26 だせえ
赤色灯が回る。
冷たい空気に満ちた夜中の住宅街が、赤い光に染められている。
だけど、サイレンの音はしない。
それがどういうことなのか、俺にも分かった。
この二台の車は、もう到着しているのだ。だから、これ以上サイレンを鳴らす必要はない。
つまり、ここが現場なのだ。
救急車とパトカーが並んで止まる路地。そこに立つ一軒の家を、俺は見上げた。
見たことのない家。もし見たことがあったとしても、まず覚えてはいないだろうと思える、特徴のない、古くも新しくもない一戸建て。玄関と路地とを結ぶ小さな庭に、枯れかけの鉢植えが二つ並んでいた。
これが誰の家なのか。俺の中にはもう答えがあった。
きっと、ここは。
不意に玄関のドアが開いた。中からこぼれ出た光が路地を照らす。
ドアから出てきたのは、その家の住人ではなかった。
制服の警察官。
警察官はドアを大きく開け放つと、自然に閉まってしまわないようにその前に立つ。それに続くようにして、救急隊員たちが出てきた。彼らが押してきたのは、ストレッチャー。そして、そこに寝かせられているのは。
俺は唇を噛む。
救急車の後部ドアの向こうにストレッチャーが吸い込まれ、ドアが閉められた。救急隊は淡々と自分たちの仕事をこなしていく。ドアを押さえていた制服の警察官が、救急車の傍らに立って、肩に付けた無線で何かを報告している。
家の中から出てきたもう一人の警察官が、救急車に道を開けるためだろう、小走りに駆けて行ってパトカーに乗り込み、少し後退させた。
その様子を見るとはなしに見ていた俺は、気付いてしまった。
路地の先の電柱の陰。
そこに一人の少女が立ち尽くしていた。
きっと慌てて出てきたのだろう。羽織っただけのコートの下に、部屋着のような野暮ったいトレーナーが覗いていた。
走ってきたせいなのか、髪が乱れていた。でもそれに気付いてもいないようだった。
手に持ったスマホが、白い無機質な光で、何もないアスファルトを照らしていた。
電柱の上の街灯が、じじっと音を立てて点滅する。でもその顔色が真っ青なのは、古い街灯の光のせいばかりではないだろう。
中学生の厳島。
さっきは優しいオレンジの光の中で、あんなにも幸せそうに笑っていたのに。
それなのに今は、街灯の弱い灯りの下で、今にも崩れ落ちてしまいそうな顔をして、救急車を見つめている。
きっとあの手に握るスマホで、直前まで会話をしていたんだろう。さっき救急車に乗せられたばかりの、あの男と。
そして、最悪の事態の予感に駆られて、ここまで走ってきたのだろう。
不意に、けたたましい音がした。救急車のサイレンだった。
どうやら、行き先が決まったらしい。救急車は聞き慣れたサイレン音を鳴らしながら、走り出した。
厳島は、それをじっと見つめる。まるでお守りか何かのように、スマホを握りしめて。
捨てちまえ、そんなもの。
無責任かもしれないが、俺は本気でそう思った。
捨てちまえよ。そんなスマホ。
それがあいつとの繋がりを保証してくれるこの世で唯一無二のものででもあるかのように、厳島がスマホを握っている。
よほど強く握ってるんだろう。手が真っ白だ。
でも、俺に言わせれば、そんなもの。そんな繋がり。
ただの呪いじゃねえか。
これからも厳島の人生に暗い影を落とし続ける、呪い。
俺は部外者だからこそ、そんなことが言えるのかもしれない。でも、部外者だからこそ見えるものだってあるだろ。
これは、呪いだ。
自分の存在を中学生の女子の心に永遠に刻みつけようとする、卑劣な男のかけた呪い。
俺の胸は痛んだ。
厳島の、あの表情。オレンジの光の中にいたときのあの幸せそうな笑顔との、そのあまりの落差に。
