19 嘘だろ
校舎の最上階、4階。
ここには普通の教室は一つもなくて、特別教室が集まっている。一年の教室のある二階からだと上るのが意外にかったるいので、授業で移動のある時は結構みんなぶうぶう言っている。
美術室。家庭科室。視聴覚室。
やっぱり、三階までとは間取りがずいぶん違う。俺は案内図を一瞥してから廊下に出た。
三階同様に静まり返った廊下。生きているものの気配は感じない。
だけど、いるとしたらここなんだろう。
俺は迷うことなく廊下を進み、その分厚いドアの前で足を止めた。
音楽室。
さっき、非常階段で耳にした物音はここから聞こえてきた。
防音のしっかりしたこの部屋の音が外に聞こえるってことは、窓が開いてるんだ。
厳島がいるかどうかは分からないけど、誰かがいる可能性は限りなく高い。
それともさっきみたいなボイスレコーダーでも置かれてるか……?
迷っていても仕方ない。俺はドアを開けた。
密閉されていた空気が漏れて、音楽室の独特の匂いが廊下まで漏れだしてくる。
他の教室とは違う、絨毯敷きの床に足を踏み入れる。
ドアは開けたままにしておきたかったが、ストッパーがいかれているのか、どうしても勝手に閉まってくる。仕方ない。歩き始めると、足音は全て、絨毯に吸収されて消えてしまった。
窓から差す月の光が明るかった。
普段、生活していて月の明るさなんて意識したことがそんなにあるか? 俺はない。でも、今夜は月が出ていて本当に良かったと思う。これで、月のない闇夜だったら、音楽室の中の様子はまるで見えなかったに違いない。
静まり返った音楽室。人の気配はない。
けれどやっぱり予想通り、窓が一か所、中途半端に少しだけ開けられていた。まるで、誰かが開けようとして途中でやめたみたいな感じだった。
俺は歩いていって、窓を大きく開けた。
眼下に、さっきボイスレコーダーがぶら下げられていた非常階段の踊り場が見えた。
そうか。音楽室の窓が開いていたら、あそこで話してる声は三階の廊下に響かなくても、こっちにはよく聞こえるんだ。
しばらく踊り場を見下ろしているうちに、それが何を意味するのかに気付いてしまった。
……もしかして。
もしかして、厳島はここで偶然、上級生の噂話を耳にしてしまったことがある……?
可能性は考えられる。
昼休み明けの午後最初の授業が音楽だったら、早めにここに来ることだってあるだろう。 厳島は真面目だから、特別教室への移動はいつも結構早めだった。
防音のためにこれだけ密閉されている部屋だから、授業が始まる前に換気だけでもしておこうかと窓を開けたのかもしれない。
周りに気遣いをする厳島なら、いかにもやりそうなことだ。
そして、そこでたまたま上級生たちが自分の話をしているのを聞いた……。
それがどんな内容なのか、ボイスレコーダーの会話は途切れてしまったので俺には分からないが、あの口ぶりからして、愉快な話ではなかったことは確かだ。
無責任な噂話をされて、厳島は深く傷ついたのかもしれない。
かわいそうに。
あの穏やかな厳島が、いったいどんな表情でその傷心を隠したのか。それからの授業をどんな気持ちで受けたのか。
それを思うと胸が詰まった。俺は気付いてやれなかった。
でも。
……でも、だから何だっていうんだ?
それが今回の件とどう関係するっていうんだよ。
無責任な噂のせいで厳島が傷ついていたとしたら許せないし、そんなことを無神経に話してたやつらにはこの野郎って思うし、厳島にはそんなの気にすんなって言ってやりたい。
だけど、それと今の状況とは何の関係もない。
厳島が学校に閉じ込められて、俺と一緒に変な人影に追いかけられたり、突然一人で消えちまったりしたこととは。
関係ない、だろ?
窓から身体を離し、ふと奥に目をやったとき。
ひゅっ、と息が詰まった。喉の奥で妙な声が出そうになるのを、必死に飲み込む。
ピアノの前の椅子に誰かが座っていた。
いつの間に、そこにいたのか。いや、それとも最初からそこにいたのか。
別に俺は武道の達人でも何でもないが、それにしても全く何の気配も感じなかった。
人影、だった。
そいつの顔は、月明かりの差し込む窓に背を向けているせいなのか、影になっていてよく見えない。その身体も、俺の方からはピアノに隠れている。男か女か、それすらも分からない。
だがやはり、いくら影になっているとはいっても、その輪郭の曖昧さは不自然だった。
さっき校庭で追いかけてきたやつなのか。それとも、その仲間か。
俺は息を殺してそいつを窺った。
分からない。少なくともこいつが厳島じゃないことだけは確かだ。
圧し潰されそうな恐怖と緊張感。
静かな音楽室に、俺の鼓動だけがメトロノームのように鳴り響いている気がする。
俺は普通にドアを開けて入ってきたし、ストッパーのところでガチャガチャしたし、その後、窓まで開けた。いくらなんでも俺に気付いていないわけはない。なのに、こいつは今も何の反応も示さない。
厳島がいなかった以上、こんなところに長居は無用だ。
逃げ出すために、人影から目を離さず、身体の重心を徐々に後ろにずらしていく。
だがしばらくして、妙な不自然さに気付く。
……動かなすぎる。
こいつ、いくらなんでも動かなすぎるぞ。とてもじゃないが、生きている人間だとは思えない。こいつが生きているなら、呼吸をしているんだとしたら、さすがにもう少し肩とか胸とか動くだろう。
こんなに動かないのは人形くらいのもので。
……人形?
その可能性に思い至ると、俺の中の恐怖心がどっと雪崩を打って退却していくのが分かった。代わりに平常心が冷静さを連れて戻ってくる。
遅えよ、平常心。どこ行ってたんだよ。
平常心「いや、ちょっと野暮用が」
頭を掻く平常心に、今後は二度と勝手に持ち場を離れることのないよう厳命して、ピアノの前に座る人影を睨みつける。
びびらせやがって。こんな人間がいるわけねえだろ。
間違いない。こいつは人形だ。
誰だか知らねえが、さっきのボイスレコーダーといい、くだらねえいたずらのような真似をしやがって。
意を決して、その人影に向かって一歩踏み出したときだった。
そいつが、ゆっくりと立ち上がった。
「……へ?」
思わず間抜けな声が漏れた。
嘘だろ。人形じゃねえのかよ。
そいつの手には、妙に艶かしく光るナイフが握られていた。




