8 ……誰もいない
とりあえず落ち着け、加藤。
ちょっと現実離れした状況にはなってるけど、ここで取り乱しても何も解決しない。
できることから一つずつやっていきましょう。そうしたらきっと見えてくるものもあるだろうから。
落ち着け落ち着け。えーと、まずは。
俺は厳島から事情を聞くことにした。
いや、最初からそうすればよかったんだけどさ。でも、こんなことになるなんてまさか夢にも思わないでしょう?
俺、いまだに夢じゃないかなーって思ってるもの。
現実感、薄いんだよな。学校が見えない壁に囲まれていて、そこから出ることが叶いませんって。
「えーと、厳島?」
半笑いの俺が厳島を見ると、彼女は首を振った。
いや、首を振られましても。
「要は、あれだな? この見えない壁のせいで厳島は学校から帰れなくなった、と」
厳島が小さな声で何か言った。
やべえ。全然聞こえねえ。俺の耳がおかしくなった? いいえ、厳島さんの声が小さすぎるのです。
「ん? なんて?」
「……じゃないよ」
また小さな声。
いやー、俺の知ってる厳島はそんなに元気のない子ではなかったんだけどなぁ。
隣の席どうしでいつも問題なくおしゃべりしてたじゃないの。
こんな、コミュニケーションに支障を来すほどの小声の使い手ではなかったでしょうが。
ただ、今の言葉。
かろうじて聞こえた語尾から察するに、なんとなく俺が否定されたようにも聞こえますな。
「ごめん、厳島。聞こえないわ。もう一回」
人差し指を立ててアンコールすると、厳島はもう一度、さっきより気持ち大きな声で喋った。
俺は英語のリスニングでもここまで、というくらい真剣にその言葉を聞き取った。
「出られないだけじゃないよ」
厳島は、そう言っていた。
これは、どういう意味でしょうか。
出られないだけじゃない。
見えない壁に帰り道を奪われている、というこの超常事態にさらに追加のトッピングが付いているということでしょうか。
「あと、何かまだあるのか?」
「……誰もいない」
厳島は言った。
「私たち以外、誰もいない」
「ああ、それは……」
俺は、なんだそんなことか、と胸を撫で下ろす。
「厳島。そりゃ、この時間に学校にはもう誰もいないぜ」
二十四時間、警備員さんが常駐しているような学校ではないからな。
昔は順番に先生が泊まり込む宿直なんて制度もあったらしいけど、今の時代、そんな意味のないことはしないのです。働き方改革!
しかしまた厳島に首を振られてしまう。
「そうじゃなくて」
「え?」
「この街。この国。分からないけど、この世界」
厳島の声が震えた。
「とにかく、誰もいないの」
俺はポカンとした。
なんだか、話がずいぶん大きくなったように聞こえました。
この国。この世界。誰もいない?
「誰かに会った?」
厳島が顔を上げて俺を見た。
真っ赤な、泣きはらした目。
「加藤くん、ここに来るまでに誰かに会った?」
ここに来るまでに?
誰かに?
「会ったよ」
俺はとりあえず、そう答えた。だって、会ってないわけないんだから。
日本っていう狭い島国の、それも住宅街に住んでるんだから。
会わないわけないでしょ。東京ほどじゃないかもしれないけど、これでもこの辺の人口密度、結構えぐいんだからね。
俺は、記憶をたどる。
えーと、家で、厳島の電話を受けてから、着替えて財布と携帯だけ持って……親に気づかれないように玄関からこっそり出て……。
暗い道を、やけに静かだなー、なんて思いながら自転車をこいで……。
学校に着いて、厳島の姿が見えないから、外壁沿いに回り込んで通用口から……。
……。
………。
いや、俺もここに来るまで、妙に人通りがないとは思ってたけど。
改めてそう言われてみると、誰かとすれ違ったっけ……?
「会ったよ」
俺はもう一度言った。
会った気がする。会ってなきゃおかしい。
時間的に、歩行者はいないかもしれない。だけど、一台の車にもすれ違ってない訳がない。
車だってカウントしていいんだよな。車が走ってるってことは、その中に運転してる人が乗ってるわけだから。
日本は車社会ですよ。さすがに車にはすれ違ってる筈だ。
俺の記憶の中に、自分のほかに走る者とていない夜の道路が浮かび上がる。車を気にせず走る道路を、正直、ちょっと気持ちいいな、と思っていた。
いや、だって。それは、さあ。
厳島が俺の顔をじっと見つめてくる。
いつもなら、照れて目をそらしてしまうような、まっすぐな視線。今、俺は別の意味で目をそらした。
いたはずだ。ここに来るまでに、誰かが。
必死に自転車を漕いでたから意識しなかっただけで。
そういえばあのとき、とか。あそこで、とか。
だが、考えれば考えるほど、誰ともすれ違っていない気がしてきた。
とうとう俺は、厳島に弱々しく聞き返した。
「会ってないかもしれないけど、それが何か……?」