29 それだけの物語
突き刺すような朝日が眩しくて、俺は目を覚ました。
自分の部屋のベッドの上。スマホを握りしめたまま、俺は完全に寝落ちしてしまっていた。
うわー、マジか。昨日、風呂入ってねえぞ。シャワーだけでも浴びていかないと、隣の席の愛しの厳島に嫌われてしまう。
優しい厳島は俺のことを臭いなんて決して言わないだろうけど、昼休みになってやって来る杉村が俺を汚物を見るような目で見て、
「加藤。今日のお前、なんか臭いな。ドブみたいな臭いがするぞ」
とか言うんだ。それで今日から俺にはドブ加藤っていう忍者みたいなあだ名がついて……
寝ぼけた頭でそこまで考えたとき、昨日の夜の出来事が一気に蘇った。
夜の校舎。厳島の涙。ナイフ。黄昏。それから、厳島の笑顔。
その時の俺の気持ちが分かるだろうか。
え? あれ?
自分の部屋にいるのに、めちゃくちゃ場違いな気分だった。いてはいけない場所にいる気がした。
何で俺、ここにいるんだ? 学校は? 厳島は?
転がるようにしてベッドから起きる。
着てるのは、部屋着。パーカーは壁に掛けてあるし、ジーンズはタンスの中だ。帰ってきて脱いでから寝たって感じじゃない。
夢、なの?
うそでしょ、夢?
それはかなりダメージのでかい話だった。
あんなに頑張ったのに、あんなに厳島のことを考えたのに、それが全部夢?
昨日のこと全部? どこからどこまで?
慌ててスマホの着信履歴を調べてみたが、もちろん厳島の名前はなかった。そもそも俺は厳島の電話番号もメッセージアプリのIDも知らないんだから、当たり前と言えば当たり前だ。
代わりと言っては何ですが、という感じで、昨日の夜に届いたらしい梶川や井口からのメッセージがいくつも未読のまま放り込まれていた。念のためざっと目を通したが、いつも通りの何の意味もないしょうもないやり取りだ。
えー、嘘だろ?
スマホをベッドの上に放り出して頭を抱える。
あんなに鮮明な夢ってあるのか。この腕で厳島を抱き締めたときの、柔らかい感触もいい匂いも全部はっきりと覚えてるのに。
とにかく、学校だ。
諦めきれない俺は、そう結論を出した。
学校に行こう。厳島本人に会って確かめれば一発で分かる話だ。
滝行みたいな勢いでシャワーを浴びて、朝飯もそこそこに、制服を引っかけて家を飛び出す。だけど、そこでいきなり躓いた。いつも家の脇に止めてる俺の愛車(自転車)が、どこにもないのだ。
こんなタイミングで誰かに盗まれたのかよ。
焦りと怒りで頭が沸騰しそうになったが、すぐにもう一つの可能性に思い当たる。
えっ、まさか。
まさか、まさか。
俺は走り出した。全力で。
長距離を走るのは、別に苦じゃない。自転車がないのなら、学校まで走って行くくらいのことは、陸上部員の俺には何でもない。だけど、そうじゃなくて。俺にはすごく気になることがあった。それを一秒でも早く確かめたかった。
だから、学校まで一気に走った。
途中で出くわした友達から「どうした、加藤。朝練にでも寝坊したのか」なんて声をかけられたが、片手だけ上げて追い越した。
そのままの勢いで、学校の通用口の前まで駆け抜けた。
そこに俺の自転車はちゃんと止められていた。昨日の夜ここに止めたまんま、鍵もかけてなかったけど、盗まれもせずにそのまま置かれていた。
ここにこいつが止まってるってことは。
俺は、蒼神高校の見慣れた校舎を見上げる。
やっぱり、俺は昨日の夜ここに来たんだ。
夢なんかじゃない。厳島と二人きりで、あのおかしな世界に閉じ込められていたんだ。
まだ厳島は教室に来ていなかった。
念には念を入れて机の数を数え始めた俺を見て、クラスメイト達は訝し気な顔をする。
「何してんの、加藤くん」
「数の確認だよ」
よし。ちゃんと数は合ってる。杉村の分の机もある。
一人で頷いていると、梶川がやって来た。
「どうした、加藤。ついに自分の席の場所も分かんなくなったのか」
