12 その時不意に厳島が言った
薄暗い教室の中とはいえ、いつもの席に二人で並んで座り、こうして話していると、だんだんと気持ちが落ち着いてくるのが分かった。
それは厳島も同じだったようだ。
しばらく背筋を伸ばしてじっと佇んでいたが、急に机につっ伏すと、はああああ、と大きな息をついた。
「やっと呼吸できた」
「いやいや」
思わず首を振る。
「呼吸はずっとしてただろ」
「そうなんだけど」
厳島は顔を上げてこちらを見た。
ぱさり、と髪が頬にかかる。
「今までずっと息を詰めてたみたいだったから。自分がいったいどこにいるのか、何が起きてるのか、全然何も分からなくて」
「そうか」
それはそうだよな。厳島は、ずっとものすごい緊張感の中にいたんだな。
安心したように表情を緩める厳島を見ていると、もっとリラックスさせたくなってしまう。
「よし、電気つけるか」
俺が言うと、厳島は顔を強張らせて首を振った。
「え、ダメだよ。さっきのおかしなやつに気付かれちゃうよ」
「……だよな」
また厳島の表情を曇らせてしまった。後先考えずに喋るのは俺の悪い癖だ。
そういうのじゃなくて、何か厳島を元気づけられることはないものか。
ううむ。
「厳島」
「ん?」
「何か話そうか」
「何かって?」
厳島が俺の目を見る。
猫は夜になると目がまん丸になるのは知っていたけど、人間もそうなんだということを、俺は今日の厳島の目で初めてきちんと知った気がする。
厳島の大きな目は、確かに厳島の目なんだけど、でもいつもの厳島とは違っていて、俺はなんとなくどきどきした。
「普通のこと。いつものこと」
俺はわざと場違いな明るい声を出した。
「毎日教室で話してるみたいなことをさ」
そこまで言ってから、自分だけ空回りしてるのかも、とちょっと心配になる。
「あ、でも厳島、疲れてるよな。やっぱり少し休むか? 俺、見張ってるからさ」
「ううん」
厳島は首を振った。
「疲れてはいるけど、まだそんな急には眠れそうにないから」
その口元が少しだけ笑っている。
「だから聞きたい。加藤くんの話、聞かせてほしい」
あ、俺が話すのね。
任せなさい。
「ふふふふふ、そうか、聞きたいかね」
「なあに、その笑顔」
「聞きたいと言ってしまったな、厳島。お前は今、開いてしまったのだよ。加藤くんのネタボックスを」
「そんな箱があったの」
「あったさ」
俺は唇を噛む。
「あ、この話、今度厳島にしよう、と思って仕入れたはいいが、時間が足りず、タイミングが合わず、そうこうしているうちに旬が過ぎ、ついに語られることのなかったネタの数々。それが俺のネタボックスの中で熟成され、発酵し、話されるときを今か今かと待ちながら、香ばしい匂いを発しているんだよ!」
「何それ。臭そう」
そう言いながらも、厳島は楽しそうに、ふふふ、と笑う。
「いいよ。話して」
「話すとも!」
俺は勢い込んで頷く。
「杉村の話なんかより、俺の方が面白いからな!」
意味のない対抗心。厳島がまた困ったように笑う。
再び、俺の頭の中で小さなノイズ。
あれ? と思ったが、今は細かいことを気にするのはやめた。
「聞くがいい、厳島」
俺は話した。
まずは、中学時代の自分の失敗談。
部活の大会で思いっきり寝坊した話は前にもしたことがあったけど、自分の出場競技の呼び出しに間に合わなくなって観客席からトラックに飛び降りて捻挫した話はまだしたことがなかった。
「ええっ、捻挫しちゃったの? 大丈夫だったの?」
厳島が信じられないという顔をする。
「うん、その後普通に走ったからね。それで帰ってきたら、なんか足首が腫れてた。でもその時自己ベストが出てたんだぜ」
「すごい」
