6 来たぜ
夜道。
雨が降ったわけでもないのに、妙に湿った空気が身体にまとわりついてくる。
夜十時をとっくにまわってるんだ。もう深夜と呼ばれる時間帯に入りかけている。
健康優良児の俺は普段、こんな時間に外をうろついたりはしないんだが、今日は緊急事態だ。
厳島が、俺に助けを求めてきている。行かないなんて選択肢はない。
アンケートでいえば、
厳島可織があなたに「助けて、加藤くん」と言っています。あなたが取るべき行動を一つ選びなさい。
A いざ鎌倉! すぐさま助けに駆けつける。
B 全身全霊を尽くして厳島を救う。
C この命と引き換えにしても厳島のピンチを救う。
D 力及ばず、加藤は死んだ。だが、後悔は微塵もない。
俺の回答は、AとBとCだ!
Dにはならないことを祈るぜ!
下はジーンズ、上はTシャツにパーカーを引っかけただけの服装で、俺は自転車を漕いでいた。
行き先は、蒼神高校。俺の通っている学校だ。
人通りが全くないのは、もうこんな時間だからなのか。普段は外に出ない時間だから、その辺のことはよく分からない。
とにかく自転車のライトの灯だけを頼りに、高校への道を急ぐ。通い慣れた道なのに、暗くて人通りがないというだけで何だか見知らぬ道のようにも感じる。
厳島は俺に電話で、学校にいる、と言った。
ここから帰れなくなってる、と。
それだけ言って、電話はすぐに切れてしまった。
その後こっちからかけ直そうとしたけど、もう繋がらなかった。
何かが起きている。
厳島の身に。
それも、きっとあまり良くないことだ。
俺は財布と携帯だけ持って、親に気付かれないようにこっそりと家を抜け出した。
玄関のドアを閉めるときに大きな音を出してしまって少し焦ったが、幸い、いつもは耳敏い母親も気付かなかったようで、顔を出さなかった。
いつもの二倍くらいのペースで自転車を飛ばす。
ぐりんぐりんと足を回す。マンガで言ったら、俺の足は今ぐるぐるの渦巻きだ。
息は多少切れるが、日頃部活で鍛えている肺活量をここで生かさず、いつ生かすというのか。
自分の肺に「死ぬ気で働けぃ」と命令し、思い切りペダルを漕ぐ。
肺細胞たちは、自分たちが脚光を浴びる晴れの舞台に張り切って、日頃の訓練の成果を見せるは今ぞ! 見せるは今ぞ! と連呼していたが、途中から切るところがおかしくなってきて、見せるワイ、マゾ! 見せるワイ、マゾ! というなんか関西のアブノーマルな人みたいな連呼になってきたので、一旦肺細胞を黙らせて静かに自転車を漕いだ。
そのまま誰ともすれ違うことなく、俺は高校にたどり着いた。
厳島はどこにいるんだろう。
学校の外周をぐるりと回ってみたが、厳島の姿はない。
言っていた通り、本当に学校の中にいるのだろうか。何で、こんな時間にまだ残ってるんだろう。
学校の敷地内だったとしても、電話から判断するに、あの雑音はきっと外だ。建物の中じゃない。
正門は当然のごとく閉まっていた。
だが、俺は知っている。
先生たちが夜遅くに帰るときのために、西側の古い通用口だけはいつも鍵がかかっていないということを。
見てないようで、実は見ている。現役高校生の目敏さを舐めるんじゃねえぜ。
自転車を高校の外壁に沿って走らせる。
身体を思い切り倒して、角をぎゅぎゅっと曲がる。
あった。通用口。
自転車を歩道の端に停めると、錆びた扉に手をかける。
軽い感触。よしよし。やっぱり開いてる。
音がしないように、そうっと扉を押し開けて、中に入る。
目の前に広がる校舎からは一つの明かりも見えない。
どこの教室にも電気は点いていない。
そりゃそうだ。
こんな時間まで生徒が居残りやってるわけないし、試験前みたいな忙しい時期以外は先生だって残っちゃいないよな。
この真っ暗な校舎に、厳島がいるとはとても思えない。
やっぱり、外だな。
学校というからには、きっとこの敷地内のどこかにいるのだろう。
