7 出られる、の?
しばらく、肩を震わせてしゃくりあげた後で、厳島はようやく泣き止んだ。
「誰かに何かされたのか」
一番心配なことを訊いてみたが、厳島は首を振った。
「誰にも、何にも、されてない」
「おお、それならよかっ……」
よかった、と言いかけて、それも違うな、と思い直す。
「じゃあとりあえず、どっか座るか」
厳島を落ち着かせてやりたくて、俺は部室棟の下のベンチを指差した。あそこなら明るいし、角度的に外からも目立たない。
だけど、厳島に首を振って拒否されてしまった。
「ベンチはいい。座りたくない」
「お、あ、ああ、そうか」
厳島の言葉に動揺を隠しきれない俺。
……めっちゃ警戒されておる。
座りたくないって。隣に俺が座るのが嫌なら、俺だけ立ってても別にいいけど。
っていうか、俺いつも教室であなたの隣に座ってるよね。
あ、教室の席と違ってベンチは繋がってるから嫌なのか。あのベンチが真ん中からぶった切ってあればいいのか。
心に吹き荒れたそんな嵐をおくびにも出さず、俺は自分が今来た方を振り返った。
入ってきた通用口は、もう校舎の影で闇に包まれてしまっていて、ここからじゃよく見えない。
「と、とりあえず、学校出るか」
俺の提案に、厳島が顔を上げた。
泣いていたせいで目は赤かったけど、暗い中にずっといたためか、黒目が大きくぱっちりとなっていて、いつもの厳島と雰囲気が違う。
平たく言うと、可愛い。いや、可愛いのはいつもなんだけど。なんというか、非日常感がある可愛さというか。
「こんな時間だしさ。確か、厳島って電車通学だっただろ。終電って何時だろ、まだあるのかな」
……ごめんなさい。
確か、とか言ってかっこつけてごめんなさい。
知ってます。とっくに熟知してます。
厳島は電車通学です。結構遠くから通ってます。
それで俺は自転車通学です。近くに住んでます。
たまに部活帰りに意味もなく駅前を通って遠回りして帰ったりするのも、もしかしたら厳島に偶然会ったりするんじゃないかという嫌らしい計算があってのことです。
でもあんまり露骨にやりすぎるとストーカーみたいで自分が嫌いになるので、一週間に一回くらいしかやってません。
しかも、それで会えたこと、一回もありません。
「出る、の?」
厳島が上目遣いで俺を見上げて、そう聞いてきた。
「え?」
厳島がもう一度俺に尋ねる。今度は少し言い方が違った。
「出られる、の?」
……ん?
厳島の言うことは、今一つ分からなかった。
なんだ、これは。あれか。恋の駆け引き的なやつか。
学校から出たいけど、出たくない。出たくないけど、やっぱり出たい。どういう意味でしょうか。
ほら、私の気持ちを読んでみてよ、みたいな。
女っていうのはね、出たいけど出たくない生き物なのよ。などという、いい女の格言みたいなことをまさか厳島が言い出すとは思わないけど、それにしてもよく分からない。
俺、謎かけとか苦手なんだよ。ぴんと来ないというか。
出たくないけど出たくて、出たいけど出たくないもの、なーんだ。
答えは、猛吹雪の日の、くそ熱い露天風呂。
なんでかっていうと、早く出ないとのぼせちゃうけど、出たら凍え死んじゃうから。
そんなしょうもない答えしか出ない。もちろん、今夜は月も出てるし、今は九月だし、ここは熱め設定がデフォの露天温泉でもない。
「学校から出たくないのか?」
分からないままにそう訊いてみると、厳島は慌てたように首を振る。
「えっ、ううん。出られるなら……出たい」
うん、よく分からないけどとりあえず「出たい」いただきました。
了解。それで行きましょう。
「じゃあ出ようぜ」
とにかく今日はもう遅い。何でこんな時間まで学校にいたのか、詳しい事情は厳島もあんまり話したくないみたいだし、明日も学校がある。
今日のところはとにかくさっさと帰るのがベストだ。下手に街をうろうろして警察に補導でもされたらシャレにならない。
俺が先頭に立って、さっき入ってきた通用口に向かう。厳島は黙って俺の後ろをついてくる。
通用口が見えてきたところで、俺は一つの可能性を思いついた。
……もしかして、あれかな。
厳島って真面目だから、正門が閉められちまった段階で、もう学校から出られなくなったと思いこんじゃったのかな。
まだ一年だし、通用口の存在って意外と知られてないからな。
「俺、ここから入って来たんだ」
通用口の前で、俺は厳島を振り返った。
「……ここから」
厳島は、手を自分の胸の前で組んで、通用口を見つめている。
ここを通って入って来たなんて信じられない。まるでそうとでも言いたいような顔だった。
「ここの通用口、二十四時間開いてるんだぜ」
俺は若干ドヤ顔で厳島にそう説明して、通用口の錆びた扉を引いた。
……びくともしない。
あれ?