「あとで先生にはめっちゃ怒られたけど、先輩たちは笑ってたなあ」
「えー、そうなの? バレー部だったら、考えられない」
「そうだろうなあ」
そこが個人競技の陸上部のいいところかもしれない、などと俺は考える。
チームスポーツの部活だったらこんなやつ、とっくにクビにされているだろう。
「でも、加藤くんらしい。その、細かいことを全部吹っ飛ばしてちゃんと結果を出しちゃう感じが」
おお。何だか高評価な気がする。
「へへへ、そうかな」
照れながら俺はネタボックスを覗き込んでごそごそとあさり、同じ陸上部の森と林の話に移る。
夏休み中、部活の後で自販機に飲み物を買いに行った森と林の二人は、どっちも相手におごらせようと思って金を持っていかなかったせいで、自販機前で大げんかになったという。最終的にはお互いのポケットにたまたま入っていた小銭を合わせたら一本だけ買えたらしい。
そんなしょうもない話にも、厳島は楽しそうにくすくすと笑ってくれる。嬉しい。
誰にも邪魔されず、厳島を楽しませることができる時間。至福。
全然意味の分からない状況に置かれていて、先のことが全く見えないけど、それでも今は楽しい。厳島が笑ってくれるだけで楽しい。こういう気持ちを、何て呼べばいいんだろう。
続いて、梶川の話。
部活帰りにあいつと一緒に駅まで帰ると、ほかの高校の女子から頻繁に話しかけられる。梶川も普通に少し相手してるから中学時代の知り合いか何かだと思っていたら、毎回全くの初対面だという。
そんなことが、あいつには何度もある。本当にモテるやつっていうのはクラスでの立場がどうこうとかじゃなくてこういうもんなのか、と思い知った次第である。
「梶川くんってそんなにモテるんだね」
厳島は微笑む。
「かっこいいもんね」
うぐ。まあ、それは。
「そうなんだよ。あ、ちなみに俺も駅であいつと別れてチャリで帰ろうとしてたら、ほかの高校の女子に話しかけられたことがあるんだけど」
「えっ」
厳島が目を丸くする。いや、そんな驚かなくても。
「そうなの?」
心なしか声もさっきまでと違ってちょっと硬い気がする。引かれてないか、これは。オチを早めに言った方がいいかも。
「いや、結局その子たちも俺から梶川のことを聞きたいだけだったんだよ。だけど本人に声かける勇気がないからって、俺の方に」
「えー、それは加藤くんに失礼」
そう言いながら笑う厳島は、少しほっとしているようでもあり。
「いやー、俺もモテ期が来たのかと思ったんだけどさ。ジュラ紀のままだった」
よく分からないことを言って厳島を笑わせながら、次の話を考える。
今日聞いたばかりの梶川の元カノの話をしようかと思ったが、カッターナイフを突きつけられたという話が、さっきの謎の人影みたいなものが握っていたナイフとかぶった。
これはやめておこう。悪趣味だしな。
そこで、思いついた。
このおかしな状況をひと時でも忘れられる、楽しい話。
今までにあったことの話もいいけど、これからのことを話すほうが前向きになれて、楽しいんじゃないか。
『一緒に幸せになろうぜ!』
梶川と杉村の言葉が、俺の頭の中で綺麗にハモった。
おう、幸せになるぜ! とりあえずはこの学校からどうにかして脱出しないといけないけど、それはそれとして、厳島にあいつらと一緒に遊びに行く話をしよう。
いろいろと順番をすっ飛ばしてる気もするけど、誘えば断られない気がする。きっと厳島も喜んでくれるはずだ。どこに遊びに行くかって話で盛り上がれるだろうし、俺も厳島がどこに遊びに行きたいのか、ぜひぜひ聞いてみたい。
「それじゃあ、次は」
だけど、その時不意に厳島が言った。
「加藤くん」
「ん?」
厳島は微笑んでいた。
「今度は、私が話すね」