「おーい、厳島。来たぜ、どこだー?」なんて大声で叫べたら楽なんだけど、そんなことをしたら俺が学校に忍び込んでることがバレバレだ。
下手したら近所の人に通報されて、大変なことになる。厳島にも迷惑が掛かっちまうだろう。だから、静かに探さないとならない。
俺の考える、厳島のいるであろう場所は……。
① 部室棟の裏辺り。
② グラウンドの隅。
この二択かな。
何でかって言えば、その辺には街灯があるからだ。
厳島が今、一人でいるのか、それとも誰かと一緒なのかは分からないが、いずれにせよ、この時間に真っ暗な場所にいるのは、俺だっておっかない。だから、なるべく明るいところにいようとするんじゃないだろうか、というのが予想の根拠だ。
そしてさらに重要なポイント。この二か所には、ベンチがあるのだ。
外で、ちゃんと座れる場所っていうのは貴重だからな。
校舎の裏にもベンチはあるけど、あそこには街灯はないし塀は高いしで、多分自分の手もよく見えないくらい真っ暗なはずだ。そんなところに厳島はいないと思う。
よし。候補を一つずつ潰していこう。
とりあえず俺は校舎の脇を抜けて、グラウンドに出た。
いつも部活でお世話になっているグラウンドは、今までそう広いと思ったことはなかったけど、こうやって真っ暗な中に一人でぽつんと立つと、やたらと広く感じる。
まるで夜の海だ。
どこまで続くか分からない闇に覆われているような気にすらなってくる。
もちろんそんなことはなくて、ほら。たとえば、ちゃんと向こうの部室棟の下は街灯の灯でよく見える。
あそこのベンチに、厳島は……いないな。
部室棟の下にいないってことは、向こうの隅のベンチに……
「加藤くん」
急に声をかけられて、俺は「ひうっ」と叫んだ。
1.5メートルほど飛び退いて振り返ると、そこに俺の探していた女子が立っていた。
よかった、いた。
「厳島。おどかすなよ。寿命が三年くらい縮んだぜ」
ええい、おさまれ心臓。大してビビってないというアピールをしつつ、そう声をかける。
しかし厳島は、信じられないものを見るような顔で俺をじっと見つめている。
「……厳島?」
俺も気付いた。
制服だ。
厳島はまだ制服姿だった。いつもの鞄も肩に提げている。
ということは、まだ家に帰っていないのだろうか。
さっきの電話での、ここから帰れなくなってる、という厳島の言葉は本当だったのか。
「……厳島? ……大丈夫か?」
あまりに反応がないので、おそるおそるもう一度声をかけてみると、厳島の瞳から突然ぽろぽろと涙がこぼれた。
「加藤くん……加藤くんだよね」
「お、おお」
俺は頷く。
「加藤くんだぜ。隣の席で、いつも豊富な話題を提供してくれる加藤くんだ」
「よかった」
厳島はそう言って、両手で顔を覆った。
「もう、誰にも会えないのかと思った」
その肩が震えていた。
「よかった……加藤くんが来てくれて」
初めて聞く、厳島の涙声。
それに激しく動揺しながらも、厳島の言葉が引っ掛かった。
え?
もう誰にも会えないかと思った?
どういうことだ?
その言葉に混乱しながらも、とりあえずは厳島を落ち着かせることが先決だと思った。
「おう。来たぜ」
普段、どうでもいいことはぺらぺらと喋れるっていうのに、肝心な時に俺の口から出てきたのは、そんな平凡な言葉だけだった。
本当だったら、泣いている厳島の肩を抱いて「大丈夫だからもう泣くなよ」とか言ったり。
いや、前からぎゅっと抱き締めて「泣くなら俺の胸で泣けよ」とか言ったり。
いやいや、後ろから包み込むように優しく腕を回して「俺がいるから。心配すんな」とか言ったり。
かっこよく厳島を慰める妄想のシチュエーションは、いくらでも思い浮かぶのに。
だけど、その妄想たちが俺の身体を動かすことはなかった。
結局のところ、俺は「来たぜ」という平凡極まりない一言を言った以外、何をすることもできず、ただその場に立ち尽くしていた。