17 その時は、Dだよ
厳島が忽然と、俺の前から姿を消した。
何が何だか分からず、床に転がったミネラルウォーターのペットボトルを拾い上げる。
水のひやりとした感触は、これがさっき買ったばかりのものだということを証明していた。
確かに厳島は、今の今までこのペットボトルを持ってここにいたんだ。そのはずなんだ。
こみ上げてくる何かを堪えながら、廊下を見回す。
どこか、この廊下で人が隠れられそうなところ。厳島が、さっと身を隠せそうなところ。
あの厳島がそんな悪ふざけをするわけがないと分かっているのに、俺は未練がましく辺りに視線をさまよわせた。
いるわけがない。
ようやくそう思い知ったとき、腹の底の方からこみあげるような震えが襲ってきた。
この感覚を、俺は知ってる。
中学二年の県大会。変に本番に強いタイプだったせいで、間違って決勝に進出してしまったときのことだ。
スタートラインに並ぶ全員がとてつもなく速そうで、覚悟の全然決まってなかった俺は、今さらながらにとんでもなく場違いなところに紛れ込んでしまったんだと気付いた。
これから自分が一体どんな惨めな目に遭うのか。これだけの観客の前で赤っ恥をかかされるのか。そう考えたら、もう震えが止まらなくなった。
スタート前だっていうのに、足が小刻みに震えて、吐き気がした。
あのときと同じ。いや、それ以上。
この震えに身を委ねてしまったら負けだ。そうしたら、もう震えは収まらない。
負けたらだめだ。考えろ。
厳島は、最初からいなかったのか? 全部俺の妄想だったのか? 俺は妄想に衝き動かされて、こんな深夜の校舎に忍び込んで一人芝居を楽しんでいたのか?
違うだろ。さすがに俺はそんなにヤバいやつじゃない。……と自分を信じたい。
それを確かめるためには、教室に戻らないと。
ぐっと奥歯を噛み締めて、俺はそろそろと歩き出す。腹に力を込めて、心の震えを身体にこれ以上伝えないように。
教室のドアを開ける。
もしかして、ここに。
淡い期待を抱いたが、やはり所詮はありえない期待だった。
静まり返った無人の教室に、引かれた椅子が2つ。さっきまでここに人がいたことを示すそれは、隣り合った席同士の俺と厳島のものだ。そして、厳島の机の横には、彼女のバッグが掛けられたままになっていた。
やっぱりいたんだ。
俺は、そっと厳島の机に手を置く。さっき厳島が頬を載せていた場所には、まだぬくもりが残っていた。
そうだよな。間違いなく、厳島はここにいたんだよな。
さっきまでの厳島の顔を思い出したら、胸が詰まった。
あんなに疲れていた。あんなに怖がっていた。それなのに、どこへ行ってしまったのか。
俺は厳島を守ることができなかったのか。
さっきのあの不気味な悲鳴と、厳島が消えてしまったこととは、何か関係があるのか。
あの不気味な人影に、どこかで捕まっているのか。
たくさんの疑問が俺の脳裏に浮かんでは消えた。どれ一つとして、答えの出る疑問はなかった。
俺は教室の窓から、外を眺めた。
静まり返った街と、それを照らす冷たい月明かり。まるでこの世界に、本当にたった一人になってしまったような気持ちだった。
またさっきの震えが襲ってきそうになって、俺は奥歯を噛み締めた。
俺がここに来たときは、厳島がいてくれた。だから、不安や恐怖よりもそれ以外の色んな感情が勝っていた。だけど、今こうしてたった一人きりにされてみると。
厳島。お前、こんなに怖い思いをしたんだな。
こんな不安と戦ってたんだな。
窓の外を見つめながら、俺は情けない程に震えていた。
校庭を見下ろしてみるが、さっきのナイフを持った影の姿はない。
もちろん、厳島の姿も。
俺は、ぼんやりと思い出していた。
俺の中で、厳島の存在が決定的に変わったあの日のことを。
「だからぁ、俺はそんなこと言ってねえって」
昼休みの教室。
みんなの賑やかな話し声がはち切れんばかりに溢れた教室に、俺と梶川の声も響いていた。