もう一度、引くが、やはり結果は同じ。
「間違えた」
俺は、てへへ、と頭を掻いた。
「引くんじゃなくて、押すんだったかな」
俺は押した。力いっぱい。
やっぱりびくともしなかった。
「……開かない?」
後ろから、厳島が尋ねてきた。
振り返ると、また泣き出しそうになっている厳島と目が合った。
「加藤くん、ここから入ってきたんでしょ? 開かないの?」
「開きますよ?」
俺は、少々むきになった。
ドヤ顔でここが開いてると言ってしまった手前もあった。
さっき通って来たばかりの扉が、こんなに固い意味も分からなかった。
「ふぐっ」
俺は全力で、押して、引いて、押して、引いて。開けようとした。だけど、扉はびくともしなかった。
どこかで引っかかってる、とかっていうレベルじゃない。
もはや、扉が門と一体化してしまってるっていうレベルの固さだ。もう少し頑張れば開くんじゃないかっていう期待を微塵も感じない。
「……何だ、これ」
「やっぱり、だめ?」
後ろで厳島の声。
やっぱり? やっぱりって、どういうことだよ。
その言い回しが気になったが、今はこの状況を打破することの方が先決だった。
「この程度の柵、越えちまえばいいだけだし」
俺は脇の壁に足を掛けて、柵を掴んだ。
その通り。俺、いいこと言った。
扉が開かないなら、柵ごと乗り越えるまでだ。
平均的な男子高校生の体力をもってすれば、こんな柵、いくらでも乗り越えられるのだ。
俺は思い切り身体を柵の上に引き上げた。
「あっ、危ないよ!」
厳島が声をあげる。
冗談じゃない。
小学生の木登りじゃあるまいし、この程度の柵を越えるのに、気を付けるも何も……
鈍い音。
衝撃。
「いってぇ……!」
鼻が、つーん、とした。涙が滲む。
柵の少し上の空間。
何もないそこに、俺は思い切り顔面をぶつけた。
最初、何が起きたのか分からなかった。
何もないのに、何かある。とんでもなく硬い、壁みたいなものが。
だけど、何も見えない。一点の曇りもないくらい透明な強化ガラスにでもぶつかったような感覚だった。
みんな一度は経験があると思うけど、予想外のところから突然来た痛みって、来るぞ来るぞと覚悟してた痛みより、何倍も痛いよね。
それでも俺が体勢を立て直してかっこよく着地したのは、誉めてもらいたい。
「厳島、これは一体」
何事もなかった風を装ってそう言いかけた俺に、厳島が心配そうな顔でティッシュを差し出してきた。
「加藤くん、鼻血」
「え? お、おお……」
思い切りぶつけたもんな。そりゃ鼻血くらい出るよな。
厳島からティッシュを受け取り、鼻に詰める。
うーん、かっこ悪い。
厳島の手元の、チェック柄のティッシュカバーが目に入る。
やっぱり女子はちゃんとそういうの使ってて偉いよな。
俺なんか万が一の腹痛のために、駅前のマッサージ屋のおじさんが配ってるポケットティッシュをそのまま鞄に突っ込んでるだけだもんな。
なんてことは今、どうでもよくて。
頭が混乱している。
見えない壁みたいなのが、この学校を覆ってしまっているようだ。
厳島の言うとおり、これは『学校から出られなくなった』というやつなのか。
もう一度、通用口の上の空間を見上げる。
何もない。
何もないようにしか見えない。
ええい、ネバーギブアップだ。俺はまた柵を掴んだ。
脇の壁に足を掛けて、今度は慎重に、自分の身体をゆっくりと持ち上げる。
こつん。
額が、目に見えない壁に触れた。
首に力を入れて、そのまま頭で押してみる。
びくともしない。
どれだけの厚さ、硬さがあるのか想像もつかなかった。目に見えない以上、視覚情報も何もないからだ。
金属的な冷たさは一切感じない。ただそこに、通り抜けられない『壁』がある。それだけは、はっきりと分かった。
片手を離して、そっと伸ばしてみる。手の届く範囲、どこもその『壁』に阻まれた。
……こりゃだめだ。
俺は、今度こそ華麗に着地した。
振り返ると、泣きそうな顔の厳島がまだ俺を見ていた。
「これは、あれか」
俺の言葉は、きっと厳島には死ぬほど頼りなく聞こえただろう。
でも仕方ない。だってそう言うしかないだろう。
「俺も、学校から帰れなくなったぞ」