2 男だね、加藤
教室に入ってきた厳島は、なんだかぼんやりとした顔をしていた。
もちろんいつもだって別に、朝からすごいテンションで「おはよう、加藤くん!」とか挨拶してくるタイプの子ではないのだが、それにしても今朝は元気がないように見えた。
「おはよう、厳島」
「厳島さん、おはよう」
俺と梶川に挨拶された厳島は、まるで今初めて挨拶という習慣を思い出したみたいな顔で、「あ、えっと」と口ごもった後で、ようやく「おはよう」と言った。
「今日、遅かったね」
俺の聞こうとしていた疑問を、梶川がさっさと口にする。
「電車遅れた?」
「あ、ううん」
厳島は小さく首を振って、慌てて取り繕うような笑顔を浮かべる。
「そういうわけじゃないんだけど……」
どこか覚束ないような口調。
「何だか、忘れ物をしたような気がして」
「忘れ物?」
一瞬きょとんとした梶川が、「あっ」と声を上げた。
「忘れ物で思い出した。やばい。二限の英語。課題」
そう言って、俺の肩を掴む。
「提出。ワーク。期限」
「急に日本語が下手になったな」
俺は優しく肩の手を外して微笑む。
「俺はもうやった」
「マジか」
「マジだ」
「マジか」
マジかマジか、と言いながら、梶川が自分の席に戻っていく。
あの課題、結構量あったから今からやっても間に合うかどうか。微妙なところだな。
まあがんばれ、梶川。
バッグを掛けた厳島が、自分の席にすとんと腰を下ろした。
その動作も何だか緩慢で、心ここにあらず、という感じだった。
「珍しいな、厳島が忘れ物だなんて」
そう話しかけると、厳島は、
「うん……」
と曖昧な返事をする。
「分かんなくて」
「ん? 何が?」
「自分が何を忘れてるのか」
そう言って、厳島は小さくため息をついたのだった。
厳島は、その後も元気がなかった。
俺の話にもあまり乗ってこないし、暗い顔でぼんやりと窓の外を見たり、小さくため息をついたり。
俺は厳島に笑ってほしくて、いろいろと話をしてみるのだが、最初は一応笑ってくれていた厳島の対応が徐々にしょっぱいものに変わってくるのが分かる。
三限の松本先生の似顔絵をノートに書いて見せたのが盛大にスベったあたりで、さすがの俺も気付いた。
まずい。これは逆効果だ。
今の俺は、一を得ようとして、五くらいを失い続けている。負け戦に兵力を逐次投入するという旧日本軍みたいな戦略をとってしまっている。
愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ。ということで、それからはおとなしく過ごしたのだが。
やはり、気になる。
好きな子が、目に見えて元気がないんだから、気にならないわけがない。
何か悩みがあるのなら、話してほしい。
もちろん俺に解決できるような話じゃないかもしれないけど、人に話すだけでも楽になることってあるよね。
だからそういうのどんどん話してくれたらなあ、とか思うんです、俺は。
隣の席の男子なんて、そういう風に普段使いしてくれていいんですよ。
俺のそんな健気な気持ちが伝わるはずもなく、厳島はまたため息を一つつくわけである。
結局、厳島だけでなく、俺までもやもやしたままでその日の午前の授業を終えることになってしまった。
昼休みに購買から戻ると、厳島の席には友達が来ていた。俺と同じ中学だった杉村優香だ。
この二人は容姿も性格も全然違うのに何だか馬が合うらしく、いつも二人で仲良く弁当を食べているのだが、今日の厳島のぼんやりとした感じには、杉村も少し戸惑っていた。
「可織、どしたー?」
杉村は厳島の頭をぽんぽんと叩いている。
いいな、あれ。俺もやりたい。
「大丈夫、何でもないよ」
厳島はそう言って微笑むけど、やっぱり声に力がない。
「具合悪い? 顔色良くないよ」
杉村は眉を寄せて厳島の顔を覗き込む。もともと色白の厳島の、血色が悪いのかどうかは俺にはよく分からなかったが、そこはさすが女子同士、判断が早い。やっぱり顔色も良くなかったらしい。
「可織、保健室行こっか。それとも早退しちゃう?」
「ありがとう、優香。でもほんとに大丈夫だから」
厳島は笑顔で首を振って、机の上に小さなお弁当を出した。
「食べよ?」
杉村はそれでも心配そうに厳島の顔を見つめていたが、結局諦めたようで、自分のお弁当の蓋を開けた。
「具合悪かったら、無理しちゃだめだよ?」
「うん。ありがとう」
