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閉ざされた夜の校舎、君と二人きりで  作者: やまだのぼる@アルマーク4巻9/25発売!


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23/29

23 返事はない


 雨で濡れた路面にガラスの破片が散るときの、美しさ。

 街灯の赤い光と、路面の水の反射。

 無数の角度から照らされたガラス片が、複雑な光を放ちながら広がっていく。


 まるでそんな風にして、世界は弾けた。


 夜の校舎。見慣れた教室。無人の街。

 さっきまで目の前にあった、そんな光景が全部いっぺんに消えた。

 きらきらと輝きながら、砕け散っていった。


 ああ、そうか。

 そういうことなのか。


 驚きもしたけれど、そんな納得感もあった。


 そりゃそうだよな。

 現実のわけはない。

 でもそれなら、いつから?


 最初からノイズのように感じていた違和感の一つに、遅ればせながら気付いた。


 深夜までずっと学校に閉じ込められていたのに、厳島は一言も、喉が渇いたとも、お腹が空いたとも言わなかった。

 それは、ここが現実の世界ではないから。

 俺たちの身体が、現実の肉体ではないから。


 突然の浮遊感。

 足元の地面の感覚が消え、俺は宙に浮いているような感覚に陥った。

 いや、もしかしたら落ちているのかもしれない。

 どっちにしても、さっきまでの世界はばらばらに砕け散ってしまって、俺を包んでいるのは暗闇だ。

 闇の中で、俺の身体は浮いていた。いや、それとも落下しているのか。

 しばらくその奇妙な感覚に身を委ねていると、不意に、上から何か小さなものが降ってきた。

 最初にぽつりと見えたのは、小さな赤い光だ。それは、マッチの火のように赤い尾を曳きながら闇を切り裂いて、俺の目の前まで落ちてきた。

 とっさに手を伸ばしてそれを掴んだ。

 本当にマッチの火だったら火傷をするところだったが、俺の手が感じたのは、冷たいプラスチックの感触。

 片手にすっぽり収まる大きさのそれに、見覚えがあった。

 ボイスレコーダー。

 小さな赤い光は、電源のランプだった。

 これは、三階の非常階段の手すりにぶら下がっていたものだ。その証拠に、切れた黒い紐がくくり付けてある。

 さっきはこの紐が切れて落ちていったのに、地面に当たる音がしなかった。それをおかしいな、と思ってはいた。

 まさかそれが、ここに落ちてくるなんて。それが意味するところは。

 さっきのあの会話の続きを聞けっていうことなのか。

 浮遊感の中、俺は手探りで再生スイッチを押した。

「ねえ、知ってる?」

 はっきりとクリアーに、女子の声が聞こえてきた。

 聞き覚えがある。これは、誰の声だっただろうか。さっきこのレコーダーから流れていた上級生たちの声ではない。厳島でも杉村でもないけれど、俺のクラスの誰かの声だ。

 いつもならすぐ思い出せるはずの、その名前がどうしても出てこない。

 だけど、それはそんなに大事なことじゃなかった。

「厳島さんが、春野山からこの高校に一人だけで来た、本当の理由」

 不自然にひそめた声。

「私、聞いちゃったんだ」

 真剣さを装った、けれど底意地の悪い、暗い悦びを秘めた声。

 この女子と話している相手方の声は、遠くてぼそぼそとしていて、ほとんど聞き取れない。

 だけど、話の内容を掴むにはこの子の声だけで十分だった。

「うん、あのね。厳島さんって、中学時代に大学生と付き合ってたんだって」

 それに対する相手の答えは、やはりざわざわとしていて聞き取れなかったが、笑っていることだけは分かった。

「うん、そうでしょ。意外だよね。大人しそうで、全然そういうタイプに見えないのに」

 この子も笑っていた。

「厳島さんってバレー部じゃん。中学時代からバレーやってたらしいんだけど、そこに臨時コーチとして大学生が来てたんだって」

 ざわざわと声が揺れる。

「そう。厳島さん、その人と付き合い出したんだって。先生とかにはバレてなかったらしいけど、部員はみんな知ってたって」

 くすくすという笑い声とともに女子の声が遠ざかり、話は聞き取れなくなる。

 しばらく遠くでざわざわと聞き取れない会話が続いていた。

「そしたらね」

 急に声が戻ってきて、俺はどきりとする。

 俺に聞こえないところで話しているうちに、いつの間にか佳境に入っていたらしい。もう、声を潜めてもいない。むしろ興奮のせいか必要以上に大きな声になっている。

「その彼氏、なんか結構病んでたらしくて、いきなり自殺しちゃったんだって」

 自殺?

 飛び出してきた思わぬ言葉に、ぎょっとした。

 自殺だって?

「厳島さんに、今から死ぬって連絡して、それからほんとに。警察とか救急車とか呼んだらしいけど、間に合わなくて。すっごい噂になったって」

 クラスの誰かの声が、話し続けている。よく聞こえない誰かの相槌に、「うん、そうそう」と答えている。

「あることないこと、いろいろ言われて。だから、いられなくなったんだって。地元に」

 自分の全身が震え始めるのが分かった。

 さっきまでとは、理由が違う。これは、恐怖じゃない。この感情は。この震えは。

「そうそう。うちのバレー部じゃ絶対、県大会まで行けないもん。春野山の学校と試合することなんてまずあり得ないから。だから会わなくて済むでしょ。それでバレーだけは続けられたんじゃない?」