俺たちがしていたのは、いつものどうでもいいじゃれあいだ。野良猫同士がたまたま顔を合わせたときにちょっと追いかけっこをしてみる程度のやつ。
「最初に言い出したのは俺じゃなくて大橋先輩だからな? 走ってるときの梶川の靴からビームが出てるって」
「だからそれ、どういう意味なんだよ」
「お前も自分が走ってるところを自分で見てみりゃすぐ分かるって。俺もすぐ分かったもん。あー、確かにこれはビーム出てるわって」
「自分で走ってるところをどうやって自分で見るんですか? バカなんですか?」
「仕方ねえな。俺がスマホで撮影して愉快なBGMと一緒にSNSに上げてやるから、そこで確認しろよ」
「何でそんなに遠回りな嫌がらせすんだよ。文句があるなら直接かかってこいや」
「だからー、お前がこうやってハードルを跳び越すときに」
俺が右足を上げると、梶川は鼻で笑う。
「俺はそんなダサい跨ぎ方しねえけどな」
「うるせえな。もう教えねえぞ、大橋先輩の発見したお前のビームの発射口」
「だから、どこに発射口があるんだよ」
梶川は苛立って俺の机を蹴る。
「さっさと教えろよ」
「だからお前がこうやってハードルを跳び越すときに、お前のジャージとスパイクのイエローのラインが」
「だからそんなダサくねえんだよ、俺の走り方は」
「今そこじゃねえだろ、大事なところは!」
「陸上部にとって走り方っつうのは命の次に大事なもんだろうが!」
「ああ!? やんのかてめえ!」
「おお!?」
俺と梶川が額をくっつけ合ってメンチを切っていると、
「えっ、すごい!」
という声が隣から聞こえた。
厳島の声だ。珍しく、大きな声だった。
厳島は自分の席で、杉村ともう一人――確か安田彩だったと思う――と女子三人で話していた。
「だから、今度の練習試合から私も出られるんだ」
そんなちょっと得意げな言葉が耳に飛び込んできた。
それを言ったのは、杉村だ。
「よかったね、優香」
「おめでとう」
「ありがとー」
厳島と安田が、笑顔で杉村を祝福している。
杉村は中学時代に部活で割といい成績を残していたこともあって、テニス部入部当初から、結構期待されてたんだよな。
一年の最初の大会から即レギュラーか? なんて言われてたし、本人もそのつもりはあったと思う。
でも、意外と最初は芽が出なくて、しばらくくすぶってた感じはあったんだけど。
それが、ようやく練習試合に出られることになった。
簡単に言えば、そういう話だったと思う。
それで、厳島と安田はお互いに顔を見合わせて、よかったねー、優香頑張ってたもんねー、とか言って。
でも、その言い方が、大げさっていうか。
そりゃもちろん男同士でも、レギュラーになったって言われたら、「おお、やったじゃん」とか「すげえな」とか、それくらいのことは言うけどさ。
そんなにずっと、よかったねーよかったねー言わない。
まあ、こう言っちゃ悪いけど、よくある光景っていうか、女子の仲良しごっこだなって、俺は内心、少し冷めた感じで聞いてたと思う。
いや、俺も梶川と死ぬほどどうでもいい話をしてたわけで、人のことなんて偉そうに言えないんだけどさ。
ただ、少し気になったのは、普段落ち着いた穏やかな表情をしていることの多い厳島が、そのときは頬を紅潮させて、やけにテンションが高かったこと。
俺が梶川と額をぐりぐりこすり合いながらそんなことを考えているうちに、昼休みは終わった。
「部活で覚えとけよ」
「何だお前、まさか俺をビームで焼き殺そうってのか」
「だから出ねえんだよ、そんなもんは。お前の中学、必修科目に理科がなかったのか」
「その言葉そっくり大橋先輩に返すぜ」
「俺に返せよ」
梶川とそんなことを言い合ってから俺は自分の席に座り直す。
杉村たちも戻っていき、厳島は次の授業の教科書を取り出したりし始めてたんだけど。
そこで、俺は見てしまったのだ。厳島の目が、潤んでいるのを。
聞いてしまったのだ。小さな声で「よかった……」って呟くのを。
動揺したね、俺は。
え? 嘘でしょ? 本当に、心から祝福してたの?
