。
こんな、栄養も喜びもない食事じゃ、魔物と戦う気力なんて湧くはずがない。
心まで荒んでしまうわ。
最後に、黒パンに手を伸ばす。
スープに浸して少し柔らかくしてから、口に入れた。
酸っぱい。
発酵が進みすぎているのか、あるいは粉の質が悪いのか。
ボソボソとした食感と強烈な酸味が、私のささやかな希望を粉々に打ち砕いた。
カチャン。
私はスプーンを置いた。
これ以上は無理だ。
食べ物を粗末にするのは嫌いだけれど、これを全部食べたら、明日、私は生きて目覚められないかもしれない。
ふと顔を上げると、遠くの席でジークフリート様が食事を終え、席を立つところだった。
彼は一度も「美味しい」とも「不味い」とも言わなかった。
ただ、義務のように皿を空にしただけ。
その背中が、ひどく寂しく見えた。
この人は、食事を楽しんだことがないのだろうか。
美味しいものを食べて、幸せな気持ちになったことがないのだろうか。
「……許せない」
ふつふつと、怒りが湧いてきた。
私を追放したカイル様への怒りではない。
この豊かな食材の可能性を殺し、ただの「エサ」に成り下がらせている、この砦の食環境への怒りだ。
私は公爵令嬢エレナ。
食べることが何よりも大好きで、美味しいもののためならどんな苦労も厭わない女。
「決めたわ」
私は拳を握りしめた。
周りの兵士たちが、突然立ち上がった私をぎょっとして見ている。
こんな食事じゃ、私はここで生きていけない。
だったら、変えてやる。
私のスキル『調味料作成』を使って。
戦闘には役に立たないかもしれない。
でも、この絶望的な食卓を救うことくらいならできるはず。
あの鉄仮面のような辺境伯様に、「美味い!」と言わせてやるんだから!
私は残りの干し肉をナプキンに包んでポケットに入れた。
これは後で、私のスキルで極上の料理に変身させるための実験材料だ。
「待ってなさい、オルデン砦。私の『飯テロ』で、全員の胃袋を掴んでみせるわ!」
食堂の出口へ向かう私の足取りは、来る時よりもずっと軽かった。
お腹はペコペコだけれど、心は燃えていた。
私の戦いは、ここから始まるのだ。




