ようやく自由にしてくださって感謝いたします
「ここに――セリーナ・グランベルとの婚約を破棄する!」
高らかな声が響いた瞬間、煌びやかな舞踏会場の空気は一変した。天井のシャンデリアが照り返す光の下で、貴族たちのざわめきが波のように広がる。誰もが予想外の宣言に息を呑み、そして私の反応を待った。
王太子アルベルト殿下の隣に立つのは、男爵家出身の令嬢リリア。薄紅色のドレスに身を包み、わざとらしく涙を浮かべていた。殿下はその肩を抱き寄せ、まるで舞台役者のように声を張る。
「彼女こそ、私の真実の愛だ。セリーナ、お前の冷たい心では王妃は務まらぬ!」
……筋書き通り、という顔だ。きっと彼らは、私が取り乱し、泣き崩れる姿を望んでいるのだろう。哀れな令嬢と嘲笑し、リリアを正当化するために。
だが私は、静かに微笑んだ。
「殿下。そのお言葉を、心よりお待ち申し上げておりましたわ」
その瞬間、会場の空気がぴたりと止まった。
リリアの目が驚きで大きく見開かれる。涙を振りまいて同情を得るはずの舞台が、私の一言で崩れ去ったからだ。
「な、何だと……?」
「ご存知ないでしょうが、私はすでに王へ婚約破棄の申請を提出済みです。理由はもちろん、殿下の数々の不貞と職務怠慢にございます」
私の言葉に、周囲から押し殺した笑いが漏れた。
私は懐から小さな包みを取り出す。中には手紙の写しや会計帳簿。殿下がリリアへ贈った贅沢品の明細と、密会の記録だ。
「こ、これは……偽造だ!」
「ご安心ください。証人は宰相閣下、そして王直属の監査官。偽造などという言い逃れは通りません」
アルベルト殿下の顔が青ざめていく。彼は周囲を見渡すが、誰一人助け舟を出す者はいなかった。むしろ貴族たちは、ようやく表立って笑う口実を得たとばかりに冷ややかな視線を投げる。
「殿下、私にとって今日ほど清々しい日はございません。ようやく自由にしてくださって……ありがとうございますわ」
深々と一礼し、私は背を向けた。
◆
舞踏会を去った私の隣には、一人の青年が歩いていた。
宰相補佐官エドガー。幼い頃から私を支え、誰よりも誠実に努力を認めてくれた人だ。
「セリーナ、本当に良かったのか? 王妃の座を手放して」
「望んだことですわ。あの人の隣に立ち続ける方が、牢獄でしたもの」
思わず口元が緩む。
私は決して「冷たい女」ではない。冷たさを装わなければ、殿下の無関心と嘲笑に押し潰されてしまうからだ。けれどエドガーは、私の努力も涙も知っていた。
「これからは、あなたの隣に立ちたい。……許していただけますか?」
私の問いに、彼は優しく微笑んだ。
その笑みだけで、十年の苦痛が報われた気がした。
◆
一方その頃、王城では激震が走っていた。
王は激怒し、殿下を呼びつける。リリアの涙はもはや武器にならない。むしろ男爵家の娘が王家を揺るがすほどの不祥事を招いたと責められていた。
「お前に王太子の資格はない!」
雷鳴のごとき王の声。アルベルト殿下の地位は剥奪され、辺境へと追放されることが決まった。かつて彼を取り巻いていた取り巻きの貴族たちは蜘蛛の子を散らすように離れ、残ったのは泣き喚くリリアだけ。だがそのリリアもすぐに実家へ送り返され、冷たい仕打ちを受けたという。
◆
そして数か月後。
私はエドガーとともに、新たな生活を始めていた。王妃ではなく、ただの一人の女性として。庭園で花を育て、本を読み、時には街へ出かける。心からの笑顔を見せられる日々。
「セリーナ、今幸せか?」
「ええ。ようやく、胸を張ってそう言えますわ」
私の答えに、彼はそっと手を握ってくれる。その温もりは、何よりの宝物だった。
――アルベルト殿下。
あなたに言いたいのはただ一つ。
「ようやく自由にしてくださって感謝します」
それが、私からあなたへの最後の言葉である。
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