俺が名前を呼んだせいなのか。お前の名前を何度も呼んで、それにお前が答えてくれたから。俺が、あの優しい停滞の中からお前を引きずり出したから。それでお前はそんな顔で立ち尽くしているのか。この世の絶望を全部その肩に乗っけられたみたいな、そんなつらそうな表情で。
「厳島」
俺は、その名を呼んだ。自分の声が震えているのが分かった。
厳島は、答えない。俺の方なんて見ない。
救急車が走り去った路地の暗闇を、じっと見つめている。
「厳島ぁ」
何でだか分からない。
その名を呼んだら、切なくて悔しくて、とにかく悲しくて仕方なくて、涙で視界が滲んだ。
厳島を照らす電柱の街灯が、まるで繁華街のネオンみたいに何重にも見えて、その光の中で俺は厳島を見失いそうになった。
手の甲で涙を拭うと、まだ厳島はそこにいた。もう路地の先を見てはいなかった。うつむいて、暗い地面を見ていた。
その頬に光るものがあるのを、俺は見た。
「厳島、泣くなよ」
こんな涙声を出すのは、いつ以来だろう。
ああ。中学最後の大会で、負けて以来か。あの時も、仲間の前で俺はこんな声を振り絞ったんだっけか。
「お前が泣くと、俺も辛いんだよ」
夜の住宅街で、俺は声を振り絞った。
たちまち苦情が来そうな、大声。だけど、どの家からも、誰一人顔を出さなかった。きっと俺には、発言権がないからだ。
厳島もうつむいたまま、俺を見なかった。
「俺が笑わせてやるから」
俺は叫んだ。
わけ分からねえ。ぼろぼろと涙がこぼれる。この感情は何なんだろう。
でも、とにかく厳島にあんな顔をさせておいちゃいけない。それだけは分かった。
「だから、そんな顔するなよ。俺が面白い話をいっぱいするから。毎日毎日、笑わせてやるから」
厳島が不意に踵を返した。
どこにも寄る辺のない背中。一人とぼとぼと、暗い道を歩き始める。
それを見ていたら、たまらなくなった。
「厳島!」
俺は泣きながら駆け寄った。
だせえ。
でも、どうしようもなかった。
入学式の日、一人でじっとクラス表を見つめていた厳島の背中。それが今、俺の脳裏に鮮明に蘇った。
ごめんな、厳島。今、はっきり思い出したよ。あのときもお前はそんな気持ちを抱えてたんだな。
俺の目の前で歩き去っていく厳島の背中と、あの日の厳島の背中が、はっきりとダブった。
それは、この苦しそうな厳島と、俺の大好きな厳島とが、一直線にはっきりと繋がったっていうことでもあった。
「ばかやろう」
何だか分からないが、俺は叫んだ。抑えられなかった。
「ばかやろう、厳島。お前の隣にいるのは誰だよ。今、お前の隣にいるのは」
とぼとぼと歩き去っていく、厳島の背中。
俺は駆け寄る。
どうせ、さっきみたいにすり抜けてしまうのだろう。駆け寄ったからって、触ることすら許されてはいない。それでも、構わない。
「俺がいるじゃねえか、厳島!」
後ろから思いきり抱き締めた。
ひっ、と小さな悲鳴を上げて厳島が身を竦ませた。
「だ、誰」
「俺に決まってんだろうが!」
俺の方が厳島よりもよっぽど泣いていた。
「お前の隣の席で、いつもお前を必死に笑わせようとしてる加藤くんだろうがぁ!!」
厳島がびっくりした顔で俺を振り返る。
「えっ」
涙で滲んだ視界の向こうで、その顔が何だか、変わったような気がした。
「加藤くん?」
その声は、もう聞き慣れたいつもの厳島の声で。
中学生の厳島の声じゃなくて。
「ああ!」
何だか分からねえけど、とにかく俺は頷いた。
「そうだよ! 加藤くんだよ!」
「そっか」
厳島の声が、柔らかみを帯びた気がした。
「来てくれたんだ」
その瞬間、夜の闇の中で光が弾けた。




