11 ごく微量のノイズのように
しばらく、息が整うまで俺たちは廊下にしゃがみこんでいた。
だけど、二人で朝まで過ごす場所として、廊下っていうのはあまりに落ち着かなかった。
何というか、無防備すぎる気がする。
そりゃ廊下だから仕方ないんだけど、真っ直ぐ校舎の端までずっと見通せるし、こっちから見通せるっていうことは相手からもこっちが見えるっていうことだし。
どこか適当な広さの部屋に入った方が安心できる気がした。
さっきまで自分の部屋のベッドでうたた寝してた俺はともかく、厳島はちゃんとしたところで休ませてやりたい。
だからといってあんまり勝手の分からないところには行きたくない。いざというとき、混乱しちまう気がするから。
「厳島」
俺は廊下にうずくまる厳島に声をかけた。
「ここじゃ落ち着かないだろ。教室に行こうぜ」
俺は自分たちの教室に上がることを提案した。
いつもの教室。
数時間前まで、俺たちの日常があった場所。
そこに入ることで、少しは気持ちが落ち着くんじゃないか。そう思ったのだ。
「うん」
厳島は俺の言葉に素直に頷いた。
「よし。行こう」
俺は厳島の手をとって立ち上がらせようとしたが、その前にすっくと立ち上がられてしまった。
気を取り直して、二人で足音を忍ばせるようにして、階段を上る。
二階。非常口の緑色の明かりだけがぼんやりと照らす薄暗い廊下を、自分たちの教室まで歩く。
厳島は、俺に返事をしたあとは一言も口をきかなかった。ひどく疲れているように見えた。
1-3。俺たちの教室。
「俺が先に入るな」
厳島にそう言って、ドアをそっと開ける。
ここもおかしなことになってやしないかと一瞬心配したけど、目に飛び込んできたのはいつもの見慣れた教室だった。
窓から差し込む月明かりと街の明かりのおかげで、教室は思ったよりもずっと明るかった。
外を見れば、校庭の向こうに静まり返った街が見える。
車の音も犬の鳴き声も、何一つしない。ただ、ところどころで光る街灯だけが、死に絶えたような無人の街を照らしている。
そんな光景を敢えて厳島に見せたくなくて、俺はすぐに窓から目をそらした。
それでも廊下や校庭にいるよりは、この教室にいたほうが気持ちは遥かにましだった。
梶川や杉村、クラスの連中とバカ話をする、いつもの教室。
ここには、その明るさの残り香のようなものがまだほんのりと残っているような気がした。
「大丈夫だ」
厳島を招き入れた後でドアをそっと閉める。
このドア一枚だけで、外の世界と切り離されてこの場所が安全になったような気さえするんだから不思議だ。
自分の席に腰を下ろそうとして、俺は微かな違和感を覚えた。
「……ん?」
何か、引っかかる。思わず、教室を見回してしまう。
「どうしたの?」
だけど厳島にそう尋ねられても、それに答えられるほどはっきりと何かがおかしいわけではなかった。
「いや、何でもない。暗いからかな、ちょっと違和感が」
そう言って、椅子に座る。変に神経質になっているのかもしれない。ちょっと落ち着こう。
「ふう」
理由はないが、やっぱり自分の席はほっとする。
ほかの椅子と全く同じ作りなのに、この椅子が一番身体に馴染んでいるような気がする。
ごく自然な流れで、厳島も自分の席に座った。普段登校してきた時のように、バッグを横に掛ける。
俺は自分の席に座ったまま、隣の席の厳島を見る。
授業中に見る、いつもの角度。
疲れたようにうつむいている厳島に、声をかける。
「厳島、ちょっと前向いてみて」
「え?」
厳島が俺を見る。
「どうして?」
「いいからいいから。いつもの授業中みたいに黒板を見てよ」
「う、うん」
戸惑いながら、厳島が背筋を伸ばして前を向く。
その瞬間、教室の空気が変わった。厳島が纏う空気に、凛としたものが加わるのが分かった。
これだ。
俺は両手の親指と人差し指で長方形を作って、その枠の中に厳島を収める。
うん。
「やっぱり、これだ」
「え?」
厳島は律儀に前を向いたままで困った顔をした。
「何が?」
「いつもの厳島。授業中の厳島は、そうやってしっかりと前を向いてるから」
俺は猫背になって、隣の席の厳島をちらりと窺う仕草をする。
「そして俺は授業中、いつもこうやって厳島を見てる」
「なに、それ」
厳島がくすりと笑った。
「加藤くん、そんな風じゃないよ」
「でも、少し落ち着くだろ」
俺も笑う。
「いつもの教室で、いつもの角度」
「うん」
厳島が、初めてゆっくりと身体を俺の方に向け、俺の目を見た。
「いつもの角度の、加藤くん」
そう言って、もう一度にこりと笑う。
「いつものところにいてくれてよかった」
「おう」
少し照れるな。
「呼べばいつでも来るぜ。暇だからよ」
「加藤くんだけだよ」
厳島は、ぽつりと言った。
「え?」
「呼んで、来てくれたのは加藤くんだけ。あとは誰も出てくれなかった」
「まあな。それはそうだけど」
俺はますます照れる。
ただ電話に出ただけで、こんなに感謝されることってなかなかないだろう。
「加藤くん、ヒーローみたい」
そこまで言われると、さすがに気まずくなって苦笑いする。
「それは言い過ぎだぜ。さすがに照れるわ」
本当はとっくに照れているのだが、そう言って手を振る。
厳島はいつものように背をぴん、と伸ばした姿勢で、両手をスカートの上に重ねて置いて、俺の方を見ている。
俺の好きな角度。
俺の好きな厳島。
ああ、こんなちゃんとした子が現実にいるんだなって、毎日のように感動を新たにしてきた。
厳島が俺を見ると、ちょうど窓の方を向くことになるので、ただでさえ白いその顔は外の明かりに照らされて、まるで作り物のようにさえ見えた。
「私、学校で一人になってから、今初めて少しほっとしたかも」
厳島の言葉に、俺も報われた気持ちになった。
やっぱりここに来て正解だった。
「俺もだ」
そう言って、また猫背になって首だけを厳島に向ける。
「俺も、厳島がいつものところにいてくれてよかったぜ」
「その見方、だめだよ」
厳島がくすくす笑う。
「加藤くん、別にそんなに猫背じゃないよ」
「そ、そうかな」
「そうだよ。もっとどっしりしてる」
「それは誉めてるのか、けなしてるのか」
「どっちでもないよ。見たままの感想」
どう受け止めればいいのかちょっと複雑だったが、そんな風にすぐに俺のいつもの姿勢が出てくる程度には俺たちは日常を共有してたんだな、と思うと嬉しかった。
「確かにこんな姿勢だと、また杉村にも、前だけ向いとけって言われちまうな」
そう言うと、厳島は少し首をかしげて微笑んだ。そんな仕草も可愛い。
だけど、また少しだけ違和感を覚える。
なんだろう。
非日常、非現実すぎて、もはや違和感しかないはずなのに、その中でもごく微量のノイズのように混ざりこんでくる別の違和感。
「朝までは長いからな」
俺はその違和感を振り払う。
「ゆっくりしようぜ」
「うん」
月明かりに照らされて頷く、厳島の顔は綺麗だった。




