13 三組?
「おお、珍しいな」
俺は笑顔で頷いて、促す。
「いいよ、じゃあ今度は厳島が話せよ」
珍しいと言ったのは嘘ではない。厳島はいつも基本的に、聞き役に回るからだ。
それは、隣の席の俺との他愛のない会話だけでなく、杉村と話しているときや部活の仲間と話しているときでもそうだ。
厳島はいつでも、丁寧に相槌を打って、話し手の方をきちんと見て、聞いてくれる。
そしてこれが非常に重要なことなのだが、とてもよく笑ってくれる。
そう、厳島はとてもよく笑ってくれるのだ。
話しているこっちが、ちょっと微妙かな、と思うような話でも、なんかもう嬉しくなっちゃうくらいよく笑ってくれるのだ。
だから、厳島にすごくウケたからと自信満々で他のやつに同じ話をすると、大変なすべり方をすることが多々ある。これを俺は、厳島トラップと呼んでいる。
そんな厳島が、自分から話をすると言い出すのは、よほど変わったことがあったときくらいだ。
だけどまあ、今日は変わったことどころじゃない、とんでもない事件のオンパレードだからな。厳島も俺に話したいことがたくさんあるのだろう。
ところが、厳島はそんな俺の予想とはまるで違う話を始めた。
「私ね」
厳島は、俺から目をそらし、自分の机を指でなぞりながら話し始めた。
「加藤くんには、すごく感謝してるの」
「え?」
感謝?
驚いて厳島を見るが、厳島はこちらを見ようとしない。
「加藤くんさ、入学してすぐ、私に話しかけてくれたでしょ」
「え、あ、おお」
ぎこちなく頷きながら、俺は思った。
……何の話だ。
頭をフル回転させて記憶をひっくり返す。入学してすぐ。入学してすぐ。厳島と話したこと。
ある……かもしれない。同じクラスだし、そりゃあるだろ。
でも、全然覚えてない。
だって、まだ厳島のことを全然意識してなかった頃のことだ。
えーと、いつだ。
その頃はまだ、桐野とか弓原とか、そういうもっと分かりやすく可愛い子にばっか目がいってたから、確か厳島とちゃんと話したのって、もっとずっと後のような。
「嬉しかったんだ、あれ」
厳島が微笑む。
……嬉しかった?
やばい。変な汗が出てきた。
えっ、それっていつだっけ。とはとても聞けない雰囲気。
入学式で話してるわけないから、そうすると入学式の後とか?
いや、さすがに俺も入学式が終わってすぐに、初対面の女子に声を掛けに行くほどチャラくはないぞ。確か、入学式の後はクラスの男子連中とお互いの出身中学の情報収集をしながら、牽制し合ってたはずだ。
別に不良マンガみたいにケンカしようってわけじゃないけど、最初って男子は何となくそういう牽制し合いがあるんだよね。こいつはどんなやつだ。敵か味方か、みたいな。やっぱりオスって縄張りを争って戦う習性のある生き物だから。
で、ちょっと仲良くなった梶川と一緒に放課後、飯を食いに行ったんだよな。
その時に入ったラーメン屋で、確か俺は、クラスの桐野って子が可愛いなって言った気がする。
そしたら梶川が、ああいうタイプはあんまりなー、とかすかしてたから俺は、何だこいつ、ちょっと顔がきれいだからっていけすかねえな、とか思ったんだ。
じゃあお前のタイプはって聞いたら梶川は、とりあえず今のところ保留、とか言ってたんだよな。あのときはまさか、あいつと同じ部活に入ることになるとは思わなかったし、あいつの好みのタイプが杉村だとも思わなかった。
で、その後帰宅しました。ただいま。お帰り、高校どうだった? んー、普通かな。……って母親との会話までいってしまいました。ダメだ。少なくとも、入学式の日には厳島はまるで出てこない。
入学してすぐっていう言葉、具体的に何日後くらいまで有効範囲ですか。
「私、同じ中学から来た人がいないから」
厳島はそう言って、まだ指で机をなぞっている。
よく見ると、大小の円で構成されたあれは、アンパンマンを描いているのだろうか。
「ほんとに嬉しかった。一緒に教室に行ってくれて」
「あ、ああ」
……一緒に教室に? マジで何の話?
