10 窓の鍵が開いてる
俺と厳島はお互いに腕を取り合ったまま走り出したが、すぐにそれがめちゃくちゃ走りづらいことに気付いた。
走り出して十メートルもしないうちに、どちらからともなく手を離していた。
内心、少し残念だったが仕方ない。
振り返ると、やはり謎の人影はゆっくりとこちらに近付いてきていた。
輪郭はぼんやりとしたままだが、その手のナイフだけはやけに具体的、というかくっきりと光っている。
「厳島! 学校にいるの俺たちだけじゃないみたいだけど、まさかあれもお前が電話で呼んだのか!」
走りながらそう言うと、厳島は激しく首を振った。
「知らない、知らない! あんなの今初めて見た」
「じゃあどっから湧いてきたんだよ、どう見てもまともな人間じゃなさそうだぞ!」
「だから、私だって知らない!」
もう一度振り返って確認。人影は相変わらずゆっくりとこちらに近付いてきている。
「余裕ぶっこいてゆっくり歩いてやがる。とりあえずこのまま振り切るぞ!」
「うん!」
二人とも毎日部活に精を出す体育会系の健康な高校生だ。グラウンドの端から端まで全力疾走するくらいのことはわけもない。
俺は厳島を置いてけぼりにしないように気を使いながら、それでもかなりの速さで走った。さすが、毎日バレー部の練習に励んでるだけあって、厳島もちゃんとついてくる。
グラウンドを一気に駆け抜け、そこから校舎の壁に沿うようにして走る。
俺はまたちらりと振り返って人影の位置を確かめた。
人影は相変わらず、こちらに向かってゆっくりと歩いてきている。
俺たちが走り出したからといって、慌てて追いかけてくる様子もない。
だが。
ちょっと待て。
「厳島、俺たち結構全力で走ってるよな!?」
「え、うん」
「それなのに何であいつ」
俺が背後を指差すと、厳島は首を振る。
「やだ! 見ない!」
「じゃあ口で説明するから!」
校舎の壁際を走りながら、俺はもう一度そいつを見た。
「後ろのあいつ、ずーっとゆっくり歩いてるけど、俺たちとの距離が全然変わらねえ!」
「えっ」
厳島が泣きそうな顔で俺を見る。
「どういうこと!?」
「言ったとおり!」
俺は背後をもう一度指差す。
「見れば分かる!」
「やだ!」
厳島は断固拒否した。
「加藤くんが見て!」
「見てるけども!」
また振り返って後ろの人影を再確認。もう何度目だ。
やっぱりおかしい。どう考えてもおかしい。俺たちとの距離が全然広がっていない。
こっちは一生懸命走ってるのに。あいつはゆっくり歩いているようにしか見えないのに。
それなのにどうして、そのままの間隔を保ったままで付いてこれるんだよ。
混乱はしていたが足を止めなかったおかげで、ようやく校舎の端が近付いてきた。
「厳島」
俺は声をひそめた。
「そこの角を曲がって反対側に出てすぐのところ、科学準備室」
「え、うん」
「窓の鍵が開いてる」
「えっ」
厳島は俺の顔を見た。
意味の分からない恐怖のせいで顔を歪めているが、それでも可愛い。
「どうしてそんなこと知ってるの」
「いいから」
何かあったときに校舎に忍び込めるように、一年の一部の男子――まあ梶川とか井口とかだけど――が中心になって、いろんなことに対して一番適当そうな科学の田中先生が管理してるこの部屋の窓の鍵をこっそり一ヶ所だけ開けたままにしたのは、夏休みに入る前のことだ。
案の定、田中先生は今に至るまでそのことに全く気付いていない。
それがまさかこんな時に役立とうとは。
というようなどうでもいい話を、厳島にだらだらと説明している暇はなかった。
「飛び込むぞ、そこに」
俺は言った。
「それで、鍵閉めてやり過ごすから」
「うん」
厳島はためらうことなく同意してくれた。それが嬉しかった。
厳島が俺を頼ってくれている。そう考えると、気合が入る。
俺たちは校舎の角を曲がると、そのまま校舎の壁に沿って、校舎の裏へ回った。
ようやく、俺たちの視界から背後の人影が消えた。
もう科学準備室はすぐそこだった。
俺は窓に飛びつくと、力いっぱい引いた。
まさかな。
一瞬嫌な予感が胸をよぎったが、通用門のときと違い、こっちの窓は普通に開いてくれた。
窓の縁に両手を掛けて、腕の力で一気に身体を引き上げる。桟に足を掛けて室内に飛び込むと、すかさずまた身を乗り出して両手を差し出す。
「厳島」
「うん」
俺の手を掴んだ厳島の身体を、力いっぱい引き上げた。それに合わせて厳島もジャンプしてくれた。
さすがバレー部。ばねがある。ぐん、と厳島の顔が近付く。
「きゃあっ」
二人の力が合わさって思わぬ大ジャンプになったせいで、厳島が小さく悲鳴をあげた。
その勢いを殺さずに厳島を窓から中に引き込むと、抱きとめるようにして準備室の床に下ろす。
「ありがとう」
「しっ」
窓をぴしゃりと閉め、クレセント錠を回す。
施錠はしたが、所詮はガラス一枚。このまま、この狭い部屋にいるのは得策じゃない。
「こっちだ」
準備室のドアを開け、俺たちは廊下に出た。それから、再びドアを静かに閉める。
暗い廊下に二人の、はあはあ、という呼吸音だけが響いていた。
まだ、安心できない。
俺はドアに耳を押し付けて、向こうの気配に耳を澄ませた。
鍵を閉めてある以上、窓ガラスを割りでもしない限り、入ってはこられないはずだ。
窓を開けようとしたり、叩いたり、そんな音が少しでもしようものなら、校舎に入ったことを気付かれたということだから、ここからすぐに逃げなければならない。
それでも、外を闇雲に走るよりは、校舎の中の方がまだ隠れる場所もある気がした。
外の方が広いし逃げやすくて安全だという常識は、学校全体が見えない壁で囲まれてしまっている以上、通用しない。
それにしても、自分の呼吸音がうるさい。
この程度の距離を走っただけで、こんなにぜえぜえいってる。
これは距離云々じゃなくて、シチュエーションの問題なんだろうな。恐怖のせいで、無駄に力が入っちまったんだ。
それでもできるだけ息を殺しながら、しばらくドアの向こうの物音を探ってみたが、窓ガラスを叩き割る音はおろか、窓を開けようと揺らす音も、窓の前を通り過ぎる足音も、何一つとして聞こえてこなかった。
……もういいか。
俺は耳をそっとドアから離した。
厳島は壁にもたれかかってまだ喘いでいた。
「大丈夫、来なそうだ。しばらく中にいよう」
俺の言葉に、厳島は力なく頷いた。




