25 俺は、誰だ
厳島の姿がオレンジ色の中に消えて、また俺一人が残される。
でも、さっきまでのあやふやな感覚はもうなかった。俺は今、自分の足でしっかりと立っている。
俺は今、ここにいる。
それがはっきりとしたのは、厳島が俺の呼びかけに答えてくれたからだ。そのおかげで、俺の存在はきっとこの世界で意味を持った。
俺の前を通り過ぎるとき、厳島はこっちを見た。そのとき、何て言った?
助けて。
厳島はそう言ったんだ。
助けて、加藤くん。
確かに厳島は、ほかでもないこの俺にそう言ったんだ。
「厳島!」
俺は叫んだ。中学生の厳島の背中は、オレンジの光の中に溶け込んでしまって、もうどこにも見えなかった。
「厳島!」
それでも俺は叫ぶ。
返事はない。そんなことは分かってる。返事なんか、最初から期待しちゃいない。
そんなもの、なくたっていいんだ。俺が叫びたいから叫ぶんだ、お前の名前を。
厳島が俺の助けを求めてる。
ここにいる意味なんて、その一言だけで十分だ。
たとえ俺が呼ばれもしないでノコノコとやって来た間抜けなピエロだったとしても。自分の役割をさっぱり理解してない空気の読めないバカだったとしても。肝心なところでビビりまくって役に立たない能無しだったとしても。
それでもお前がただ一言「助けて」と言ってくれれば、それだけで、俺は自分の力を振り絞れる。アンケートのDを選ぶことだって恐れやしない。
「うおおーっ!」
叫んでオレンジの乱反射の中を走り出す。
光の中を、かき分けるように。もがきながら、泳ぐように。厳島の去っていった方向へ。
「厳島!」
邪魔だ。オレンジ色の生ぬるい光が俺を包みこもうとする。そのせいで、自分がどれくらいの速さで走っているのかも分からない。見えない足元がふわふわする。
まるで夢の中で走っているときのような、距離感と速度の無さだった。速く走ろうともがけばもがくほど、かえって全然進んでいないんじゃないかという気分にさせられる。
この夕焼けの光のせいだ。
身体にまとわりつく、このなれなれしい光。どこか懐かしくて、暖かい気持ちにさせられるノスタルジックなオレンジ色。
でも、本当は違う。
今の俺には、分かる。その色が、その光が満ちた風景が表しているのは、停滞だ。
停滞。
もう戻れない過去の、美しい思い出。
そこには、先の見えない将来への不安なんてない。あるのは、もう結末までちゃんと知っている、約束された展開の繰り返し。幸せや感動の反芻。
これは、ずっとその優しさの中に浸り続けるための光だ。
それが停滞じゃなくて、何だっていうんだ。
美しい思い出。それはいい。
でも、本当は美しいだけじゃなかっただろ。本当は楽しいだけじゃなかっただろ。
今日まで生きてきて、美しいだけの、楽しいだけの毎日なんてあったかよ。
ねえよ、そんなの。
どこかの偉い誰かが言っていたそうだ。振り返った過去の人生は、まるで陶器の器のようだ。とても滑らかで美しいけれど、顔を近付けてよく見ると、表面にはたくさんのでこぼこがある。
思い出は、美しく見えるんだ。このオレンジの優しい光のせいで。
本当はあったはずの、いろんな辛かったこと。たくさんの汚いこと。それも全部、ぼんやりと曖昧に包んでしまう。尖った部分も、ひび割れた部分も、塗り損なった部分も形が歪んだ部分も。みんな輪郭がぼやけて、角が取れて、一つのきれいな容れ物に見えちまう。
たそがれ、とはよく言ったもんだ。
クラスメイトの名前が思い出せないのも、きっとそのせいなんだろう。
昼と夜の溶け合う時間。輪郭のない時刻。
誰そ彼。
あいつは、誰だ。お前は、誰だ。
黄昏の光の中で、厳島は幸せだった頃のデートを繰り返す。迎えに来たあいつの車に乗り、そして車から降りてあいつに手を振る。切り取られた、幸せなひと時。
厳島がそれを心から望んでるっていうんなら、俺の出る幕はない。
でも、厳島は俺を見た。あいつの目には、俺が映った。
そして、俺に言ったんだ。「助けて、加藤くん」と。
誰そ彼。
俺は、誰だ。
厳島が名前を呼んでくれた。俺は、加藤智之。好きな女の子は、厳島可織。
オレンジの光に包まれたって、それだけは忘れない。
「厳島!」
叫んだ。オレンジ色の奔流の中で。
「助けに来たぞ!」
返事はない。知るか。
「助けに来たんだ! 俺が! 加藤智之が!」
全身の力を使って、光の中を泳ぐ。
前へ。前へ。厳島の行った方へ。
「助けに来たんだ! お前を! 厳島可織を!」
叫ぶたびに、光が揺らぐ。
ぐぐぐっ、と押し返すような強い抵抗があった。光の奔流の中で俺の身体はぐるぐると回り、前後左右の感覚を失う。
それでも、俺はもがいた。
感覚がなくたって、どっちが前なのかは分かる。
厳島のいる方が前だからだ。
「厳島! 俺はお前を見失ったりしねえぞ!」
もがいて、押し返す。流されないように、足を踏ん張る。全身で突っ張る。
不意に、光の波を抜けた。
身体を包んでいた生ぬるい暖かさが消える。代わりに俺を包んだのは、刺すような冷たい空気。
夜。
闇を圧するように、赤い光が回っていた。
そこに止まっていたのは、あいつの車じゃない。それは、救急車とパトカーだった。
赤い光が回転している。さながら、優しい夢は終わりだと告げるかのように。