「入学式の朝、私本当に不安で。クラス表の前で、このまま帰っちゃおうかなって思ってたの」
クラス表。玄関の下駄箱を抜けてすぐのところに貼ってあった、クラス分けの書かれたデカい模造紙のことだ。
それを思い出した瞬間に、記憶がばちっと繋がった。
そうか、あれか。
入学式の朝。
自転車で行ける距離にある高校に親と一緒に行くのもかったるいし、それは親も同じだったようで、母親から前日に、こっちはこっちで式に間に合うように行くからあんたも自分で遅刻しないように行きな、と言われていた俺は、親子連れの新入生たちの姿が目立つ校門を一人でくぐって、校舎の玄関の下駄箱を抜けたところに貼り出されていたクラス表から自分の名前を探し出して、教室に行こうとしていた。
そこで、所在なさげに一人でクラス表を見つめている女子に気付いたのだ。
クラス表と廊下を交互に見て、不安そうにしているその女子に、いつもの俺なら絶対に声なんかかけないのだが、その子が見ていたのが俺と同じクラスだったから、そしてその背中があまりにも心細そうだったから、俺はつい柄にもなく声をかけてしまったのだ。
「三組?」
驚いたように振り返って、その子は頷いた、気がする。
正直、よく覚えていない。
その時の俺は本当に単なる親切心で、教室の場所を教えてやろうって、それしか考えてなかったからだと思う。
「俺も三組。教室、こっちだよ」
家が近所なので、小学生の頃からこの校舎にはイベントやら文化祭やらで何度も入ったことがあった。
だから、自分の教室の場所も、感覚で分かっていた。
俺が歩き出すとその子は黙って素直に俺の後ろをついてきて、この教室に一緒に上がってきた、気がする。
別に一言も会話はなかったし、教室に着いたら着いたで、またそれぞれに自分の名前を探して席に着いたので、会話もなかった。
そんな些細なことは今の今まで忘れていたし、あの女子が厳島だったとは思ってもみなかった。
そもそも顔をよく見ていなかったのだ。
だから、入学式で俺の前に並んだ厳島のことを、呑気に初めて見るみたいに、ちょっと可愛い子いるなー、なんて思っていたのに。
「あ、あれか」
思わずそう口走ると、厳島がきょとんとした顔をする。
「え?」
「いや、何でもない何でもない」
慌てて手を振って、さも分かっていた顔で頷いておく。
「確かにあのときの厳島、なんか寂しそうだったんだよな、背中が」
「うん」
厳島が素直に頷く。
「寂しかった。他のみんなが全員、友達同士みたいに見えて、私だけその輪に入れてないような気がしてた。自分が透明人間になっちゃったみたいで、これから三年間、知らない街で知らない人たちの中で、一人ぼっちでどうなっちゃうんだろうって」
「そ、そこまでか」
それは大げさなんじゃないだろうか。だって、希望に満ちた高校生活の始まりの日だぜ?
……それとも、厳島にとっては違ったのか?
私、同じ中学から来た人がいないから。
そこに何か、意味があるのか?
「加藤くんに声をかけてもらえて、あ、私の姿も他の人からちゃんと見えてるんだって思った。よかった、ここにいていいんだって。三組の教室はこっちだよって言って歩き出した加藤くんが、お前の新しい生活のスタート地点はこっちだよって言ってくれてるみたいだった」
厳島がそう言って、俺の方を見た。
「だから、私、この席になれて嬉しかった」
俺の方を見て、微笑む厳島。
いつもの角度。だけど、いつもの厳島とは違う。
俺は厳島から、目を離せなかった。
「この席で、加藤くんの隣になれて、本当に」