まだたった三か月足らずの、高校入ってから初めて仲よくなった友達の、レギュラー昇格を?
でも、厳島の表情は、そうだとしか思えなかった。
友達を祝福できる自分に酔ってる、とかそんなふうでもなかった。
本気だ、この子。
そう思った。
本気で、喜んでる。他人のレギュラー昇格を、まるで自分のことのように。
馴れ合いとか仲良しごっことか思ってた自分の、斜に構えた薄っぺらさがいっぺんに恥ずかしくなった。
え、なにこの天使。なにこの女神。
って思ったね。
だって、軽い気持ちの祝福じゃなくて、本気で杉村が試合に出られるようになってよかったって喜んで、それで涙ぐんじゃったわけでしょ。
そんなに他人のことを自分のことみたいに喜べる女子っている?
いないよね?
え? いる?
俺の周り、そんなにいないんだけど。
俺の周りの女子が偏ってるのかな。そんなことないと思うんだけどな。
多分、祝われた杉村本人だって、誰かがレギュラーに昇格したって話を聞いたら、祝福はするだろうけど、あとで「でもまあ、あんまり調子に乗ってると足元すくわれるから、気を付けないとね」くらいのことは言うよ? 運動部系の女子って、負けん気強いし。
バレー部に入ってる厳島も分類上は運動系女子ってことになるので、あんな感じで大丈夫なんだろうか。なんて心配にもなるんだけど、部活での悪い話も聞こえてこない。
「厳島」
俺は思わず声をかけてしまっていた。
「杉村、練習試合に出られるんだって?」
「うん」
厳島はまだ目を潤ませたまま、俺を見た。
「加藤くんも聞いてたの? 梶川くんとこんな風になってたのに」
そう言いながら、手のひらを自分の額に当てる。
「おお、視界は完全にあいつに遮られてたけど、耳は完全にフリーだったからな。しっかりキャッチしてたぜ」
俺はちょっと得意げに自分の耳を引っ張ってみせてから、「杉村、嬉しそうだったな」と言った。
「あいつ、テニスに人生懸けてるからな」
「うん、すごいよね」
厳島は、前の方の席に座る杉村の背中を見て、目を細めた。
「もし自分が何かに必死に打ち込んでたとしても、それを他の人に堂々と言うってなかなかできることじゃないよね。優香は、自分はこれを一生懸命やってるんだって言って、それでちゃんと結果を出すんだもん。すごい」
それはちょっと意外な言葉だった。俺は厳島がただ単純に、杉村頑張ったね、って喜んでると思っていたから。
「それは、自分で逃げ場を断つ、みたいな意味ってこと?」
「うん」
意外なほど真剣な顔で、厳島は頷いた。
「だってそれって、結果が出せなかったときの周りの反応とか、そういうの全部込みで自分を追い込んでるってことだもん。私にはとてもできない。かっこいい」
そうかな。杉村、そこまで考えてるのかな。あいつ、あんまり深く考えずに思ったことをそのまま口に出すタイプだと思うんだけど。
そう思ったけど、むしろそこまで友達の美点を見つけ出せる厳島に、俺はまた感動した。
「厳島もすごいな」
「えっ」
厳島はきょとんとする。
「何が?」
「そうやってさ、高校に入ってできたばかりの友達のいいところをちゃんと見つけ出せて、照れずに誉めることができるだろ? 俺にはできねえなあ」
梶川のいいところを今言え、と言われたら、俺はめちゃくちゃふざけた回答をするだろう。
本気でいいところを挙げるのは……なんだろう、せめて部活の引退のときとかにさせてくれ。
「そうかなあ」
自分のことを誉められたら、厳島はちゃんと照れた。
「私、優香にもすごく感謝してるんだ。この学校に来てすぐにできた友達だし、色々と助けてもらったし」
「そっか」
そこまで話したところで先生が来て授業が始まったので、その時の厳島の言葉の意味をあんまり深く考えてはいなかったけど。
優香にも。