「何かあったら遠慮しないで言ってね」
厳島に優しい言葉をかけた直後、杉村の顔が俺の方をぎゅん、と向いた。
「じろじろこっち見んな、加藤」
「見てねえし」
「見てるだろ。お前はじっと前だけ向いてパン食っとけ」
「そ、そんな言い方すんじゃねえ」
俺たちのやり取りに、厳島が微笑む。
「厳島に向ける優しさの十分の一でいいから、俺に割り当てろ」
「お前への割り当て分は、中学まででとっくに枯渇してんだよ」
杉村が鼻で笑う。
俺と杉村は、小学校からずっと同じ学校に通っている。
といっても、幼馴染というほどの関係でもない。同じクラスになったことは、小学校で一回、中学校で一回ってところか。実際、中学までは親しく話す間柄でもなかった。
だけど、高校に入って周りが知らない奴らばっかりになってから、状況が変わった。
俺が自転車通学なことでも分かる通り、俺たちの通っていた中学校はこの蒼神高校のすぐ近くにある。
だけど、同級生の大半は私立のうちではなくて、駅の反対側にある県立高校に行ってしまった。そのせいでこの高校には、同じ中学の出身者はほとんどいない。
だから地元とはいえ、アウェイ具合ではほかの生徒と大差ないのだ。
そんな中で、気軽に話せる異性の生徒っていうのはやっぱり何かと頼りになるわけで。
多分、杉村も俺と同じことを思ってたんだろう。お互いに情報交換をしているうちに、すっかり仲良くなった。
テニス部で一年からレギュラーを狙えるくらいの実力の持ち主でもある体育会系の杉村は、俺とよくノリが合った。
こんなに話が合うなら、もっと早く仲良くなっとけばよかったな、なんて思ったりもしたけど、多分そういうものでもないんだろう。俺も杉村も、中学の時はお互いを必要としてなかった。
「中学までだって、お前にそんなに優しくされた記憶ねえぞ」
「じゃあもともとの割り当て量が少なかったんだ、諦めろ」
「優しさ、再入荷しろや」
「しません」
俺たちの会話を聞いていた厳島が、くすくすと笑い始めた。
「本当に優香と加藤くんの会話っていつも面白い」
やっと厳島の自然な笑顔が見られて、俺も杉村も少しほっとする。
「やっぱり可織は笑った顔が一番可愛いよー」
そう言って、杉村が厳島に抱きつく。
「ありがとー」
いいな。俺もあれやりたい。
そう思っていると、また杉村に睨まれた。
「羨ましそうにこっち見んな。前向いて口にパン突っ込んでろ」
「へいへい」
俺は前に向き直る。
「厳島が元気になってくれるなら、俺はいくらでも直立不動でパンを食い続けてやるよ」
「殊勝な心掛けじゃん」
直立不動でパンをほおばる俺に満足そうな杉村。うるせえっつうの。
「ありがとう、加藤くん。でも、普通にパン食べて? そんな風に食べてもおいしくないでしょ」
厳島がそう言ってくれたので、俺はそれだけで大満足だ。前を向いてたせいで、厳島の表情は良く見えなかったけど、笑顔だったと思う。
「私、本当に大丈夫だから。心配しないで」
耳が洗われる。その優しい声を聞けるだけで、満足だ。
「じゃあ、失礼して……」
俺がえへへ、と笑いながら椅子に座ってパンを食っていると、厳島を元気づけるためなのか、
「ほら、可織。飲み物おごってあげるから。自販機行こ」
と言って杉村が立ち上がった。
「え、いいよいいよ。悪いよ」
厳島は慌てて手を振るが、杉村は笑顔で俺を指差す。
「大丈夫、遠慮しないで。お金なら加藤が出すから」
「俺かよ! なんで俺が出すんだよ!」
と言いながら俺は元気よく立ち上がった。
「とでも言うと思ったか、杉村ぁ!」
「な、何よ」
「出す!」
俺は自分の財布を高々と掲げた。
「厳島が元気になるなら、俺はいくらでも貢ぐぞ!」
「おー。男だね、加藤」
杉村が拍手する。
「じゃあ私はペットの麦茶、500のやつ」
「シャラップ!」
俺は叫んだ。
「厳島でも何でもない女は引っ込んでな!」
「なに、それ」
「俺がおごるのは厳島だけだ。さあ厳島、行こうぜ」
「ごめんなさい、加藤くん。気持ちは嬉しいけど……」
厳島が本当に申し訳なさそうに言うのを見て杉村が爆笑した。
「秒で振られた! ウケる!」
「ふ、ふふ振られてねえし!」
「そ、そうだよ、優香」
厳島も慌てている。
「自分で出すって言いたかっただけだよ。じゃあみんなで行こうよ。ね」
厳島の提案に従い、俺たち三人は自動販売機でそれぞれに飲み物を買った。