 その声が、突然ぐにゃりと歪んだ。

「バレーだけは続けられ」

 引き延ばされたような奇妙な声。すると今度は、

「たんじゃない」「たんじゃない」「たんじゃない」

 早送りのような声で、小刻みに同じフレーズを繰り返したかと思うと、不意に止まった。

 ボイスレコーダーの電源ランプが消えていた。

 電源ボタンを押してみるが、反応はない。電池切れのようだ。

 闇の中で俺は、今聞いたばかりの会話について考えた。

 中学時代の、大学生の彼氏。その自殺。


 ……そうか。


 入学初日、唇をきゅっと噛んでクラス分けの表を見上げていた厳島。

 さっき教室で厳島から話を聞いて思い出した、あの日のあいつの顔はひどく不安そうだった。だから俺は声をかけたんだ。

 今なら、合点がいく。

 その硬い表情は、高校の初日だからというだけじゃなかった。

 厳島は、逃げてきたんだ。中学時代、自分を取り巻いていた色々なことから。

 俺の手から、するりとボイスレコーダーが滑り落ちた。

 レコーダーはまた闇の中へと落ちていった。

 厳島が俺たちと同級生になったのは、地元から逃げてきた結果だった。

 それを俺は責められない。責める資格なんてあるわけがない。

 だって、俺はそんなこと、どうだっていいと思っているから。


「まさか厳島可織のことを、誰に対しても優しくて悪意なんかこれっぽっちもない、けがれなき天使か女神のような女の子だ、なんて思ってないよね」


 醜い感情に顔を歪ませて、厳島の顔をしたあいつは、厳島の声でそう言っていた。

 厳島の顔と厳島の声で喋るあれも、やっぱり厳島の一部だったんだな。

 お前の言う通りだ。俺は思ってたよ。厳島のこと、天使か女神みたいだって、そう思ってた。

 だから、まさか中学生の時に大学生と付き合ってたなんて、思ってもみなかった。正直、めちゃくちゃびっくりした。

 あんなことを聞いちまったら、俺は……




 ……。




 ………。




 ふふふ。


 ふふふふふ。


 舐めてんのか、この俺を。隣の席の加藤くんを。

 おい、俺の中の天使と悪魔。なんとか言ってやれ。

 加藤智之の中にもこうして天使と悪魔が同居しているわけですから、と天使が言う。

 俺たちの支店は全人類の心の中にあるぜ、と悪魔が言う。

 そう。つまり、そういうことだ。幻滅なんてするわけねえだろ。

 むしろ、俺の中で厳島のランクがまた一段上がったくらいだ。

 けがれを知らぬ聖女から、不屈の聖女に。

 全然問題ない。俺は厳島のことが好きだ。そのことにこれっぽっちの揺らぎもなかった。

 お前が俺の隣に座ってる間は、俺がずっと笑わせてやるからな。

 ますます、その気持ちが強くなった。

 それは、同情でも義務感でもなく。


 大げさな言い方をすれば、それは……



 不意に闇から抜けた。

 俺はいつの間にか、見知らぬ街角に立っていた。

 周囲は一面、まるで作り物のようなオレンジ一色に染まっている。

 これは、夕焼けだ。

 だけどいつも見てる夕焼けよりも、ずっと温かい感じがする。

 なんだかもっとずっとちっちゃかったころはこんな夕日が見えていたような。そんな気がしてくる、本当にノスタルジックなオレンジ。

 足もとに俺の影が、長く伸びていた。無意識にポケットを探る。そこに入っているはずのスマホは、なかった。

「じゃあね」

 その声に、はっと顔を上げる。

「またね」

「おつかれー」

 俺の視線の先で、女子中学生のグループが手を振り合って、ばらばらの方向に散っていく。

 その中から、一人だけこちらに歩いてくる女子。

 すぐに分かった。見慣れない制服。今より少しだけ幼い顔立ち。けれど、それは間違いなく。

「厳島」

 思わず声をかけた。だけど、うつむき加減の厳島は俺の横を素通りしていく。まるで、俺なんて存在していないかのように。

「おい、厳島」

 もう一度その背中に呼びかける。厳島は振り向かない。わざと無視しているという感じではなかった。

 ……聞こえてない。見えてもいない。

 俺は走って、厳島の前に回り込んだ。恥ずかしいが、なりふり構ってはいられなかった。

 両腕を大きく広げて、通せんぼする。

「厳島。俺だよ」

 その声に呼応するように、厳島が顔を上げた。嬉しそうに口元が綻ぶ。

「お……」

 思わずこちらも笑みがこぼれた。だが、厳島の身体は、幽霊のように俺の身体をすり抜けた。

「えっ」

 振り返った俺の目に飛び込んできたのは、路肩に停まる一台の車。運転席の窓から、男が顔を出していた。

「待っててくれたの」

 厳島の声が弾む。小走りに駆けよっていく。その男の顔に、俺はもちろん見覚えなんてない。だけど、瞬時に理解した。

 ああ、これだ。

 クラスの女子――どうしても名前が出てこない――が話していた、厳島の噂。

 あの男が、厳島が中学のときに付き合っていたという大学生だ。中学のバレー部に臨時コーチとしてやってきて、それから厳島と付き合いはじめたっていう男。

 名前も年齢も分からない。知っているのは、ただ一つ。この男が、自殺してしまってもうこの世にはいないということ。

 厳島が楽しそうに助手席に乗り込む。

 俺に見せる、はにかんだような笑顔とは違う。もっとなんというか……心を許したような笑顔。

 なんだよ。なんで、こんなものを見せられなきゃいけねえんだよ。

「厳島!」

 俺は叫んだ。返事はない。

 車は、走り去る。

 黄昏のオレンジの中に、俺一人が取り残される。




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