そうか。そういえば厳島は、あの時そう言ってくれたんだな。
「にも」ってことは、ほかにも感謝してる人間がいるってことだ。それが誰なのか、さっき厳島が自分で言ってくれた。加藤くんに感謝してるって。
厳島は杉村に感謝するのと同じように、俺にも感謝してくれていたんだ。
突然消えてしまった厳島の残していった言葉に、胸が締め付けられるような気持ちになる。
ごめん、厳島。
俺、お前のことを守れなかったのか。
俺が厳島のことを本格的に気にし始めたのは、この日のこの会話からだ。傍から見たら、事件って言うほど大げさなものじゃないかもしれない。
確かに、表面上はそうだと思う。
でも、俺の中ではそれこそビッグバンみたいな、とんでもない爆発的な感情が湧き起こってたんだ。本当に、自分でも戸惑うくらいに。
何だ、この気持ち。隣に座ってるこの子を今すぐに抱きしめたい、この感情。
これか。これが恋なのか。
え、でもこれが恋なら、今まで俺が恋だと思ってた、あのちょっと切ない甘酸っぱいやつ、あれは何ですか? 感情のデカさが全然違うんですけど。
そんな風に動揺して、午後の授業は全然頭に入ってこなかった。いやまあ、頭に入ってこないのはいつものことなんだけど。
それでその時に決めたんだよな。
よし、厳島と席が隣同士のうちに、俺はたくさんこいつのことを笑わせてやろうって。
厳島の笑顔を見ていると、こっちまで幸せになる。お互いに幸せになれるなら、WINWINじゃねえか。
そして、あわよくば厳島の……
厳島の……
あれ?
ノイズ。
ずっと感じていたノイズが、また一つ明確な形を取った気がした。
そういえば、俺って厳島の
「きゃああーーっ!!」
不意の悲鳴。
心臓がびくん、と跳ね、俺の思考は中断する。
今の声は。
厳島。
だと思う。たぶん。
もちろん、厳島があんな声を出すのを聞いたことなんてあるわけないから、100パーセントの自信はないけど。
でも、厳島だと思う。
そう感じた自分の直感を、俺は信じることに決めた。
例えばこれが何かの罠だったとして。俺はまんまと釣り出されて、あの人影のナイフの餌食になってしまったとして。
その時は、Dだよ。
D 力及ばず、加藤は死んだ。だが、後悔は微塵もない。
仕方ねえだろ。罠じゃないかと勘繰って、厳島を見殺しにしちまうことのほうがよっぽど怖い。
だったら、俺は行く。力及ばず死んじまったら、加藤は多分微塵も後悔はない……ことはないと思う。死んで花実は咲くものか。だけど、それでも。
見えない何かにビビって、俺を頼ってくれた厳島を見殺しにするのは、一番無しだ。
だから、あれは厳島の声だ。
俺は自分に言い聞かせた。
あれは厳島の声だ。
厳島の声だ。
厳島の声!
全身の血が沸騰するような感覚があった。
何にも怖くない気分になった。ランナーズハイみたいなこれは、何だろう、厳島ハイ?
この気持ちが途切れないうちに。
「らあっ!」
一声吼えて、思い切りドアを開ける。
今回は分かった。悲鳴は、上から聞こえた。
だから、助けに行く。そんなこと、当たり前だろう? 俺はそのために呼ばれたんだから。
今、この世には俺と厳島しかいないのかもしれないんだから。
俺たちがこの世で最後の人類なのかもしれないんだから。
いや、そんなことどうでもいい。たとえそんなこと全部関係なかったとしても、俺は厳島を助けたい。
待ってろよ、厳島。今、行ってやるからな。
俺はずんずんと廊下を歩いた。もう足音を忍ばせることもしない。
怖くない。怖くなんかねえからな。
厳島がそこにいるのなら、俺だってそこに行く。たとえ何が襲ってきたとしても、厳島がわけも分かんないままいなくなっちまうことの方が、よっぽど怖い。そうだろ。
腹に力を込めて、震えそうになる足を必死に動かして。
俺は階段を駆け上がった。