「おう、梶川。お前に会えて嬉しいぜ」
「は?」
「お前のいいところは、顔がいいのに全然気取ってないところだよな。それだけ顔が良きゃもっとマウント取ることだってできるだろうに、俺といつも対等に接してくれて感謝してるぜ」
「は? は?」
梶川は顔をこわばらせて後ずさった。
「何だ、急に。気持ちわりい」
「やっぱり、感謝はちゃんと言葉にして伝えないといけないよな。お前も俺のこと、素直に誉めてくれていいんだぜ」
「何だこいつ、だるっ」
完全に引いている梶川に爽やかな笑顔を向けてから、俺は自分の席に座って両腕を広げる。
「ああ、やっぱり自分の席が一番落ち着くよなあ」
「はあ?」
「あ、そうだ」
梶川の顔を見て思い出した。昨日の杉村との会話。
ちょいちょいと梶川に手招きする。
「な、なんだよ」
様子のおかしい俺に完全に警戒している梶川は、犬の苦手な子供が犬小屋におそるおそる近付くときみたいなへっぴり腰で近付いてきた。
「急に飛び掛かって来るんじゃねえぞ、加藤。その時は俺も手ぇ出すからな」
人を何だと思ってやがる。
「昨日の話、したぞ」
「え?」
「杉村に」
「も、もうしたのかよ」
「杉村、すげえ喜んでた」
「マジか!」
今の今まで俺のことを変質者を見るような目で見てたくせに、梶川は俺の机にかぶりついてきた。
「杉村さん、喜んでくれたのか!」
「おう。どこに遊びに行こうかって楽しみにしてた」
「うおー、ほんとかよ」
梶川は満面の笑みを浮かべて握り拳を作る。
「厳島さんは? まさか、そっちももう誘ったのか?」
「いや、そっちはまだ」
本当は昨日の夜、誘ったんだけど。杉村さんって誰?って言ったあの子は、厳島であって厳島ではない子だったからな。
本当の厳島は、これから来るはず……
「おはようー」
来た!
女子に挨拶しながら、厳島が教室に入って来た。
いつも通りの、穏やかな笑顔。
俺の好きな、いつもの厳島。
もう俺は、厳島も本当はいろんなものを抱えてるってことを知ってしまった。この穏やかな表情の影に、暗い感情を隠しているってことも。
だけどそんなことを全然感じさせないあの姿。誰にでも優しいし、誰の話にでも笑ってくれる、昨日までと同じ厳島。
昨日までと同じ厳島でいられるってことが、どれだけすごいことなのか。今の俺には分かる。
厳島、尊い。
「うおっ」
俺の顔を見て梶川が身を引いた。
「何で泣いてんだよ」
「別にいいだろ」
昨日の夜、闇を背負った厳島を見過ぎたせいだろうか。朝の光に包まれた厳島は、何だろう、神々しい生命力に満ち溢れているような。
まるで、女神だ。
なんて言うと、またあのちょっと黒いほうの厳島に「まさか厳島可織のことを女神だなんて思ってないよね?」って言われてしまうかもしれない。
だけどいいじゃないか。お前が嫌な顔したって構わない。俺には厳島を女神みたいだって思う気持ちを止めることはできないんだから。
それに、女神っていう評価の中には、黒いほうの厳島だって含まれてるんだぜ。
遅ればせながら、俺もやっと気づいたんだ。俺がずっと見てきた厳島は、生きたいと願う方の明るい厳島だけじゃない。あの死にたいと願う方の厳島まで全部合わせての厳島だったんだって。朝の明るさも、夜の暗さも、どっちも偽物じゃなくて、両方が合わさってこその厳島なんだって。
「じゃあ、とりあえず俺は行くわ」
梶川が俺の肩を叩いた。
「杉村さんたちとの話はまた後でな。何か悩みがあるんだったら相談しろよ」
急に人を誉めたり泣いたりしたから、俺のメンタルを心配してくれたんだろう。ありがたいが、今の俺は元気いっぱいだ。泣いたのはただ単に、尊いものを見たせいで心が洗われただけのことだ。
「おはよう、加藤くん」
いつもの笑顔で、厳島が挨拶してくれた。
明るい笑顔。ああ、可愛いな。
