美の殉教者
ひとつ前の作品と同時進行で執筆していた不思議な雰囲気の作品です。
温度差が酷い。
”
美しさとは自由である
美しさとは絶対である
美しさは実存に拠らぬものである
故に、倫理に先立つものである
善悪を超越するものである
諸君にはあるか
美しいものを目の当たりにして
魂の震えた経験が
膝を折り、涙を流し、地に額を塗りつけて咽び泣いた経験が
あるならば、
私の言わんとすることも
自ずと理解できよう
私は美しさのために死ぬ
私は美の殉教者なのだ
”
とある女を殺害し、彼女の肉を喰らった罪で投獄された死刑囚の男による、
獄中手記の冒頭である。
まったく、くだらない。馬鹿げている。
誰もがそう考えた。
しかし、その10年後、刑が執行され、事件の話題性も色褪せてきた時分、
別の事実を示す品が見つかった。
女から男に宛てた手紙であった。
曰く。
”
ああ、恨めしい。
何もかもが思い通りになるというに、
ただ一つ、時間というものだけは、
残酷に私の身体を蝕んでいきます。
私はもう死ぬ他ありません。
しかし、ただで死ぬのでは仕方ありません。
私は愛するあなたの手にかかって死にたい。
”
手紙には殺害方法や時刻が仔細に書かれていた。
彼女を殺してその肉を喰らうという悪魔の所業は、
その実、彼女自身の指図であったのだ。
そして、手紙の最後には案の定、
あの文章とそれを獄中手記として残すことが命じられてあった。
彼女にとって死は美学の一部であった。
美の殉教者とはとどのつまり彼女のことであった。
ところで、いくら愛しい相手だったからといって
自分を殺してほしいなどという
荒唐無稽な要求をおいそれと引き受けたのだろうか。
今となっては、確かめる術はないが、
その女の器量の並々ならなかったことを考えると、
男もまた、美の殉教者であったのだろうか。
あるいは、彼女から男に宛てた手紙も
男の小細工で……いやはや妄想逞しい。