16 落ち着け、落ち着け
あんなに大声で騒いでしまった後ですごくいまさらな気もするのだが、教室のドアをなるべく音を立てないようにそろりと開けて廊下に出る。
目を凝らして、廊下の両側を端まで見るが、とりあえずおかしなものの姿はない。一応は大丈夫そうだ。
とはいえ、一気に周りの空気の温度が下がった気がした。
錯覚かもしれないが、教室の中は、電気もつけられないとはいえなんとなく自分たちの領域、というか日常の領域に近い気がしていた。だけどやっぱり廊下に一歩出ると、隠しきれない非日常感に襲われる。
俺たち、いったいこんなところで何やってんだ、という考えたくない疑問。このわけの分かんない世界にどうして二人っきりで取り残されちまったのか、という答えの出ない不安。もしかしたら、俺と厳島は別々の世界線からここにやって来たんじゃないのか、みたいな頭の痛くなる想像。
多分そういうのが一気に押し寄せてきて、気温が下がった気がするんだろう。
俺は頭を振る。
今は、そういうのを脳みその中には入れないようにする。そうじゃないと、潰されちまうからな。
バカならバカでいいんだ。頭でっかちで動けなくなるおりこうさんよりも、その方がずっとましだ。
俺と厳島は並んで、なるべく足音を忍ばせて、廊下を歩いた。今さらながらに二人とも土足だってことに気付いた。
でもいずれまた校舎の外に出るんだ。このままでいいだろう。
俺たちの足元を照らすように、非常口を示す緑のライトが点灯している。ということは、電気は通っているわけだ。それなら自販機だって動いていてもおかしくはない。
だけど、歩き慣れた廊下はやけに遠く感じられた。
自販機の灯りが遠目に確認できたとき、俺は小さく、よし、と呟いた。振り返って頷くと、厳島も無言で頷き返してくれる。
俺たちは小走りして、自販機の前に立った。
並んでいるのは、いつもの見飽きたラインナップ。夏休みが終わったら少しずつ秋のラインナップにしてくれるって話だったのに、いまだに半分以上がスポドリで埋まっている。
高校生にはスポドリでも飲ませとけっていう考えが透けて見える。まあ、それもそんなに間違ってはいないんだけどさ。
俺と厳島は並んで、ライトアップされたドリンクを見つめた。
なんでだろう。なんだか、泣きたくなるような懐かしさだった。
どこかの誰かが作ってくれたドリンクが、ここでちゃんと冷やされて誰かに買われるのを待っている。
それは、人と人の繋がりがきちんと機能している証のように思えた。人々が繋がり合う元々の世界と、その繋がりを全部ぶった切られた今の俺たちとを繋ぐ、細い細い糸。
俺は小銭を入れて、まず自分のお茶を買った。がたん、という音がやけに大きく響き、厳島が身を竦ませる。
ペットボトルを取り出した俺はもう一度小銭を入れて、厳島にボタンを押すよう促した。でも厳島は自分の財布を俺に見せて、顔の前で手を振る。
俺は、いいからいいから、とさらに手で促す。厳島も困った顔で財布を振る。
無言でパントマイムみたいなやり取りをしばらくした後で、結局厳島が折れて、一番安い水を買った。
がたん、というペットボトルの落ちてくる音の後で、ちゃりん、ちゃりん、と緊張感のない音を立てて、釣り銭が戻ってきた。
よし。戻るか。
俺は教室の方向を指差す。厳島が頷き、俺達はまた教室に向かって並んで歩き始めた。
「ねえ」
不意に、厳島が俺のパーカーの裾を引っ張った。
「ん?」
横を向くと、厳島は変に熱っぽいような潤んだ目で俺を見上げていた。
「さっき加藤くんが言ってた、杉村さん?って人……」
厳島は一瞬ためらった後、俺から目を逸らすことなく続けた。
「加藤くんとはどういう関係の人、なの」
「え、俺と?」
今、ここでか。この廊下でそれを聞くか。
と思ったけど、別にもったいぶって隠すことでもない。
俺は厳島に囁き返す。
「杉村優香は、小学校の時からずっと同じ学校だったやつだよ。テニスが上手くて、男みたいな性格してる」
そう答えた後で、付け加える。
「でもまあ、いいやつだよな。さっぱりしてるし、友達思いだ。厳島とも仲良くなれると思うぜ」
っていうか、俺の世界では実際に仲がいい。
「そうなんだ」
厳島は目を伏せる。
「その人って、加藤くんの彼女なの?」
「は?」
杉村が俺の彼女? まさか、と笑おうとした。
その時だった。
ぎゃあああぁぁぁ………
突如、断末魔のような叫び声が聞こえた。校舎中に響き渡るような絶叫だった。
心臓がびくんと跳ねて、全身が総毛立つ。
俺たちは凍りついたようにその場で動きを止めた。
それは男の声だった。
多分。だって、声が低かった気がする。
俺の知らない人の声だ。
……だと思うけど、知り合いがあんな風に絶叫してるのを聞いたことがないから、実は○○さんの声でした、とか言われても、正直分からない。
俺は厳島を見た。厳島も俺を見て、それから首を振る。真っ青な顔をしていた。
心臓の音がうるさい。俺は息を止めて耳を澄ました。
だが、一度の絶叫の後、校舎はまた不気味に静まり返っていた。
いったいあの声は、どこから聞こえてきたんだろう。あれだけ響いたんだ、校舎の中ってことは間違いない。
反響したせいではっきりしないけど、今いる廊下の突き当りとは反対の突き当りの方から聞こえてきた気もする。
同じ階ではなかった、ような感じもした。
上か、それとも下か。それはちょっとはっきりしない。
落ち着け、落ち着け。俺は自分に言い聞かせる。落ち着け、加藤智之。まだ何か聞こえないか。たとえば、こっちに近付いてくる足音とか。
もしかして不気味な人影でも現れやしないかと、廊下の先に目を凝らす。
しかし、何も現れない。物音もしない。
聞こえるのは背後の自販機の、ぶーん、という呑気な稼働音だけだ。
あの声は、いったいなんだろう。
夜の闇は妄想を逞しくする。俺はつい想像してしまった。
俺たちと同じようにこの学校に迷い込んでしまった誰かがいたとして。
そいつが校内に入ったところであのナイフを持った黒い影に襲われて、恐怖の叫びを上げながら絶命するさまを。
もしもそうだとすれば、あの黒い影はこの校舎の中に入り込んでいることになる。廊下に留まっていたら、危ないかもしれない。
教室に戻るか。
そんな考えが頭をよぎるが、すぐに打ち消した。
教室に戻るのは危険だ。逃げ場所のない教室に、突如やつが入ってきたら。
想像しただけで、ぞっとする。
しかし、あの教室に残っていた今日までの日常の残り香のようなものは、俺を惹きつけた。
まるで鬼ごっこの安全地帯のように、そこに逃げ込めば一旦は安心できるような気がする。何の裏付けもない、子供じみた感覚だった。
だが、そんなわけはない。
もしもあの影が教室に乱入してくれば、俺も厳島もでかいナイフでたちまち血祭りにあげられてしまうだろう。現実は残酷だ。
……現実?
自分の考えに、自分で疑問符を付ける。
これは、現実なのか?
俺は決めあぐねて厳島を振り返った。
床に転がるミネラルウォーターのペットボトル。
俺の目に飛び込んできたのは、それだった。
厳島は、消えていた。
暗い廊下に、いつの間にか俺はたった一人で突っ立っていた。
……厳島?
呆然とペットボトルを見つめる。悪い予感が、加速度的に膨れ上がっていく。