突っ立ったままで自分の顔をじっと見つめている隣の席のおかしな男子に、厳島は困ったように笑う。
「どうしたの、加藤くん」
「あ、いや」
我に返って「おはよう、厳島」と挨拶を返す。
「どうしたの、目」
厳島は少し顔を曇らせた。
「何だかちょっと潤んでるみたい」
「ああ、これは」
登校してきた厳島があまりに神々しくて、感動して泣いてしまったんだ。
と言われたらさすがに気持ち悪いだろうな、と慮るくらいの理性は何とか残っていた。
「別に何でもないんだけどさ」
俺はまだ心配そうな顔をしている厳島を見た。
「それより厳島。昨日のことって覚えてるか?」
「昨日のこと?」
厳島がきょとんとする。
「えっと……」
何か特別なことがあったかしら、と考えている顔。これは、覚えてないな。
というか、やっぱり昨日の夜のことは夢だったんだろうか。
また自信が揺らいでくる。あれは、厳島のことが好きすぎて爆発してしまった俺の妄想だったりするのか。
「やっぱりいいや、何でもない。それよりもさ」
俺は強引に話題を変えた。
「今度、杉村と梶川と四人でどこかに遊びに行かないか? 全員の部活が休みの時に」
「……。……えっ」
厳島は一瞬訝しげな顔をした後で、今度は驚いたような声を上げた。その反応に、俺は緊張した。
まさか「杉村さんって誰?」なんて言うんじゃないだろうな。
「不思議」
厳島は言った。
「その話って、今初めて加藤くんにされたんだよね? なのに、なんだか初めて聞いた気がしない。どうしてだろう。私、もう四人で遊びに行くつもりになってた」
そう言いながら、厳島は自分の言葉に笑い出す。
「なんでだろう、図々しいよね。今、加藤くんの話を聞いて、うん、分かってるよって思っちゃった。その話は知ってるよって」
顔を赤くして「変なの。恥ずかしい」と繰り返す厳島を見ていたら、俺も自然と笑顔になった。
やっぱり、昨日のことは夢じゃなかった。
覚えていないのかもしれないけど、きっと厳島の心には刻み込まれているはずだ。
自分が下した決断。生きると決めた勇気の記憶が。
「おはよう!」
杉村が元気に教室に入ってきた。厳島が笑顔のままで俺を見た。
「あ、優香にも話す?」
「うん、そうだな」
俺が頷くと、厳島は笑顔で杉村に手を振る。
「おはよう、優香。ねえ、ちょっと来て」
「おはよう、可織。え、どうしたのー?」
杉村が近付いてくる。何気ない風を装っているが、その顔が少し緊張していて、俺は噴き出しそうになった。
笑うんじゃねえ、加藤。と杉村の目が言っている。はいはい、笑いません。
厳島は、そんな俺と杉村の様子を見て優しく微笑む。
「ねえ、優香。あのね、今度部活が休みの時に」
授業の予鈴が鳴って、テンションの上がった杉村がふわふわと席に帰っていくと、俺はスマホを取り出した。
走って登校しているときから、ずっと考えていた。
今日、厳島に会えたら、絶対に言おうと思っていたこと。
タイミングとか計らなくていい。大事なことっていうのは、思ったその時に言わなきゃだめなんだ。
「厳島、電話番号教えてくれよ。俺の番号も教えるからさ」
突然の申し出に、厳島は目を瞬かせた。それから、すぐに頷く。
「うん、いいよ。嬉しい」
厳島はそう言ってくれた。
「じゃあ私、今日からは家でも加藤くんの面白い話が聞けるんだね」
「おう」
俺は拳で自分の胸を叩く。
「笑いすぎて、親に怒られるなよ」
「うん。気を付ける」
そう言って、厳島が明るく笑った。
これは、平凡な一人の高校生が隣の席の女子に電話番号を教えてもらったっていう、ただそれだけの物語だ。
ありふれた、どこにでもある話。
だけど俺は忘れない。
その裏に、どんな物語があったのか。
閉ざされた学校。
月明かりと、光るナイフ。
厳島が傷ついた心を晒し出してくれた、この世界に二人きりだった夜のことを。
(閉ざされた夜の校舎、君と二人きりで 完)




