21 ほら。呼んで
「誰って、どういうこと」
厳島の声が曇った。
「加藤くん、急に何を言い出すの」
「うるせえ」
俺の声は震えた。
「黙れよ」
「ひどい」
厳島の顔はよく見えない。けれどひどく悲しそうな声。
それを聞いたら、やっぱり罪悪感が襲ってくる。
くそ。ひどいのはどっちだよ。
「いつまでも厳島のふりをしてんじゃねえ」
そう言いながら、じりじりと距離を開ける。席に座る厳島がいつ立ち上がってもいいように。
「正体を見せろよ。偽者が」
「私、厳島可織だよ」
厳島が言う。
「偽者なんかじゃない」
「姿は厳島だな。それは認めるよ」
言いながらも、厳島の動静から絶対に目を離さない。おかしなことをしようとしたら、すぐに教室を飛び出す。
「ひどいよ、加藤くん」
厳島はもう一度、悲しそうに言った。
「どうして私が偽者だなんて言うの」
ああ、くそ。おっかねえ。だけど、それ以上にムカつく。こいつが厳島の姿をしてるってことが本当にムカつく。
「教えてやるよ。厳島はな」
あまりにもムカついたので、言ってしまった。
そんなことをばらしてしまったって、俺にメリットなんて何もないのに。
「そんな風に謝らねえんだよ」
「え?」
厳島が目を見開く。
「どういうこと?」
うるせえ。俺に聞くんじゃねえ。そんなこと、お前が本当の厳島だったら、聞くまでもねえ当たり前のことなんだよ。
くそ。俺の好きな厳島はな。どこまでも優しい、厳島可織はな。人に謝るときは、いつだって真剣そのものなんだよ。こんなに心配をかけた俺に対して、あんなに軽々しく、ごめん、なんて言ってそれで済ませたりしねえんだよ。
それが分からねえお前は、やっぱり。
厳島の形をした、何かなんだよ。
「ねえ、加藤くん」
厳島の形をしたものが喋る。
「どういうことって聞いてるのに」
少しすねたような声。
普段なら。昼間の教室なら。厳島にこんな声で話しかけられたら、どきっとする、くらいじゃ済まないだろう。その声をお持ち帰りして、自分の部屋のベッドの上で一晩中、思う存分反芻するに決まってる。
だけど、今は。
「よせ」
苛立ちが募る。
恐怖もある。だけど、それ以上の不快感。
「それ以上、厳島の声で喋るんじゃねえ」
「そんなこと言われても」
厳島の形をした何かが、厳島の席で困ったような顔をしてうつむく。その姿は、どこからどう見ても、完全に、完璧に、厳島だ。
でも、俺は自分でも怖いくらいに確信していた。こいつは厳島じゃない。
「じゃあ、どういう声で喋ればいいの」
厳島の声。くそ。
「こんな声?」
背筋が凍った。それは見知らぬ男の、低い声だった。
「それとも、こんな声?」
しゃがれた、老婆のような声。俺は声も出せなかった。
「自分では分からないの」
俺の方こそ、分からない。厳島の姿で、無邪気な幼稚園児のような声を発する、それが一体何者なのか。
「ねえ」
妖艶な女の声で、それは言った。
「教えてよ」
答えない俺を、それは厳島の目で睨みつけ、そして厳島の声で言った。
「どんな声なら、喋ってもいいの」
「し、質問してるのは、俺だ」
暗い教室に響く、俺の声。だけどその声は無様なくらい震えている。
ああ、情けねえ。情けねえが仕方ねえ。こんな状態で、厳島と同じ顔をしたこいつと普通の会話ができるやつがいたら見てみてえよ。
「なあ、加藤」
背筋が凍った。
「答えろってば」
それが紛れもない杉村の声だったからだ。
さっき厳島が、自分はその子のことを知らないと言った、杉村優香。だが声も口調も、杉村そのものだった。ただ、姿だけが厳島のままで。
「私にだったら答えられるだろ。ほら、早く」
厳島の顔で杉村の声を発する何かが、俺を急かす。
「私の質問に答えろ」
「うるせえ。答えるのはそっちだ、俺の質問に答えろ」
恐怖を押し殺して、俺は思い切り睨みつけた。
「お前は、誰だ」
そいつは俺の目の前で、かくん、と首を傾げた。
「私、厳島可織だよ」
その通りだ。その声は、厳島のものだ。
だからつらい。だから苦しい。
「まだそんなこと言ってやがんのか」
声にドスを込めてみる。震えてるから、どこまで効果があるかは分からないけども。
「お前は厳島じゃねえよ」
「どうして?」
不意に、そいつが立ち上がった。
「動くんじゃねえ!」
後ろに飛びのきながら叫ぶ。脚にぶつかった机が、大きな音を立てる。
「動くな!」
もう一度叫ぶ。だが、もうそいつは俺の警告なんて聞かなかった。
「どうして?」
こちらに身体を向けた拍子に、椅子が後ろに倒れた。がたん、という大きな音が教室に響く。
「動くなって言ってん」
だろ、と言いかけて、言葉は喉に詰まった。
目の前の、厳島にそっくりの何か。その目からぽろぽろと涙がこぼれた。
「私、厳島可織だよ。加藤くん」
違う。
違う違う違う。
断じて違う。
自分に必死にそう言い聞かせる。だが、涙は反則だろう。
俺の動揺を見透かしたように、そいつが一歩前に出る。
「助けて、加藤くん」
やめろ。
「苦しいの」
やめろ。やめてくれ。
「私、どうしたらいいの」
くそ。さっきみたいにおかしな声を出せよ。いつまで厳島の声出してやがるんだ。
「加藤くん」
厳島の声。また一歩近付く。
「お前が厳島だって言うなら」
とっさにそう言った。
「これ以上、俺に近付くな」
その途端、そいつが足を止めた。
「よかった」
心からほっとしたような、微笑み。
「私、近付かないね」
自分の立ち止まった場所で、嬉しそうに一度ジャンプする。ふわり、とスカートが膨らむ。
「これで信じてもらえるんだね」
涙はまだ頬を濡らしたまま。けれど、厳島の姿のそいつは、泣き笑いのような顔で俺に言う。
「ほら、見て。私、ここで止まったよ」
吐き気と頭痛が同時に襲ってきて、めまいがした。
違う。こいつは厳島じゃない。違うんだけど、でも、何だか……
「加藤くん」
声が弾む。
「ほら。呼んで」
無邪気な口調。厳島の声のまま。
「私のこと、いつもみたいに」
不意に、窓の外で月が陰る。それに合わせたように。
「呼んで」
月明かりの弱まった教室で、闇に半ば溶け込むようにして輪郭がぼやける。
厳島の声が言う。
「厳島って」




